第5話 野分来りて

 ひとまず、成功といったところかな。

 暗雲立ち込める空の下。街を一望できる山の上。

 見渡した海は、青魚の腹のような彩度の低い灰青が広がっていた。


『明日の夜から週明けにかけて、西日本一帯で激しい雨が――』


 テレビの音が庭にまで響く。大音量で垂れ流されるニュース。

 つけたままにされたテレビも、大音量の音声も、誰にも注意されることはない。

 寂しくもあり、むしろ居心地よくもある。

 邪魔をする人がいなければ、住み慣れた家が結局一番落ち着くものだ。




 高校を卒業してからずっと帰ってくることのなかった故郷に、初めて帰ってきたのは昨年のことだ。何のことはない。物置を開けるから人手が欲しい、手伝ってほしい。そんな理由で呼び戻された。断っても、と思ったし、無償の労働力として消費されるのは気に食わなかったが、その時は疲れていたのだ。手伝いついでに腰を落ち着けて、休息をとるのも悪くない。そう思ったのだ。


 ――物置の奥。じめじめした重い空気の中心にその本はあった。

 まるで生皮のような装丁。表紙にかかった埃を払う。表紙に触れた指から脳まで、悪寒がゆっくりと実感を残しながら駆け上がった。1枚、表紙をめくる。黄色く劣化した紙は慎重に触らないと、あっという間に破れてしまいそうだった。もう1枚、頁をめくる。虫食いに、黴。正直、触りたくはない。けど、もう本に捕まってしまったのだ。そして、もう1枚。ゆっくりと、破ってしまわないように頁をめくる。そこに記されていたのは――。



 〇



「曇ってきたねえ」


 牛島は車の窓から空を覗いた。


「今日はぎりぎり降らないかな。うーん、土産屋に着くまでは、降らないでいてほしいなあ。あんまり降ったら、明後日帰れなくなるかもしれないし」

「帰れなかったら、もうちょっと居ればいいよ。なにか用事があるなら別だけど」


 2人は浦部町に向かっていた。少し荒っぽい走りの勇魚が運転する車の中で、牛島はスマートフォンに目を落とす。揺れる車内で画像や文字をスクロールしていくと、くらっと平衡感覚が失われた感覚に襲われたが、赤信号に停止するとそれも落ち着いた。これから向かうのは浦部町にある土産屋だ。商品棚には魚を模した置物や貝殻の加工品などが並び、一角には干物などの食料品を扱うエリアもある。


「無難にお菓子とかがいいと思うよ。あ、これ美味しいからおすすめ」

「へー、さかなせんべいか。ちょっと食べてみたいな」


 商品を見て回る。海が売りというだけあって商品は海系のものが多いな、小物でも買っていこうかと考えていると、視界の隅にほかの人間の姿が映った。

 土産屋には、勇魚たちのほかに1人の客が来ていた。年のころは勇魚たちと変わらないくらいに見える。地味な装いのその女性は、静かに戸棚の商品を物色していた。



 〇



 吾妻はその日、浦部のお土産ショップに向かうことにした。明日の朝、浦部を出る予定だから余裕をもって何か買って帰ろうと考えたのだ。浦部の土産屋は時期が悪いのか天気が悪いのか、ガラガラにすいていて寂しい雰囲気を漂わせている。


 どこかありふれた、どこかで見たような土産物が氾濫する店内の棚々は、吾妻にとって、さして興味のないものの寄せ集めでしかない。しかしその中でも、一つだけ、吾妻の目を引くものがあった。いや、目を引くというよりも、すでに脳裏に焼き付いた強烈なイメージを呼び起こす、そんな絵が、資料館で見たあの曼荼羅が、そこにあった。それは、観光地には珍しくないポストカードが陳列されたラック、その中に。


 ただの紙に印刷されただけの絵。

――その中に。じっとこちらを睨みつける黒い生き物がそこにいた。刹那、重く息苦しい水の中、真っ暗な光の届かない深海に、厳然と佇む都市の姿が見えた気がした。




「こんにちは」


 後ろから声をかけられて、牛島はポストカードを落とした。声をかけてきたのは若い女のようであった。


「驚かすつもりはなかったんですけど……、すごく体調が悪そうだったので。大丈夫ですか?」

「……はい。ちょっと……いえ、少しくらっとしただけです。夏バテですかね」


 落としたポストカードを拾い上げる。幸い絵の面は裏になって落ちていて、黒い生き物の姿は見えない。あの一瞬の海底都市のイメージも、もうはっきりとは思い浮かべることができない。気味の悪い白昼夢だったが、それだけだ。なんでもないイメージでしかない。絵を裏にしてポストカードをラックに戻す。声をかけてきた女は、まだそばに立っているようだ。


 はやくどこかに行ってくれないかな。心配して声をかけてくれたらしいし、むげにするのも気が引けるが、いきなり声をかけられたのは正直不快だ。


「あの、ポストカード裏になってますよ」

「そう思うのなら、直しておいてください」


 そう言って早足で店を出た。なにかに、急かされるような足取りで、あの黒い生き物から一刻も早く離れようと、自動ドアを抜ける。


――外は雨が降っていた。


「まれ、どしたん?」

「うん、ちょっと気になる人が……」


 店の中から気の抜けた声が聞こえてきた。おそらくさっきのやり取りを見ていた誰かだろうが、今は無視だ。早くホテルにでも戻ろう。傘はもっているが、折りたたみ傘だ。本降りになる前に帰った方がいい。


 そんな期待を裏切るように、ホテル前の信号は雨の中に赤い光をにじませていた。雨脚は激しくなり、傘に収まらなかった肩や脚を刺す。大粒の雨はアスファルトにはじかれ飛び散り、足を濡らす。

 車が走っていないなら、もう無視してしまおうか。首を振り、交差点の様子を確認するとホテル入り口の自動ドア、そのガラスに映った自分の姿が目に入る。その姿に、全身が凍り付くのを感じた。すくんだ体は動かせず、ガラスの向こうの自分と見合ったまま動けない。


――ガラスに映った自分の姿は、光の届かない深海のように暗く青ざめた顔をしていた。


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