紫煙蝶(2)
「螺旋貫道に酔わなかったかい」
王宮内の一室が、滞在用に用意されていた。そこで身なりを改めて、イルスは正装していた。
長旅のあとで、本音を言えば、しばらく休みたいところだったが、朝方到着した関係上、王宮の朝儀で、族長リューズ・スィノニムに謁見しないわけにいかなかった。父である族長に派遣された大使として、この街を訪れているわけだから、眠いから寝ますでは話にならない。
部屋に顔を見せたスィグルも、朝儀に列席するために、出迎えに現れた時とは打って変わった、きらびやかな黒エルフの正装に着替えていた。長い髪を金銀の簪(かんざし)で結い上げ、精緻な刺繍のほどこされた長衣を纏い、絹糸で拵(こしら)えた曲刀を帯にさしている。
そうやって着飾っていると、スィグルは他の黒エルフたち同様、血の通っていない作り物のような美しさで、どことなく気味が悪かった。
「あれをぐるぐる回って王宮まで降りてくると、気分が悪くなるのもいるらしい」
「相変わらず、すごい街だ」
イルスは素直に感嘆を表した。
地表にあらわれている入り口から、螺旋貫道と呼ばれる、都市を最下層まで貫く螺旋状の道が続いており、その道にからみつくようにして、地下七層の都市が広がっている。地下にあるにも関わらず、タンジール市内は明るい光で満たされており、上層には農地までもが拓かれている。
魔法で作り出された太陽が、都市を照らしている。と、かつてこの都市を初めて訪れた時に説明された。その時は、あまりに突飛な話に、開いた口が塞がらなかったが、それを知った上で改めて訪れた今でも、螺旋貫道から垣間見える階層状の都市の光景は、おかしな夢を見ているように感じられた。
「そのことは、謁見のときに父上に言うといい。皆にうけるから。黒エルフはこの街を誉められるのが、三度の飯より好きだ」
にっこりして、スィグルが助言した。そんなふうに微笑むと、スィグルは十四歳のころとあまり変わらない表情になった。
「悪いが、大使の口上は丸暗記したのを言うだけだ。今さら新しい話を付け加えるのは無しだ」
「そんなこったろうと思ったよ」
ふふふ、と面白そうに笑って、スィグルは上機嫌になった。
「念のため確認だが、お前の身内に変わりはないな。非礼があると、まずいから」
訊ねると、スィグルは笑った表情のまま、しばらく押し黙っていた。そして、唇を開き、また、ややあってから答えた。
「イルス、母上が死んだ」
スィグルがうち解けた笑顔のまま言うので、イルスは思わず絶句していた。
スィグルの生母エゼキエラは、族長スィノニムの側室のひとりで、その死は、大使が口上をのべる際に省いて良い話題ではない。しかし、そんな連絡は受けていなかった。
スィグルはその話をしに、朝儀に先んじて、会いに来たのだろうとイルスは思った。
「……スィグル、大丈夫か?」
まずは同盟部族の王族どうしとして、儀礼にかなった弔意を示すべきかもしれないが、イルスの口をついて出たのは、友を案ずる言葉のほうだった。
「謁見のときには、大使はその話題に触れなくていい。族長はまだ、母上の死をご存じない」
「いつ亡くなったんだ」
「一昨日」
スィグルはまだ、張り付いたような笑顔を浮かべている。イルスはそれに、違和感をおぼえた。
スィグルの母エゼキエラは、かつて敵の虜囚となった際の苦難がもとで正気を失い、救い出された後も、病状は思わしくなかったはずだ。スィグルは共に囚われていた母のことを、常になによりも気にかけていた。
その死は、笑って語られるような軽いものではありえない。
「なぜ亡くなったんだ」
「さあ……わからないんだ。術医が言うには、母上は、生きていくのをやめたんだ。とにかく死んだ。最期まで、僕のことは誰だかわからないようだったよ」
イルスはやっと、型どおりの弔辞をのべなければという気になった。しかし、口を開きかけるイルスを制して、スィグルが早口に割り込んだ。
「もういいんだ。大したことじゃない。母上は虜囚時代にとっくに死んでた。戻ってきたのは魂のない抜け殻みたいなものさ。いっそ死んでくれて気がらくだよ。もう僕は母上に関して、どんな心配も期待もしなくていいんだから」
まだ、うっすらと微笑みを浮かべているスィグルの口元に、嘘の気配がしたが、イルスはそれを問いただすことはできなかった。たとえどんな有様であろうと、スィグルは母親を愛していたはずだ。回復を願っていた。
「族長にお知らせしなくていいのか」
「しないといけないだろうね。いちおう、父上の妻だからね」
スィグルは、困ったなという表情をした。書きかけの大切な書類のうえに、葡萄酒をこぼしたような顔だった。
「でも、いやなんだ。母上が死んだのを聞いて、父上や皆が泣くのを見るのが」
「それは仕方のないことだろ。早く知らせたほうがいい」
スィグルの顔を見つめ、イルスは注意深く忠告した。友人の中で、ひどく張りつめている不吉なものが、ともすれば弾け飛んで、取り返しのつかない事になるような気がした。
「イルス」
静かな微笑みを浮かべ、スィグルはひそやかに呼びかけてきた。
「誰も母上の死を、悲しんでなんかいない。僕ですら悲しんでいない。話を聞けば、皆涙を流すだろうけど、それは、そうするのが礼儀だからだ。涙が乾けば、皆忘れてしまう」
スィグルは相づちを求めるように言葉を切ったが、イルスは何も答えてやることができなかった。
「イルス、君が死んだら僕は悲しい。他にも大勢悲しむだろう。君はそういう男だよ」
虚ろに話して、スィグルは眠気をこらえるように、深く瞬いた。
「でも母上は、いったいなんのために生まれてきたんだろう」
「お前を産んだ女(ひと)だろう」
イルスが教えると、スィグルはうつむきがちに目を開き、射るような上目遣いで見つめ返してきた。
「それになにか意味があるのかい」
そう答え、黙り込むスィグルの顔には、見覚えがなかった。
こんな目をするやつではなかった。
「行こう、朝儀の時間だよ」
くるりと背を見せ、スィグルは部屋の扉を押した。イルスはそれを、すぐには追えなかった。
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