餓狼Ⅱ

 今まで会ったことのない人種にヴォルフは大いに戸惑う。妹の雇い主であり、命の恩人かもしれない以上、下手なことを言えないが、生憎礼儀作法敬語など習得する気すらなかったヴォルフにとっては何を言えば良いのかもわからない。

「今、屋敷の者が温かいシチューを持ってきますので、少しお待ちください」

「あ、わたし、行きます」

「大丈夫ですよ、リーリャ。貴方はお兄様のそばにいなきゃダメです」

「は、はい」

 良い人、なのだろう。悪意には敏感な狼の鼻が反応しない。花みたいないい匂いはするけれど、それだけである。四方八方敵だらけ。常に敵意に対し俊敏な反応をしてきた。ただ今は、まともに体も動かせないし鼻も利かない。

 生殺与奪が握られている状況なのに危機感がない。

「お嬢様、食事をお持ち致しました」

「ありがとう」

 花の匂いとは別の、芳醇な匂いが部屋に漂う。匂いを嗅いだ瞬間、ヴォルフの腹がぎゅるると鳴った。それを聞いて妹は顔を赤らめ、ニーカと名乗った少女はくすくすと笑う。そして、手ずから匙を使って、

「どうぞ」

 温かな液体が揺らめくそれを、差し出してきた。普段のヴォルフなら恥ずかしくて自分でやると言うはずだが、この時は肉体的にも限界を迎えており、何よりも温かな匂いに耐えきれず、差し出された匙に喰らいついた。

 その瞬間、温かな液体が食道を通り、がらんどうの胃に落ちる。沁みた。今までで一番、これ以上なく、命が満たされていく。

「まだまだありますからね」

「……!」

 恥も外聞も捨て、喰らいついた。温かなモノが体の中に入る度に、生きている実感と希望が漲ってきた。死にたくなかった。飢えて、凍って死ぬなんて真っ平ごめんだと思っていた。だけど、もう諦めていた。

 どうしようもないと思っていたのだ。

「パンもありますよ」

 シチューがたっぷりついた千切られたパンを差し出され、それもまたがぶりと食らいつく。いつものクソほど硬いパンではない。柔らかな、小麦の匂いがするパンである。たぶん、焼いてからさほど時間も経っていないのだろう。

 本当に美味かった。涙が出るほど、美味かった。

 と言うよりも――

「クソ美味ェ」

 たぶん狼は、泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにしながら、生きている喜びを噛み締める。温かさが、彼に生き延びたのだと実感させた。

 たくさん食べた。久方ぶりに腹一杯、食べられた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 ヴォルフは生き延びた。寒冷地の、十年に一度と言われた大寒波。この年大勢が死んだ。さすがのマーシアも慌てるほどに、寒さが命を奪ったのだ。

 誰が悪いわけでもない。天気が相手では人間の力など大した意味もない。天が荒れ、大勢が死んだ。それだけなのだ。

 相手が大き過ぎて恨むことすら出来ない。そもそも寒波で死んでしまう者の大半は端から身寄りなどないだろう。大勢が死んだ。死んだという事実だけが残り、それ以外の人生、中身に関しては押し流され、消える。

 乗り越えられた者はただ、幸運であっただけ。


     ○


 春、ようやく冬が過ぎ、人々が活発に活動を開始する季節である。ただ、今年の春は少しだけ様子が違った。雪の下から出るわ出るわ、大勢の凍死者たち。

 裏路地は閑散とし、春の陽気も活力もどこ吹く風。

 そもそも人が、あまりいない。

「…………」

 ヴォルフは台車に載せられている凍死者、そこに見知った顔を見つけ顔を歪めた。別に親しくなどない。ただの喧嘩相手である。隙あらば襲ってきて、その度に返り討ちにしてきた。相手も躍起になっていた。自分もウザいと思っていた。

 でも、いざその死を目の当たりにすると、何とも言えない心地となる。

「……クソが」

 年中苛立っていた。この辺りにうろついている連中なんてそんなものである。何せ腹を空かせているのだ。腹が満たされないから苛立ち、喧嘩になり、また無駄に腹を空かせる。だけど、食うものは無い。

 それがどん底の現実。


     ○


 ヴォルフは結局、エスケリネンの屋敷で雇われることはなかった。と言うよりも本人が向いていないと断ったのだ。妹は大いに怒り、しばらく口も利いてくれなかった。ニーカも残念そうな表情をしていた。ただ、ヴォルフは家人らのほっとしたような表情を見逃さなかったし、それで良いのだろうと思う。

 マーシアでも有名な悪たれ。どこの誰が好き好んで家に招き入れると言うのか。その辺りは自覚しているし、さほど気にもならない。

「ふんが!」

「す、凄いな、この子」

 ただ、御屋敷にも力仕事はある。その時だけはふらりと現れ、手伝いをして駄賃を貰う。喧嘩で巻き上げる相手もいなくなったため、そういう仕事をヴォルフは断らず真面目にやった。大人顔負けの力に、誰もが驚く。

 そして意外と真面目なので、次第に打ち解けていった。

 頻繁に出入りするようになり、エスケリネン家の本業である小麦やライ麦の畑仕事に関しては獅子奮迅の働きを見せた。

「……二人分は働くなぁ、あの子」

「ふんふんふんふん!」

 鍬をもたせりゃ二人前。モリモリと畑を耕していく姿はさながら牛馬の如し。斧をもたせりゃこれまた二人前。バッサバッサと木々を薙ぎ倒し、開墾に精を出す。これで全力ではないのだから、呆れた馬力であろう。

「……凄いですね、ヴォルフは」

「はい! お兄ちゃんはすごいのです!」

 妹は鼻高々。ニーカも一人だけ別の動力を積んでいるのではないかと思うほどのヴォルフを見て驚愕していた。ヴォルフは昼食に配られた朝焼いた柔らかいパンを食べご満悦。ちなみにそれも二人前はぺろりと食べられるが、そこは我慢。

 妹の顔に泥を塗るわけにはいかないのだ。

 エスケリネン家は医家でないのに羽振りが良く、嫉妬の目を向けられることも少なくなかった。医家は尊重されるが、それ以外で稼ぐ者に対しては冷たいのがお国柄であり、御息女であるニーカは街を歩き回ることを禁じられていた。

 ただ、それもヴォルフが来る前の話、

「ヴォルフ、リーリャ、このお店に行きましょう!」

「はい!」

「……へーい」

 馬車馬もびっくりの働きっぷりに、とうとう当主も彼を気に入り、ヴォルフが護衛に付くという条件ならば外に出回ってよいとしたのだ。

 当然娘であるニーカは大はしゃぎ。兄が認められたことでリーリャも大喜び。そんな二人を見ると断れず、長年の鬱憤を晴らすかのような濃密な女の買い物に付き合わされ、さしものヴォルフとて連日ヘロヘロになっていた。

 買い物をする時、女は別の生き物になる。

 この時ヴォルフは一生の学びを得たのである。

「お、お嬢様、持ちすぎです!」

「なんの、これしき……あっ」

 欲張り過ぎたニーカは折角買った商品を落としてしまう。そもそも積み上げるほど買い物をするな、と思うのだがその辺りは抑圧されたお嬢様、欲望に歯止めをかける素振りすら見せないから、こうなってしまう。

 で、

「持てば良いんだろ、持てば」

 そのお尻をヴォルフが拭う、と言う構図となる。落とした荷物も地面につく前にひょいと拾い、ニーカが持ち切れなかった他の荷物もヴォルフが奪い取り、当然のように軽々と持ち上げてしまう。

 当たり前のことではあるのだが――

「あ、ありがとう、ございます」

「別にいいよ。仕事だし」

「え、ええ」

 視線を逸らすニーカを見ることもせず、馬車に荷物を手際よく詰め込んでいくヴォルフ。それを後ろで眺めるニーカを、さらに後ろで眺めるリーリャはうんうんと頷きわかっている感を出す。彼女はおませさんであった。

「まだ買うか?」

「い、いえ。今日は充分です」

「そうか。じゃ、御者の旦那、後は任せたぜ」

「へえ」

「せ、折角ですし、このまま夕食も食べて行かれては?」

「いや、いいよ」

「ですが――」

「……この馬車に三人は乗れねえだろ」

 ヴォルフは荷物が満載の馬車を指さす。

「……あっ」

 しまった、と言う表情のニーカを尻目に、

「じゃーな、リーリャ」

 妹の頭をポンポンと撫でヴォルフは去っていく。妹が温かな場所にいて、それを自分が邪魔しなければそれでいい。それが彼の考え。

 あと救われた恩ぐらいは働こう、と考えていた。

「ヴォルフ、また来てくださいね!」

「今日の御駄賃貰うから行くに決まってんだろ。じゃーな、ニーカ」

「はい!」

 この一年は彼ら兄妹にとって本当に幸せな時間であった。エスケリネン家のおかげで狼もそれなりに腹を満たすことが出来て、ニーカと妹の仲も公の場でなければ主従ではなく友達のような関係性である。

 ニーカと部屋で二人きりの時はお嬢様ではなくニーカと親しみを込めて呼んでいる、とヴォルフは妹から聞き及んでいた。

 幸せだった。満たされていた。

 こんな日々が続けばいい、そう思っていた。


     ○


 マーシアは医療大国である。隣国の超大国ネーデルクスにいち早く臣従し、彼らの医療を支えるための人材を育成、送り込むことを国策としていた。ネーデルクスが最近勢いを欠くも、それでも七王国では国力が頭一つ抜けている。ガリアスはそれよりさらに抜けているのだが、この周辺では相変わらずネーデルクスの天下。

 彼らに医の人材を、医術を輸出し、外貨を獲得する。

 だからこそ、この国では医家が最も尊敬され、貴ばれていた。

「お邪魔する」

「ようこそ、エスケリネン家へ。すぐにお茶を――」

「必要ない。すぐに診察に取り掛からせてもらう」

「よ、宜しくお願い致します」

 その年の流行り病にエスケリネン家の奥方がかかった。そのため急遽、医家の名門である彼らを呼んだのだ。

「ユラン、見ていなさい」

「はい、父上」

 キール家。先祖代々医家を生業とし、多くの人材を輩出しほぼ宗主国であるネーデルクスでもそれなりの扱いを受ける国家の柱でもある。

 古き名門、されど医術は先端。内的な薬の処方はもちろん、この時代では外法とされる外的な手術も果敢に行う一門でもあった。

「ユラン」

「症状から見て近頃市井で流行りの病で間違いないかと」

「薬の配分は?」

「……そうですね。僕なら――」

 キール家とエスケリネン家はそれなりに交流があり、特に奥方同士の仲が良い。その伝手で名門の長を呼びつけたのだから、この家も中々太いものを持っている。この流行り病は今でいう風邪のようなもの。ただ、風邪と言うと安く聞こえるかもしれないが、現代においてすら特効薬の存在しない病気である。

 現代ほど衛生面も整っていない時代、風邪で落ちた免疫力から様々な病に派生し、人が死んでしまうことなどザラにあった。

「……それで調合しなさい」

「は、はい!」

 父に認められ、嬉々として薬を調合し始めるユランと呼ばれる少年。名門の跡取り息子であり、すでに父に連れ回され実地で経験を積むほどの才人であった。年のころはニーカと同じ、彼らは幼馴染であり昔は母親同士のお茶会などで遊んでいたこともある。今はユランが多忙なのであまりそういうことはしていないが。

「薬は日に二度、朝夕の食後に飲むと良い。ただし、この薬はあくまで体を整えるもの。大事なのはよく食べ、よく休むことだ」

「ごほ、ありがとうございます」

「お大事に」

 簡単に説明を済ませ、キール家当主は立ち上がる。彼もまた多忙を極める者の一人であり、この日だけでも直接診なければならぬ患者が沢山いた。

 ユランは父の後に付き従う。

 途中、心配そうな顔をした幼馴染が顔を出し、

「……ユラン」

 と呟く。彼女に向けてユランは心配する必要はない、と彼は笑みを浮かべた。それだけで綻ぶ幼馴染の笑顔に、彼はやる気を貰う。

「次の家は症状が重いと聞く。心せよ」

「はい!」

 マーシアの看板、医家の名門一族。彼らの存在がこの国を特別とし、国力こそ低くとも他国からも一目置かれる扱いとなっていたのだ。

 彼らは自分たちがこの国を支えている自負と誇りを持っている。医に対し厳格であり、執念深く病理を模索する。金も時間もかけてきた。

 これから先もかかる。

 だから彼らは――

「ごほ……あれ、おかしいな」

 自分たちの技術を安売りすることは絶対にしない。そのために設けられた規範を破ることもまた、しない。例えそれが、人命を失わせることとなっても。

 この国には、そういうルールが在る。

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