Little Stars. ~僕たちの居場所~

弦葉ひなた

第1章 ―止まっていた時間―

美月 side

第1話 変わらぬ日常

 久々に降り立った駅には、懐かしい桜の香りがした。

 視線の先には、桜の木のかたわらに、ショートカットの女性がたたずむ様子が見える。風に吹かれた花びらが僕の元に流れ着く。

 軽やかな足取りで、僕はだんだんと近づいていく。

 空気が伝ったのか、女性は僕を振り向く。


 「ただいま」


 僕はうまく、微笑めただろうか。


 「おかえり」


 その声は、変わらぬ優しさで僕を包み込んだ。



***



 日常――。


 大人は忙しなく、きびきびと働く、カッコいい。

 学生は学校に通い、勉強や友達付き合いをする、たのしい。


 それが普通。ブナン。理想――とされる生き方。


 それが当たり前。

    当たり前。

    アタリマエ――。


 みんな、日々乗り越えて生きている。

 気づかぬうちに、当たり前に乗っかっている。


――何で。

  みんなのできることが、出来ないのだろう。


――



 僕、卉原くさばら美月みづきにとっての日常は、虚無なものへと変わり果てていた。

 家での暮らしは、退屈ではないが、特に変わり映えもない。ただただベッドの縁に背をつけ、床に座りこんだままカーペットの一点を見つめる。特にやることもなく、ぼーっとして、気が付いたら日が暮れている。


 いつ眠って、起きたか、何を食べ、いつ朝を迎えたのか、わからない。

 もはや、もう、どうでもいいか――。


 声をかけられても反応しないので「まるで植物のよう」と使用人たちを狼狽ろうばいさせていたのは後から聞いた話である。


 ただ、この生活をしていても、衣食住、衛生面は充分に、いや、一般的なそれ以上に快適に過ごせている。それは、比較的裕福で安定した家庭環境が基盤にあることに起因している。僕の家は、3人で暮らすには空間の有り余る規模で据えられており、家事全般は数名の使用人により整えられている。

 何とも、僕の父が卉原くさばら医院を開業し、若い頃から地元に根を据え、積み重ねてきた、あらゆるものが結実した成果なのだが。ありがたいことなのか、はたまた運命づけられたものなのか――



 そんな僕の日常は、ある日突然、凄まじい勢いに押され、終わりを告げた。

 それは、他にもない、僕の兄、陽哉はるやの発した言葉が、起点であった。


「なぁ美月、ここに行ってみないか?」


 差し出されたのは、一枚の紙であった。A4の白いコピー紙には、味のあるが読みやすく、太くも細くもないが芯のある字が書かれていた。


『美月君。

 遠く離れた場所から、こんにちは。そして初めまして。

 僕は、塔里郷とうりざとという場所で、中学校の先生をしています。

 一度先生とお話してみませんか。

 美月君の気持ちを教えてくれたら嬉しいです。

    登校支援クラス 担任  戸瀬とせ旅歌りょうた


 朝っぱらから出掛けていた兄は、意気揚々と帰宅した途端、まっすぐに僕の部屋の扉を開け、開口一番ニッコニコな表情でこの手紙を差し出したのだ。

(ノックもせずいきなり扉を開けたので、その時僕は一瞬、飛び上がるほどびっくりしたのだが)

 その日は珍しく、家を空けがちな父も傍らにいるのが見えた。


「今日な、この先生に会ってきたんだよ!戸瀬先生!!そりゃまた、めっちゃいい先生でさぁ~戸瀬先生。めっちゃ親身になって話を聞いてくれたのよ~!若いんだけど頼り甲斐あって、まっ若いって言っても僕より年上ですけど、まぁ親切に話を聞いてくださってさ~。不登校の子とか、引きこもりの子とかを親身に受け入れてくれてるんだってさ~。同級の子たちも、住むとこの皆もめっちゃ心優しくて、景色もそりゃまた心地良い自然の空気でさ~」


 早口に長々と語り、とにかく興奮している様子の兄に、僕はただただ圧倒されるしかなかった。


「な、美月、どうする?父さん、美月をここに入れてもいいかな?なっ、いいかな?」


 僕は咄嗟とっさに父を覗う。父と兄が同じ空間に見るのもいつぶりか。このように父に言い寄る兄の姿も、どこか新鮮に感じられた。


「……それは、わたくしが口添えすることではない」


 父は端的に、低い声で述べた。そして、僕には目を向けることなく。


「……美月の好きにすればいい。…私は午後の診療があるので行く」


「相変わらず、口下手だなぁ~。そんで今日もまた忙しいですねぇ…」


 兄の頓狂とんきょうな物言いに、無表情を貫く父――時間が経ったような感覚がする。……なのに、僕は…


「忙しくさせたのは誰だ」


「あ、すんません、院長先生。ありがとうござります、ご多忙な最中さなかにっ」


 そう言うと、父は静かに去っていった。兄はしゃべったり頭をぺこぺこさせたり、大忙しだ。


「…ん、何だぁ?そんな顔して、表情暗いぞぉ~」

 兄はいつの間にか、僕に顔を向けていた。ずんずん近づいてくる。


「もっと表情筋を柔らかくだなぁ~むにょむにょむにょ~ん」

と同時に、僕の頬に両手をやり、手のひらで揺さぶってきた。兄はマッサージのつもりらしいが、だいぶ力が強い。


 僕はそんな年じゃないのにという思いやら、頬を押されて痛いやらで、恥ずかしくなってしまった。

 いつから兄は、名前通り陽気な人になったのだろうか。。


「俺はさ、美月には笑顔でいて欲しいんだよ。そんでもっとのびのび~っとね、自分らしく過ごしてほしい、そう思ってるの」


 ようやく落ち着いた兄は、僕に向けて微笑みながら、ベッドに腰かけた。濃紺のカーペットの温もりを手に感じる。


――自分らしく、過ごす、か。


「この場所なら、美月がのびのび過ごせるんじゃないか、って思って。戸瀬先生とか登校支援クラスの同級生とかと関わってたら、見えてくることも、あると思うからさ。皆違う環境とはいえ、似たような顔して色々抱えてるから、ね。……まぁ、ちょっぴり勇気も必要だけどなっ」



『――すぐにとは言わないが、いつか、乗り越えて欲しいと思っているんだよ……』

 いつの日か、誰かが部屋の外でそう言っていたのを、扉越しに聞いたのを、思い出された。



「ま、考えてみてよ。行きたいか行きたくないか、ね。明日辺りにまた聞きに来るからさ」


 ベッドの軋む振動が伝わった。立ち上がった兄を見上げると、堂々としたように感じられた。気のせいかもしれないが。


「もし勇気が出ないってことなら、俺が無理やりにでも連れて行ってやるから、安心しろよな!行かないっていうんなら、それはそれでいいからな?あんま気にしすぎんなよっ?」


 そう笑いながら僕の頭をわっさわさと撫でると、颯爽さっそうと部屋を出ていった。扉が閉まると、僕はふぅ…と息をつく。何とせわしない風を吹かすのだろう、兄は。それも唐突に。火照ほてった頬に、高鳴る心音が、耳に伝う。


 ひとまず心を落ち着かせ、手に握られた紙をもう一度見つめる。


『美月君。

 遠く離れた場所から、こんにちは。そして初めまして。

 僕は、塔里郷とうりざとという場所で、中学校の先生をしています。

 一度、先生とお話してみませんか。

 美月君の気持ちを教えてくれたら嬉しいです。

    登校支援クラス 担任  戸瀬とせ旅歌りょうた


 兄が会って来たという戸瀬先生の字。丁寧にルビが振ってある。僕の気持ちを知りたい、と記されている。会ったことはないけれど、字を見ただけでも人柄の良さが伝わってくる。


 塔里郷――

 登校支援クラス――


――どういう場所なのだろう。

  どういう人が、居るのだろう。



 勉強机の右の壁に掛けられた、カレンダーに目を向ける。

 7月……。

 いや、しばらくめくっていないというか、新年を迎えてもカレンダーを取り替えていなかった。今は服を着込む時期を通り過ぎ、少しずつ暖かくなってきたというのに。


――そういえば、今日は何月何日だったっけ。



「あ、カレンダーですか?今年の……」


 使用人の荒井は、不意打ちだったのか、僕が話しかけたことに驚きながら手を止め、どこかぎこちない口調で応えた。


「今年も様々な方から頂いて、溜まったものがだいぶ余っておりましたので、ひとまとめに物置部屋に置いてございますが…。そちらで宜しければ、いくらでもお持ち頂いて構わないかと…」


 確か新入りで来たばかりだったからか、わたわた作業している様子ではあるが、声でイメージしていたよりも若々しい。着ているメイド服のせいだろうか、フリルは控えめとはいえ。

 というか、いつからうちの使用人がメイド服を着るようになったのだろう、と考えながら、物置部屋に足を向けていた。


「あっ、坊ちゃま!昨日お兄様がお作りになったクッキー、食卓からお部屋にお持ちしようと思っていたんです…!ホワイトデーとはいえ、坊ちゃまにもと誇らしげでしたから…。わたしも何枚か頂きましたが、美味しく頂きましたっ」


 ふふふっ、と、荒井はほんのりと、頬を赤らめた。



 質素な壁掛けカレンダーと、食卓から兄の力作らしきクッキーをお皿に持ってくると、カレンダーを取り替え、数枚破り取った。

 日付をたどりながら、クッキーをかじる。少し塩味が強いが、バターの香りがどこか懐かしく、ほっとする。気持ちが落ち着く、そんな心地。


――3月14日。


 来年度から、中学2年生、か。



 学校から離れて、どれくらい経つだろう。

 ほんの2年――のはずだが、それが果てしない年月のようにも感じられる。



 行きたいか、行きたくないか。


――塔里郷、という場所に。

――登校支援クラスに。

――同じ悩みを抱えるという、同級生がいる場所に。

――先生と話をしに。


―――学校に。


 僕は、どうしたいのだろう。

――何が、したいのだろう。


 考えることが、無限のことのように感じた。

――考えるのは、答えを出すのは、怖い…。


 それでも、考えなければならない、そう思えた。



「行く」

 気づけば声になっていた。


 久方振りに夕食のテーブルについただけでも、全員僕に視線を向けたというのに。声を発したら尚更だろう。

 中でも目を丸くして覗き込んできたのは、他ならぬ兄だった。今にも立ち上がりそうな勢いである。


「おおぉ!そうかそうか!決めたか!!」

 ははっ、と、兄は満足げだ。


「……!」

 ハンバーグを口に運んだ父は、箸を置き、無表情でこちらを見据えている。


「――行きます、塔里郷、に……」

 目の前の、まだ手を付けていない食事を見やりながら、僕はそう言った。


「決めたとならば、話が早い!!よっしゃ、早速準備すっぞ!美月っ!!」


「……落ち着きなさい、まずは目の前のことをだな、」


 兄の興奮真っ只中の声に、父ですら呆れ返っているのが声で分かる。ソースのにおいがより濃く鼻に付く。



 そんなこんなで、食事を終わらせ、ひとまず面談や顔合わせを兼ね、一日塔里郷に訪問するという話になった。


 塔里郷という地は、僕の住む場所から二県ほどまたぐ場所にあるらしい。塔里郷中学校に通うということは、そちらに住まうことになるが、未知の場所に一人放り込まれ、いきなり荷物を運び込み、手を放してしまうというのは尚早だというのは父の判断である。


 兄が興奮冷めやらぬテンションでしゃべり、父が黙々と呟き、僕がうなずく。


 頭の中を色々な言葉が駆け巡り、そして竜巻のように様々な物事がに落ちていくようで。でもどこか、現実でないようで、知らない世界の言葉を聞いているようで。


――何だろうか、この気持ちは。

  何だか、自分がここに居ないような。。



 そうして、3月末、僕と兄は、電車に揺られている。

 新幹線や電車を乗り継ぎ、約3時間半。


――本日も、芦谷あしたに鉄道をご利用いただき、ありがとうございます――


 今乗っているのが最後の電車らしい。その最後の電車というのも、一時間に一本のダイヤで動き、終着駅が『塔里郷駅』、なんと秘境のような場所か。乗車時は乗客が数名いたが、終着駅が近づくにつれ降りていき、随分前から兄と僕のみになっている。


 僕は女性乗務員の観光案内に耳を傾けながら、ドアの窓からただぼんやりと景色を眺める。比較的都会の街並みに見慣れているせいか、低い屋根の建物や、田園風景が映るだけでも、そわそわと、心が軽くなる。同じ大陸の上で、電車で行き来できるのに、感動すら覚える。


 電車の揺れや音が心地よく、喧騒から身を離していくのが、どこか楽に感じる自分もいる。


 このまま揺られていたい――

 変わらないで居られるなら、どんなに楽だろう。


「おっ!思ったより調子良さそうだな」

 兄は思ったよりも近くにいた。さっきまで電車内をふらついていたのに。


「この電車が一番落ち着くんだよなぁ、いつ来ても、変わらない場所っていうかさ」

 僕の頭上から、声が響く。


「美月にも、気に入ってもらえるといいなぁ、とか思ってたり。俺の願望だけど......。まっ、気楽にな!」


 そう言い残し、肩をちょこんと叩くと、兄は電車の先頭の方へ歩いて行った。先頭のガラス窓に向けて、スマホを構えている。


 僕も車窓に向き直る。僕の空っぽの瞳は、のどかな山並みと空の色味に満たされていく。



  ・・・


       ・・・


             ・・



――ご乗車ありがとうございました。次は終点、塔里郷です。お出口は左側です――




 -第一話 了-

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