遠海へは死出の旅

笛吹ケトル

一部

第1話 磯良の海

 冷房の冷たい空気に満たされた電車から一歩外に踏み出した瞬間、潮を含んだ生暖かくベタついた風に肌を撫でられる。真っ白に曇った眼鏡に口角を上げたのもつかの間、急な温度の変化に勇魚清美は思わず体を震わせた。鼻腔を刺激するなまぐさい磯の香りと遠くから聞こえる波の音に迎えられ、勇魚は懐かしさに安堵の息をついた。高校卒業後、大学進学のために磯良町を出て東京に移り住み、しばらく故郷に帰ることはなかった。特に帰りたくない理由があったわけではないが、帰っても何かあるわけでもないうえに、帰郷のためにかかる交通費や時間は、大学生である勇魚の足を故郷から遠ざけるのに十分な理由だった。


 暑さに苛立つ神経をますます逆撫でする耳障りな蝉の声に、夏の盛りをこえてもなお蒸し暑い故郷の温暖な気候を思い出し少し感慨に浸っていると、ガタガタとした忙しない音に意識を戻される。振り返るとトランクケースを持て余している同行者の姿が見えた。ため息を殺し、手を貸してやると、牛島まれは大声と大袈裟な身ぶりで謝意を表現し、いたずらっぽく笑って見せた。


 牛島が無事に電車から降りると、すぐに電車は出発し無人駅には勇魚と牛島の2人だけが残された。電車が線路を走る音が聞こえなくなる頃には、じっとりと重たい汗が頰を伝っていた。


 ホームを出て、小さく簡素な駅舎を通り過ぎると、広い駐車場が広がっている。その中に一台の白い乗用車が止まっていた。運転席に見える影はスマートフォンを触っていたが勇魚と牛島の姿に気づくとひらひらと手を振った。その姿を確認すると、勇魚は牛島を促し車の方へ向かった。




 一段上がったところにある駅は、山を背に海を臨み、町を見晴らすことができる。背後にそびえる険しい峰々は深碧に覆われ、揺蕩う穏やかな海は青藍に青白磁の反射がまぶしい。山に囲まれ海に面した集落は木造の古い家が多く、傷んだ屋根や雨戸が目立つ。ブロック塀もところどころ崩れ、出歩く人はほとんどおらず、興隆を極める自然と比べるとみすぼらしい印象は拭えない。


―――山と海に囲まれた小さな漁村、磯良町。

 太平洋に面し黒潮が育んだ豊かな漁場に恵まれたこの町は、背後にそびえる山々により交通の便は悪く、過疎化が進む田舎町である。しかし、観光地として栄える隣町、浦部町との交流と、豊富な水産資源によって細々とではあるが人々は生活を営んでいる。





 イヌマキの生垣が車の窓を流れていく。深緑のかたい葉は、太陽の光を受けてますます緑の輝きを放っている。生垣に囲まれた細い道を車が走ると、風に葉が揺れ生垣は涼しげな音を奏でた。車を運転しているのは勇魚美波、清美の母である。助手席に荷物を載せ、後部座席に座った清美は窓の外を流れる景色を眺め懐かしさに息を漏らす。清美の隣に座った牛島は落ち着かないと言った様子で、そわそわと視線を泳がせていたが、ミラー越しに勇魚美波と目が合うと、生来の人懐っこさを発揮し、はにかみながらも口を開いた。


「す、すみません、泊めてもらうなんて。無理をいっちゃって」

「いやいや、ええのよ」


 駐車場で短く挨拶を済ませただけで車に乗り込んだ牛島は、少し上ずった声と上目遣いで、初めて会う友だちの母親の態度をうかがうように話しかけた。少し食い気味の勇魚美波の返事はほとんど社交辞令の域を出ないものであったが、少し弾んだ声色と抑えきれていない目じりと口元のゆるみが、一人娘の友人を心の底から歓迎していることを示していた。ミラー越しに勇魚美波を確認した牛島は、その様子に胸をなでおろした。


「それにしても、キヨが友達連れてくるなんてねぇ。しかも、オシャレな子やん。出ていったかいがあったんちゃう?」

「やめてよ、恥ずかしい」


 そう声を荒げた清美の耳は真っ赤だ。


「こんな田舎町やろ、この子ねえ、同世代の友達が欲しいって言って大学進学決めたからね」


 にやにやと清美の反応を楽しみながら、勇魚美波はバックミラー越しに牛島に視線を送った。牛島は、唇を尖らせている清美を横目に「私も、友達が欲しくて大学に入ったようなものなので」とミラーの向こうから、いやらしい視線を送る友人の母親に返事をすると、「あら、そう」とつまらなさそうに勇魚美波は視線を前に戻した。


「2年生なんて大学生にとっては遊びたい盛りなんじゃないん? こんな田舎に帰ってこんと、向こうにおった方が良かったんちゃう?」


 勇魚清美と牛島まれの2人は大学2年生の夏の終わり、磯良町を訪ねることにした。磯良町は清美の故郷だ。生まれてから高校までずっと、磯良町で過ごしてきた。磯良での暮らしに大きな不満を感じたことはないものの、田舎町での暮らしは刺激が無く、若い清美にとっては退屈なものであった。だから大学に進学したのだ。就職など将来のことを考えたうえでもあるが、新しい刺激のためにと都会へ出ていったのだ。そのことを知る母親は、なぜ長期休暇にわざわざ帰ってくるのか疑問だった。


 少しの間のあと、清美は口を開く。


「去年は台風で帰ってこれんかったし、……あんなん見たら、会える時に会っときたいなって」


 勇魚は、昨年磯良町を襲った台風を思い出していた。

 最終的には死者・行方不明者が発生するほどの台風災害。

 ワンルームマンション、テレビから流れる映像。堤防を乗り越えんとする高波に、黒くうねり氾濫する川。暗い部屋の中で、液晶に映し出される故郷の風景は、知っているものとは全く異なっていた。スマートフォンには、家族からの着信がぽつぽつと届き、それだけが心を落ちつかせることができるものだった。台風が去った後の風景も、自分が知る故郷とは違う。土砂崩れで山肌は露出し、古い家の雨戸は痛み、屋根も剥げ、どこから飛ばされてきたのかトタン板やバケツ、ボトルクレートが転がっていた。


「まあねえ、風とか雨とか怖かったし。しばらく通行止めとか、電気も水道も来なくて。ほんと大変だったわ」


 前を向いたまま話す美波の声色は落ち着いている。


「あ、もう着くね」


 交差点を右に曲がると、大きな木造の住宅があった。駐車場には黒い軽自動車が一台とまっている。勇魚美波はこともなげに、軽自動車の隣に車をとめる。清美と牛島は、荷物をまとめ車を降りた。駅よりも海の近くある勇魚の家は、より強い潮のにおいに包まれている。錆びの目立つ郵便受けに、古めかしい玄関の引き戸。清美は懐かしさと、台風の後も変わらない様子の我が家に胸のつかえがとれたように短く息を吐いた。

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