プロローグ

 15年前の5月と6月の間。

夜がどうしても怪しさを増す季節に、その女性は現れた。 

 開業したばかりで、てんやわんやの頃。

 今となっては遠い思い出だが、あの日のことは覚えている。

 ようやく最後の外来を見終えて、診察室の椅子にどっかりと座り込むと、泰子がお茶を運んで来てくれた。

 礼の代わりに軽く手を挙げて、そのままお茶を受け取ろうとしたところ。

 ビーッ。

 勝手口の呼び鈴が短く鳴った。

 思わず、泰子と顔を見合わせた。

 泰子は、その可愛らしい顔を怪訝そうに傾けた。

 信之は、口を尖らせて、肩を竦めた。

 勝手口からの外来は受け付けていない。それに、診察時間はとうに終わっているし、専門の胃腸科内科から、簡単な外科までこなして、正直今日はこれ以上はそっとしておいて欲しかった。

 ビ、ビーッ。

 先ほどより力強い呼び鈴の音。

 信之と泰子は再び顔を見合わせた。

 泰子が困ったように、綺麗な眉をへの字にして、疲れ切った夫と勝手口を交互に見た。

 信之は口を尖らせて、眉間に皴を寄せた。

 そんな夫の表情を見て、泰子は首を振って、信之を椅子に押しつけるかのように肩に手を置いた。

 そうなると。

 逆に信之の体に力が戻った。

 先ほどまでは、地獄にある忘却の椅子かのように思えた椅子が、ただの腰掛に変わった。

 信之は最愛の妻を悲しませたくない一心で椅子から立ち上がった。

 いつもそうだった。

 信之は妻を愛していたし、そう思うと体のどこからか、不思議なエネルギーが湧くのだった。

 外来だけで、入院は置いてないから、看護師は皆、帰ってしまっている。

 どこまでなにが出来るかは考えない。

 立ち上がった信之は、医師だった。

 それも、職業意識の人一倍強い方の。

 つかつかと、開け放しの診察室の戸を出て左、外来受付ホールとは別の方に歩く。

 突き当りを更に左。

 正面の院長室を右。

 すぐの角を左で、正面に勝手口。

 勝手口の扉、上半分は摺りガラスになっている。

 フォルムは、女性だった。

 ガラス越しに一度振り返って、またこちらを見た。

 一瞬躊躇った。

 妖の類は信じないが、昔話は知っている。

 こんな日、こんな夜に、勝手口に、女が一人、立っている。

 何でもない文章が、ひどく怪談じみて思えた。

 だからこそ。

 信之は勝手口に歩み寄った。

 立って歩いているなら、重病ではないだろう。

 往診なら断る。

 十分な心得も道具もない。

 診るだけになる。

 代わりに救急車を呼んでやってもいい。 

 とりあえずは話を聞いて…

 引き戸を左に引くと、そこには青いスプリングコートを着て、コートの色に合わせたかの様な顔色の女性が立っていた。

 小刻みに震えている。

 日中は晴れていたが、霧に近い小雨が降っているようだ。

 髪もコートも少し濡れている。

 20代そこそこの、決して派手ではないが、切れ長の目をした美しい女性。

 顔色は悪いが、病気ではなさそうだ。

 疲労が顔に出ているのだろう。

 もちろん、青ざめたその顔色は、体調がいいとは言えない。

 だが、それ以上に。

 なんてこった。

「あなた?」

 振り向くと泰子が両手で傘を握って立っていた。

 信之はフルフルと顔を振ってから、一度頷いた。

 通じたであろう。

 泰子は傘を廊下の壁に立てかけて、すっと信之の背中に手を添えた。

「あなた、この方!」

「ああ」

「とりあえず中に!」

 信之は頷くと、体を横にして女性を招き入れる道を開けた。 

 女性は確かめるように一度振り返ると、フラフラと院内に足を踏み入れた。

 小声でなにか言ったようだが、力弱く、よく聞き取れなかった。

「診察室に。あと、お湯を沸かしてくれ」

「分かりました!」

 元看護士の泰子に、細かい指示はいらない。

 信之は研修医時代以来、産科の経験はないが、泰子は産科の看護師だった。

 あとは、あれこれ考えない。

 その後の事は、あまり細かく覚えていない。

 診察室で動く頼もしい妻と、絹の様な肌をした女性の、線は細いが健康的な体つき。

 血の巡りが良くなってもなお白く美しい顔。

 そして、細い眉の下の意志の強そうな眼差し。

 5、6時間の後、新しい命が誕生した。

 羽陽病院で産まれた女の子は、羽陽怜悧と名付けられ、子供が出来なかった信之と泰子の養子に迎えられることとなった。

 名も知らぬ謎の女性が、産後、わずか三日で姿を消したからである。

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