07/29

15:37-18:46

「僕は今年受験なんだからさ、要らない心配かけないでくれる?」


 楚々そそとした明朗な声で、光陽は私を罵った。

 私と違い、声変わりが曖昧だった兄の声は、段々母に似てきていた。

 光陽は、それが気に食わなくて私に八つ当たりする。

 父のように、しっかりと深い低声を成した私の声を、兄は羨み、妬む。


「君の声と僕の声が逆だったら良かったのに」


 そんなことを言われても、他になす術はない。

 光陽の声は嫌いではないと言うと、そっぽを向いて、いつもの一言を放つ。


さくのばーか!」


 パスケースを改札機へ叩きつける光陽を見送ってから、私はあの場所へ向かう。


 叔父の店とは反対側の駅出口を抜け、目の前の坂を下って横断歩道を渡った後、レンタルビデオ店跡地の路地裏を進んで、急勾配の坂を登っていく。

 滑り止めの長いコンクリートロードを登り切ると、坂上に鎮座する神社の鳥居が見える。私は鳥居の左手の道へ向かい、さらに先へと進んでいく。

 この丘は、山を切り崩して作られた住宅地だが、まだ未開拓のところがあり、ともすれば草が伸び放題の空き地が点在している。


 私は、ここから見る景色が好きだった。

 電車の音は足元からだんだんと遠ざかり、陽の沈む西側は山麓が連なっている。

 もう少し奥へ進めば、街の音は消え去り、風の音が渡る。


 草叢へ踏み入り、視線を遠くへ放って、道無き道を進む。

 長く続いていた梅雨で足元はぬかるみ、久しぶりに仰いだ空は吸い込まれそうな青色をしていた。

 雲は散り散り、砕けて流れる。

 陽の光は相変わらず雲間から見え隠れしている。


「をぉ、其方か」


 声のする方へ視線を動かすと、光は微笑んだ。


 光と私の面会は、もはや私のルーチンとなっていた。

 最近は、ほぼ毎日ここを訪れ、光と対面している。

 特に、毎日会う必要なんてないのに。

 光は相変わらず、理解のし難い絵空事を話し、私は私で、光が訊ねてくることに対して適当に返答する。

 今日の光は、兄の話に、見当たらない耳を傾けてくれた。


「なかなかに難儀な兄であるのぅ」


 笑う光の声は鈴の音に似ている。


「然し、其のさかしらな気立て、さながら、儂の造った幼き星を思い出す」


 光は、祈りの仕草で両手を合わせ、そっと掌を解き放つ。

 手のひらとひらの間、小さな光球が収束したような気配を覚えたが、間もなくそれは泡沫となった。

 手の中で砕ける光の余韻を見つめながら、光は語り出す。


「彼れは、儂の身代わり星。果ての軌道に、一度は儂自身の目醒めぬ光景を憶え、儂は、かつて大地の友人へ掲げた昼光ちゅうこうの星より、儂を真似た幼き光を造りあげた。儂が眠りに就く間、朝の祈りの役目を託す為」


 緩く両手を握り、光ははにかんだ。


「然しの、造りあげる手前、儂は眠くて眠くて詮方しかた無くての」


 目を細めて、する必要のない息を吐く。


「儂から明け渡す意識の融通が効かなかったのじゃ」


 光は手を下ろし、首をもたげて懐かしむ。


「其の為に、幼き彼れは至極小生意気な童と成った。途轍もなく身勝手でのぅ」


 誰に似たのやら、と言いたげな光に、造り手も充分身勝手とは口に出したりせず、私は黙って相槌を打った。


「じゃが、其の幼き星に、儂の片割れを預けようと思うていた」


 光の声が冷えて凍える。


「もう、目醒められぬと、思うていた」


 光のまぶたが閉じる。


「儂の余命は、大きく穿うがたれて幾許いくばくもなかった故」


 余命がないなら、何故今、貴方はここに居るのか。


「最期に、総て託そうと決めておった」


 私は訊ねない。


「決めておったのにのぅ」


 光は、暮れなずむ黄昏の彼方に微笑み、私へ囁く。


「彼奴は、儂のお下がりなど要らぬと言い立てたのじゃ」


 嬉しそうな光の口から、再び鈴の音がまろびでる。


「儂もの、遠き彼方より飛来した一縷の望みに救われて、目醒めることが出来た」


 光が柔和に霞み出す。


「じゃからの、儂は、か」


 そこで話が突然途切れ、光の姿が跡形もなく消えた。

 私は西の山麓を見遣り、夕陽が既に隠れて、光芒が途切れる瞬間を認めた。

 生温い風に、肌寒さを憶えて震える。


 ……帰らなくては。

 しばらく留まっていたぬかるみから靴を引き剥がし、草叢からようやく抜け出す。

 夢から醒めたような心地で空を仰ぐと、青さの残る雲間にひとつだけ星が輝いていた。


 明日は、話の続きを聴けるだろうか。

 電車の音が聞こえる足元に気をつけながら、私は急勾配を下っていった。

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