第7話 颱風の目


 暴風が家にぶつかる。豪雨が屋根を打つ。暴風雨のさなか、勇魚家も風雨に襲われていた。締め切られた勇魚清美の部屋には、勇魚と牛島が不安を紛らわせるようにテレビニュースを横目に談笑している。


 吹きすさぶ風が大粒の雨を雨戸にたたきつける。まるで人が戸を叩くような音に掻き立てられた不安は締め切られた部屋の中で行き場を失い、体を占領する。時折ぶつぶつと途切れるテレビの映像では、アナウンサーが外の情報を伝えているようだが、簡略化された図で説明されるその情報にはまるで現実感がない。そんな状況の中でもけたたましいアラート音とL字ニュースがこれ以上なく危険を物語っていた。

 戸を叩く音はだんだん大きくなり、やがて大勢が太鼓を打ち鳴らすほどになると、雨は突然ピタッと止み雲間から光が差し込んだ。光は明るいはずなのにどこか陰りを感じる灰色で、弱まった風に霧雨がもやのように漂うと、沈みかかった太陽と街灯の交錯がもやに溶け出し、街は幻想的な風景となった。しかし異界のごとき風景と化した街も、それを見る人がいなければ普段の街と変わりない。雨戸を締め切り、家の中に閉じこもった人間たちにとっては、外の様子など知る由のないことだ。


 雨風の音に停電の気配を感じて怯えていた勇魚は、急に訪れた静寂に身震いした。地理的に台風に慣れた土地の生まれではあるが、昨年の災害のこともある。雨がピーク達するかという瞬間に、まったく消え失せてしまったと勘違いするほど吹き降りの気配がなくなったのは初めての経験で、夕飯前だというのにすっかり食欲が失せてしまった。喉にこみ上げる不安は熱く、口の中はカラカラに乾燥している。

 さきほどまで、「帰れるかなあ」などと能天気に暴風雨という非日常を楽しんでいた牛島も、いきなり弱まった雨には不安を感じたようで、すっかり静かになり気を紛らわせるようにスマートフォンの画面にかじりついていた。爪と画面が当たる音の激しさは牛島の動揺そのものだ。しばらくスマートフォンを叩く乾いた音を静寂の中に響かせていた牛島であったが、突然すくっと立ち上がった。


「外、どうなってるのかな」


 ぽつり、小さくつぶやく牛島の声には生気がない。目も虚ろでどこを見ているのかわからない。「雨戸……開けるのはまずいかな」牛島は、ぶつぶつと独り言を続ける。


「ちょっと弱まっただけで、またすぐ本降りになるよ」


 牛島は勇魚の返事も聞かず、ふらっと何かにいざなわれるように部屋を出た。重さを感じさせない軽い足取りで、足音を立てずに玄関へ向かう。豹変した友人の様子が心配になった勇魚は、牛島が部屋をでて数十秒経ったあとにおずおずと立ち上がり牛島を追うことにした。しかし、部屋を出ても牛島の姿は見つからない。外の様子が気になるらしいから、玄関に向かったのだろうか。勇魚は玄関に向かおうとするが不穏な空気に足が重い。静かになった家では床が軋む音が鮮明に聞こえる。


「こんな日に、なんで外なんて見たがるのよ」


 悪態をつき、気を紛らわせる。広い家ではない。気が付けばもう玄関で、戸も見える。そして、戸の前に立つ人影の姿も。ドアノブに手をかけようとしている牛島の姿。


「待って! 開けるのはダメだって」

「……黒いのに呼ばれてる」


 叫ぶ勇魚を意にも介さない感情のない声。

 牛島は勇魚の制止も聞かずにドアノブに手をかけた。


――封が破られた家の中に、生暖かい風と霧雨が吹き込んだ。





 神倉が海岸沿いの駐車場に到着するころには雨はすっかり弱まっていた。車から降りると海から吹き込む風が神倉の体にぶつかる。神倉は風をものともせず駐車場を出て軽やかな足取りで堤防へと向かった。堤防の上に登り、海を一望すると黒い海が凪いでいる。遥か水平線は穏やかで、深淵の色に染まっていた。ほうっと深淵に魅入られ固まっていた神倉であったが、足元の水面からブクブクと泡の音が聞こえると我に返り、磯の方へとまた歩き出した。磯は普段よりも穏やかなくらいで、たゆたう波の音と自らの足音しか聞こえない。磯の縁では、堤防の上から見たような水泡が絶え間なく湧き出ていた。


 暗い水面がゆっくり盛り上がると、水を割って鈍い光を放つ双眸が現れた。大きな丸い目は魚のようで、黒目がちでどこを見ているのか判らない。目の周りは硬いうろこで覆われていて、低い鼻とだらしなく開いた口はまるで深海魚だ。しかし正面についた目鼻の位置を見るに、その顔は人間のようでもあった。


「……コれハコㇾは、ヒさビサに来てみれバ。オ前がワレラヲ呼びもドしたのか」


 魚のような人間はゆっくりとした口調で神倉に語り掛けた。およそ人間の声帯から発せられることのないような擦れた、しかし重く響く名状し難い振動が神倉の鼓膜を震わせる。空気から耳へ、耳から脳へと伝わった振動は、全身へと危機の信号を送る。頭の先からつま先まで、毛穴の一つ一つに至るまで神倉の体は、この場から逃げるように精神に要請していた。

 しかし、神倉がその要請を聞き入れることはない。


「そうだ。お前らを呼んだのは俺だ」


――早く逃げろ。

 足が、ガタガタと震えだす。


「俺は、最高の最期を迎えたい」


――何を言っている。早く陸へ、車まで走るんだ。

 握り締めた拳はじっとりと汗ばんでいる。


「こんな苦界から、さっさと逃げ出したいんだ。だから……」


――その言葉を言ってはいけない。

 乾いた唇が張り付いて、うまく喋れない。


「連れて行ってくれないか、お前たちの住む浄土に」


 その瞬間、高波が磯を呑み込んだ。岩にぶつかり泡立った波は白い。しばらくの間、波は生き物のように暴れ回り岩肌を削った。ひとしきり暴れまわったあとで徐々に波が引き、黒い岩肌があらわになると、そこには魚面の人間も神倉の姿も残されていなかった。

 




 玄関から吹き込んだ風は、廊下をすり抜け家の中を暴れまわる。出口を探して右へ左へ、花瓶や小物を押し倒す。風圧の中で、なんとか目を開けると、牛島は靴を履き、風をものともせずに外へと歩き出そうとしていた。


「だから、外は危ないんだって」


 のろのろと緩慢な動きの牛島を押しのけて、ドアノブに手をかける。外からの風圧を受けた扉は勢いよく大きな音を締まり、勇魚に押しのけられて壁に寄りかかっていた牛島はよろめいてその場にへたり込んだ。


「あれ、なんで玄関に」


 座り込んだまま牛島は、勇魚を見上げながら怪訝そうに尋ねた。

 さっきまでとは違うよく知った友人の姿に、勇魚は怒りよりも安堵を感じた。気が付くと顔ががほころんでいた。それだけに先ほどまでの牛島の異様な雰囲気が恐ろしかったのだ。そして、そのことをまったく覚えていない様子の牛島にも、恐怖を感じていた。全身から脂汗が噴出し、じっとりと肌を伝う。拍動が轟音のように感じられる。叫び声をあげてここから逃げ出してしまいたい。そんな感覚が今でも身体に残っている。

 しかし、本当に何も知らないのであろう牛島の無垢な黒い瞳を見ると、不安が和らいだような、すこし体が軽くなったように感じる。勇魚は手を差し出し、牛島を立たせる。いつの間にか溜まっていた唾は泡立っていた。今まで見たものを気にしないように、忘れてしまえるように、ごくりと、生唾を飲み込んだ。


「黒いのが呼んでるって、外に出ていこうとしてたんよ。覚えてないの」

「黒いの? 何それ、わたしそんなこと言ったっけ」


 すっかり散らかってしまった空間に2人。

 静寂の時間の中に身動きができず立ちすくんでいた。

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