ホテル
空
ホテルでのこと
やっと終わった。
服を着替えて、部屋から出る。
「お兄ちゃん!」
と、後ろから呼び止める声。見れば昼間、彼が助けた迷子だ。目線を合わせ「ん?」と要件を問う。
しかし幼女はなぜか、続けようとしない。顔と手を交互に見、フリーズしている。トイレにでも行きたいのだろうか。それはそれとして、幼女と成人男性一人。あまり――という大変――この絵面はよろしくない。こちらまでそわそわしてしまう。なおも無言を貫き、こちらの手のあたりを凝視する幼女。何か言わなければこの状況は続く。かといって、こちらから振る話題も思いつかない。
ながい沈黙ののち、幼女は困惑気味に首を傾げ「ばいばい」と手を振った。とりあえず、手を振り返す。
(なんだったんだ)
最近の子はよくわからない。
もやもやする気持ちとともに部屋に戻った。
翌朝。なんとなくけだるさを抱えたまま、目を覚ました。もう昼近い。受話器をとり、ルームサービスで軽食を頼んだ。運ばれてきたサンドイッチを食べる。なかなかにおいしい。家では食べられない味だ。サンドイッチに舌鼓を打っていると、ノックの音が聞こえた。
ハイハイ、今出ますよーとサンドイッチを飲み込み、ドアを開ける。ホテルのスタッフがいた。手には配膳車、その上には同じような軽食が乗っている。
――頼んだ覚えはない。
スタッフと目線が交差する。しかたなく、口を開いた。
「もしかして、ルームサービスを?」
「ええ、夜八時ごろにお電話がありまして――ですが」
彼はあたりを見回し、小声で言った。
「いくら呼びかけてもお返事がなく、弟様なら何かご存じかと」
「……。わかりました、電話をかけてみます」
言って、足でドアを抑えたまま、上着に入れていたスマホをとる。コールが一つ、二つ、三つ……でない。一言も口を開かず、スマホを耳に当てている様子を見、スタッフは戸惑っているようだった。
電話を切り、首を横に振る。
「何度かかけてみますけど、一応、部屋を開けてもらっても?」
「わかりました。いったん、フロントに戻らせていただきます」
「ええ」
何回も電話をかける。五回目のかけなおしのときに、先ほどのスタッフが中年の男を連れてきた。部屋に引っ込みたい衝動を抑えながら、ドアの前に立つ。
「大丈夫でしょうか」
何も言えなかった。
上司らしい男が、カードキーをかざす。
ピ、と音を立てて開錠した。肩越しに異常を察知する。締め切られた白いカーテンに、赤い線。怖いぐらいに整頓されていた部屋は、とっ散らかっている。明らかに何かがおかしい。誰も何も言うことができずにいた。
「兄貴?」
どうにかして声を絞り出す。応答はない。
「け、けいさつ、警察を呼びましょう」
後ろでカタカタと震えるスタッフが言う。全員、顔を見合わせ、うなずいた。
すぐに警察が来た。窓の外が赤く染まり、物々しい雰囲気を醸し出していた。それを見下ろし、静かに水を飲む。ていねいなノックに、すぐに応対した。ドアを開けてくれた中年のスタッフの背後に、このホテルには似つかわしくない男が二人。すぐに警察だとわかった。手の甲を隠した。
「警察の者です。お話を伺いたく」
「ええ、かまいません。どうぞ」
彼らを部屋に招き入れる。定型文のような挨拶をかわしてから、背高のほうが口を開く。
「お二人は実のご兄弟なんですよね、しかも双子の」
「ええ。そっくりとよく言われます」
「それにしては反応が薄いような」
「はは」思わず笑みがこぼれる。「なんとなくそうだと思ってたんです」
「といいますと?」
「金遣いが荒くて、よくいろんな人とトラブルになってまして――警察の厄介にもなっていたみたいなんです。俺が一人暮らしを始めてからは、疎遠になってましたし」
「そうですか。一応聞きますが昨晩、言い争う声はしましたか」
「言い争う、というよりすごい物音が」
声を低くし、刑事たちに伝える。
「実は、ドラッグをやってたみたいなんです。昨日訪ねた時に、テーブルに注射器がありました」
「ドラッグのほうはいつごろから?」
「わかりません。少なくとも、俺が一人暮らしをする少し前――だから、十一月ぐらいには」
「なるほど」
「これは形式上の質問なんですが、二十一時にはどこに?」
「兄に呼び出され、金を無心されました。すぐに出ていきましたよ。もう首が回らなかったみたいで、最後の頼みだと」
「なるほど、そうでしたか」
「ええ。だから自殺しててもおかしくないかなと思ったんです」
「そういえば、あなたがチェックインしたとき、ホテルのフロントでひと騒動あったとか」
「偶然、駅で会いましてね。土下座して大騒ぎでした。たぶん、いろんな人が目撃しているのではないかと」
「それはどうして?」
「泊まる場所がなかったみたいなんです。結局ホテル側のご厚意でお部屋を提供させていただいたんです。……まあ、その代金は私が払いますが」
「ははあ、苦労しますな」
その後も二、三質問をかわし、刑事たちは去っていった。
それから何時間かしてチェックアウトの時刻になった。荷物をまとめ、忘れ物がないことを確認してから、ドアを開ける。
「お兄ちゃん」
と聞き慣れた声、あの幼女だ。まさか今回も「ばいばい」だけ言いに来たのではないだろうか。こちらはもうホテルを出ていくのだから間違いではないが。一秒ほど考え、しゃがむ。今度は一体どうしたのだろうか。
彼女は愛らしく首を傾げ、聞いてきた。
その目線は、手の甲へとむけられている。
「お兄ちゃんの部屋、こっちじゃなくてお隣よね?」
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