死にたがり魔王は覚悟を決めない(連載版)

雪原いさご

第1話 自主封印の外へ

「よく来たな勇者よ」


 果ての無い真っ白な空間で男が目を開けた。翡翠の中に空の色が混ざる妙な色合いをした瞳は世界の敵に相応しく鋭い。歳は二十歳を多少越えたところか。黒混じりの胡桃色の髪は括られていても膨らみ、獣の尾を彷彿とさせる。その頭には尖った獣の耳が天に向かって伸びていた。

 長い瑠璃紺の外套に身を包んだ男は魔王と呼ばれる──否、魔王と呼ばせている存在だった。名はアルーフ。


 威圧感のある眼光で正面を見据えていたアルーフだが、すぐにその視線は足元に落ち、にわかに顔面が赤く染まっていく。


「来てないし!!」


 誰が見ているでもなし。それでもアルーフは頭を抱えてその場にうずくまった。押さえた耳の先まで震えるほどの羞恥が襲いかかる。


「おかしいな、誰か来たと思ったんだけど……。いや、来てたにしてもアレはやめておこう。アレはだめだ。あの後なにか話すにしても恥ずかしすぎて何言ってるか言われてるかわけわからなくなりそうだし普通でいこう。普通で」


 ぼそぼそと繰り返す自問自答。

 空振りで恥ずかしい思いはしたが逆に誰もいなくてよかったんじゃないかとか、寝起きで勇者に立ちはだかるとか無理なんじゃないかとか、調度品的なものがあったほうが良いんじゃないかなんてことを気が済むまでひとしきり呟いていた。


「よし。次アリアに会ったら、魔王っぽさは追求しない方向性でいくってちゃんと伝えよう」


 アルーフは頭を上げ、決意と共に拳を握った。だがそれも虚しい現実逃避だと思い出して大の字に身を投げ出す。

 女神の役割を担っているアリアが次に領域に来るときは勇者を伴っているはずだった。会話する状況なわけがない。


 頭上を漂う機関からくりはひたすらに時を刻む。刻々と変わる文字列は、かれこれ六千年程アルーフが魔王としてこの領域と呼ばれる空間に引き籠もっていることを示していた。

 アルーフは変わりゆく文字列をなんとなしに眺めていたが、いつもこうしているわけではない。こんな何も無い空間で、勇者が魔王を倒しに来るのをひたすら待ち続けるなど数日で気が狂うだろう。だからこそ泥の中から目を醒ますのは領域に来訪者があった時のみと決めていた。

 来訪者といってもアリアしかいないわけだが。勇者が来た場合は自動的に最後の来訪者ということになるからこの際置いておくとする。


 外界に勇者が現れてからは、魔王討伐の旅に同行するアリアが状況を伝えるために頻繁に訪れていた。確か一日に一度は目醒めるような間隔だったか。こうして間が空くのは久しぶりだ。

 アルーフは最後にアリアが訪れてからの月日を数えようと、仰向けに寝っ転がったまま人差し指でなぞるように文字列を追う。数え終わると同時に目は大きく見開かれた。


「千年!? なんでまだ勇者来ないの!?」


 思わず声を荒らげ、音を立てながら勢いよく上体起こした。アルーフは顎に手を当て考え込む。何かあったとしか思えなかった。情報が無い中では何かとしか表せないが。

 アリアが最後にこの領域に来たのも勇者の様子を伝えるためだった。勇者が封印すべき塔を全て封印し終わり、魔王殺しの聖剣を完全なものにしたという。だから次に何者かが領域に来るとしたら勇者だと思っていたのだ。

 勇者が来るだろうからと待ち構えていたが故の失態を思い出してアルーフは咳払いをする。


「まさか世界が滅びたとか」


 一番困る想定を口にしてみればそれなりに現実味があった。アルーフの眉間に皺が寄る。突拍子も無い発想ではなかった。この世界には一度終わった──終わりかけたという過去がある。


 世界を整え、守っていた精霊の大半が食い殺されたあの日。境界を破って彼方から侵入してきた竜によって全てが変わり果ててしまった。

 命の源でもある淵源素ネウマを竜は喰う。淵源素を喰われた一帯は土も植物も人も関係なく、白く硬化し抜け殻となった。喰われずに済んだ土地も竜の毒に汚染され、美しい緑と水に囲まれた日々は唐突に終わりを告げる。


 最も力を持つ精霊によって竜は抑え込まれたが、世界大きく壊れていた。精霊によって支えられていた世界は、精霊なしでは崩壊を待つほかない。

 大半の人々は緩やかな死を嘆きつつも受け入れていた中、抗う人々もいた。精霊の力にも彼方からの力にも頼らずに独り立ちできる新たな世界を望んだ人々がいたのだ。

 アルーフもそのうちの一人だった。己の手で壊してしまった日々を取り戻したかった。緩やかに、そして確実に可能性が零に近付いていく未来よりも、不確かで不安定な可能性を持つ未来に手を伸ばしたかった。


『聖剣を携えた勇者によって魔王は倒され、世界は救われる』


 そんな筋書きが用意されたのはちょうどその頃のことだった。壊れた大地を砕いて編み直し、新たに動き始めた今の世界は不安定だ。全ての生命に十分なだけの淵源素はこの世界には残っていない。

 竜も淵源素も彼方からやって来る。淵源素欲しさに再び境界に大穴を開けるわけにはいかなかった。誰もそれができないようにするために勇者が境界へと続く塔を封印するのだ。

 そして、足りない淵源素を補うために魔王は死ぬ。


 アルーフの中に竜は押し込められていた。竜を抑え込んだ精霊諸共だ。

 聖剣は、竜と精霊両方を大地に還す力を持っていた。それを扱える素質を持った勇者によって魔王が斬られれば、竜が喰ってしまった淵源素も大地に還り、世界に平和が訪れるというわけだ。

 逆に、いつまで経っても魔王の役割を持ったアルーフがのうのうと生き永らえているということは、それだけ世界が破滅に近いということだった。

 この領域は外界から隔離されている。領域だけが残って他は全て無に帰しているということは十二分に考えられた。


「確かめに行きたいけど……」


 アルーフは唸る。ピクニックにでも行くような気軽さで領域から外界に出られたら訳無い。だが立ちはだかる障害が二つほどあった。

 一つは外界で活動するための身体がない事。二つはアルーフの存在自体が外界にとって害になること。

 身体に関しては今の姿形を外界でも保てるようにすれば、表面上なんとかなる。問題は二つ目だった。


 存在自体が害になるというのは身の内の竜のせいだ。

 竜の力は命を狂わせる。毒とも言えるその力は、獣の姿を変え凶暴化させ、人や精霊を化け物に変えた。魔物や魔族と呼ばれる、本来は存在しなかった災厄。それを引き起こす力を抱えているわけだ。

 僅かに生き残った精霊や女神のアリアの手で、外界の毒は少しずつ薄められているはずだった。うっかりで世界中に竜の毒を撒き散らしてしまうなんてことがあったら顔向けできない。いつ何時竜の力が溢れ出すかなどわからなかった。


 アルーフは頭を抱え込む。外界が滅びているかもしれないという状況で、このまま待つという選択肢は無い。領域に誰も来ていないはずなのに目が醒めたことには、何か意味があるような気がしていた。

 なにかないかと目を開いて辺りを見回しても、ただ領域の果てない空間が広がっているだけ。


──領域?


 引っ掛かるものを感じたアルーフは手を前に掲げた。

 今はアルーフがアルーフとしての形をとっているから何も無いが、平素はこの領域内に竜の力も精霊の力も無秩序に漂っているはずだ。それでも外界に力が漏れ出すことはない。


「そうだ。身体の中に領域があるようにすればいいんだ」


 身体を維持できる最低限の力だけ残して、残りは領域に押し込めればいい。もし力を押し込むだけなら身体が耐えきれずに全身から血を噴き出すことになる。あれは死ぬほど痛いので御免被りたい。

 だが身体は身体として、その内が領域と同じになっていれば、竜の力は外に簡単には溢れ出ることはないはずだ。


 アルーフは膝を打って真剣にその方向で検討し始めた。

 自分の中に宇宙を作って更にその中に自分を入れると言い出しているようなものだが、不思議なことに無謀とは微塵も思っていなかった。時間だけはたっぷりとある。実現するために必要であろう力も竜と精霊のお陰で豊富にあった。

 それにこの領域は今は亡き天才が造り上げたものだ。きっとどこかに何か手がかりになるようなものがあるに違いないという謎の確信がアルーフを後押しした。


 決心してしまえばアルーフの顔は晴れ晴れとする。

 勇者と聖剣を探すための第一歩だ。個人的には真っ先にアリアを探したいところだったが、逸る気持ちを抑えてアルーフは領域を構成し直す術を探り始めた。自分を死に至らしめるために。


 ◇◇◇


 砂煙の中、突如として空間が割れた。続いて伸びる腕。何度か腕が空を切ったかと思えば一息に全身が飛び出した。アルーフだ。

 空を掻いていた足が地面に触れる。領域の外が存在していたことに顔を緩め安心したのも束の間。アルーフは勢いのまま固い地面に膝をついた。


「あいたたた……」


 立ち上がろうと踏ん張るアルーフだが、領域内とは力のかかり方が違うようで何度もよろける。歩き出そうと片足を踏み出すと、出来の悪い操り人形のように足がもつれ再び地面と仲良くする羽目になった。思い描いていた感覚と実際の身体の動きが微妙に噛み合っていない。

 何度も挑戦しては何度目かわからない膝をつく。思い通りにならない自分の身体に溜息が出た。


「う、生まれたての魔王……」


 苛立ちを紛らわすために口にした冗談は誰もいない砂煙の中に消えていった。数瞬遅れてやってきた羞恥心に唇を噛みながらアルーフはそびえる木まで這う。再び足に力を入れ、木を頼りにしっかりと大地を踏みしめた。掴まり立ちする赤子状態だ。


 そんな赤子状態だというのにアルーフの耳は不穏な音を拾った。獣の唸るような声。茂みの向こうから着実に近付いてくる。狙われていると確信したアルーフは青ざめた。

 今の状況では戦うも逃げるもままならない。少なくとも武器を振り回して戦うなんて芸当はどう考えても無理だ。その場から動かずに抵抗できる可能性があるとしたら淵源素を使った術くらいか。


 アルーフは打ち出す矢を想像しながら淵源素を手元に集め始める。だがすぐに違和感に気付いた。全然集まらない。当然だった。アルーフの知る世界よりも遙かに淵源素は薄く、同じ感覚で術を扱おうとしたら不発に終わるに決まっている。


──どうする!?


 置かれた環境に思い至っても淵源素を手元に集めるのは止めずにいた。集めてからどうするかは考えていなかった。

 茂みから獣が躍り出た。一匹だ。体躯はそう大きくない。前足を上げて立ち上がってもアルーフよりも小さかった。それでも猛獣には変わりない。尖った牙を剥き出しにして開けられた口はアルーフの喉元を狙っていた。


「どうとでもなれー!!」


 手元に集まった何かを思いきり投げた。術でもなんでもない。ただ投げられただけの力の塊は獣の鼻っ面に当たり、大きく弾けた。キャフンと犬の鳴くような声を出して獣はひっくり返る。痛手は与えられなかったようですぐさま起き上がる獣。即座に飛びかかるでもなくアルーフの様子を窺っていた。勝てる相手かどうかを見極めている。

 ここで舐められるかどうかが勝負の行く末を決めるに違いなかった。生唾を呑み込む。


「ぐわー! わーっ!!」


 アルーフは大きく両腕を掲げ、大声で威嚇した。急な動きに獣は怯む。その隙を見逃さずアルーフは獣にじりじりと摺り足で近付いていく。獣は自分よりも遙かに大きい相手に尻込みし、とうとう背を向けて去って行った。

 大勝利である。


「あ。歩けてる」


 ほっと一息ついたアルーフはそこでようやく何にも掴まらずに歩けていたことに気付いた。足元の土を強めに踏みつけてみてもよろけることはない。追い込まれればやれるもんだなと、アルーフは上機嫌に耳を揺らした。


 ただ一つ解決すれば一つ問題が出てくるもので、今度は淵源素の違いがアルーフの頭を悩ませた。厳密に言えば、今の外界には淵源素は存在しない。魔素まそという紛い物に薄めることでギリギリ存在を保っている状態だった。

 命にも影響する淵源素と、ただ術を扱うために使われる魔素とでは性質的に異なる部分が多い。とはいっても似たようなものだろうし、身体の扱いに慣れるのと同じようなものだと開き直ることにした。


 アルーフは荒野を歩き回りながら、ひたすら身体の感覚に慣れるために無意味に走ったり飛んでみたりを試していく。感覚のズレが少しずつ無くなってきた頃合いには武器を振り回してみたりもした。

 間合いが今ひとつ取れないうちは、武器にしている鎖付きの短剣で自身がぐるぐる巻きにもなったものの、小さな獣を相手にできる程度には、ぎこちなくも動けるようになってきていた。


 ようやく辺りを見回す余裕が出てきて、周辺をぐるりと見渡せば砂や岩に覆われている大地がほとんどだった。乾燥して砂が舞う荒野。時折茂る緑も、知る色よりも全体的に灰色がかっていた。いま立っている地面こそ乾燥した固い地面だが、遙か向こう側には砂を集めて作ったような柔らかな山も見える。どれもアルーフには馴染みの無い光景だ。

 領域がこの世界のほぼ中央に位置していたことを考えると、アリアの話していた砂の国だか都だかが近いはずだが、それらしいものは見当たらなかった。

 道行く人にでも何か訊けたら良いが、先ほどから遭遇するのは見たことのない獣や巨大な爬虫類くらいのものだ。


 人という種は完全に滅びて、世界の全ては荒涼とした地に覆われたと言われても信じてしまいそうな状況にアルーフは心細さを感じていた。誰でも良いから人に出会いたかった。

 アルーフは闇雲に歩き回るのをやめて、道らしくものを探す事に専念した。街道のようなものがあれば、人通りが少なくとも人に出会える確率は上がるだろう。


「あった……!」


 足元にはいくつかの轍が交錯している。ようやく出会えた人の気配にアルーフの胸は躍る。少しでも音を拾えるようにとフードも被らず、獣の耳をあちらこちらに向けながら轍を辿っていく。

 道中誰にも出会えなかったとしても、轍を辿っていけば街か何かに行き着くだろう。

 楽観的な気持ちで黙々と道を辿っていると、後方から何か音がする。耳を向けると、どうやら蹄の音のようだった。同時にするのは車輪の軸が軋む音。振り返ってみれば、荷車を引いた馬が駆けてくるのが遠くに見えた。


──人だ。


 アルーフは目を輝かせた。こちらに向かってくるに決まっているが、身体を反転させて馬車の来る方向へと足を向ける。迫り来る馬車にうっかり轢かれないように脇に寄りつつ、アルーフはその馬車を呼び止めた。


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※この話だけ大幅に加筆しているので、後々の話と被る部分があるかもしれません。

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