第9話 伏流、勢い増して 前編

 デハイバース王グリュフド・アプ・リースは、1136年現在、55歳に達しており、この時代の人間としては老境に差し掛かっているが、未だ政治と軍事の前線から離れていない。それどころか、死ぬまでにフランクの軍勢に何度でも一矢報いてやろうと意気軒高であった。

 そもそも、フランク人が辺境伯などの領土を設け、カンブリアに進出してこなければ、彼は南部デハイバースの王、ハイウェル善王の末裔として、肥沃な国土を支配し、まずは安穏な人生を送れたはずであった。しかし、1090年代に入ってフランク人の尖兵、憎きアルヌルフ・モンゴメリーらが攻め込んできて、事情は変わった。ブレイキニオグの山野の戦いで1093年に父王リース・アプ・テウドルが戦死すると、首府ディネヴルのあるシャンデイロ地方を始め、要地デュフド、南西部ペンブロク、中部ケレディギオンらは次々と彼らの手中に堕ちた。

「デハイバースの王リース・アプ・テウドル、ブレイキニオグに蔓延るフランク人の手で命を落とす。彼と共にブリトン人の王国は潰えたり」

 カンブリアの年代記『カムル諸王の年代記ブリット・イー・トーソーギオン』は、このように彼の死にざまを記しているが、その行間からは、フランク人の軍事力が当時いかに強大で、カムル人の独力では簡単には覆せなかったかが立ち上ってくるようである。一家は離散し、姉はフランク人の虜囚となった。少年期のグリュフドは悲しみと憎しみとに押しつぶされそうになりながら故地を離れ、各地を転々とする流浪の貴種となったのである。

 巷に溢れる英雄物語のように、ここでグリュフドを救ける有能な配下が現れて征服者を駆逐する、と言う筋書きが用意されればよいのだが、そのような甘い夢は夢でしかなく、現実は厳しさを増すばかりであった。アイルランド海を超えての亡命などを挟み、30代半ばに差し掛かるまで、彼は事実上の領土を復することができず、後世の言葉で言うのであれば亡命政権の首班として、デハイバース各地のカムル人の報復活動の象徴となり、時には一時的に旧国土に上陸してゲリラ戦を展開したりしたようである。

 この時期の彼の経験が、その人格に影響を与えないはずがない。かつての悲しみの王子は、やがて不屈の闘志を抱き、フランク人に容易に補足されぬ軽快な行動力を持ち、下々を鼓舞して大言壮語を吐くぐらいの胆力を備える人に成長していたであろう。美貌でフランクの王アンリを蕩けさせたネスタの弟であったのだから、容姿も秀でていた筈である。何かを変える力がありそうだと周囲に思わせる魅力が彼にはあったし、事実その通りに彼は行動した。なんと、北カムルの至宝とも言うべきグウェンシアン姫を駆け落ち同然に娶ってしまったのだ。

 デハイバース史上最強のひとつがいがここに誕生した。俗人の物語ロマンスとしてあまりにも出来過ぎた二人の逃避行に、多くのカムル人が助力を惜しまなかった。1113年以降の彼の活躍は、まさしくフランク人にとって寝耳に水、しかもその水は桶に溜まった流れをひっくり返すが如しとなった。南カムルの戦士を呼び集めた二人は、スランドベリ、古のマーリンの砦であるカマーゼンカルファーディンを攻め、キドウェリー城をも一度は攻略した。

 成功ばかりではなかった。フランクの軍事力は強大であったから、要害アベリストウィス城攻めでは頑強な抵抗にあい、陣を解いて逃散したこともある。それでもこの二人は戦うことでお互いの愛を確かめ合い、その度に絆を強めていった。1121年にはアンリ一世と和議を結び、マウル地方の領土が彼に転がり込んできたが、周囲をフランク人に囲繞された領土であったので、程なく侵攻を受け、アイルランド海の向こう側にまた身を隠したりしている。

「いつの日か事態が好転する。これまでもそうであったし、これからもそうではないか」

 苦境に陥るたびに彼はそう自分に言い聞かせ、後年は妻や家族たちにもそのように優しく闊達に言ってのけた。1135年に至り、グウェンシアンとの間に設けた王子達は4人となっていた。上からモルガン、マールグゥイン、マレデュド、リースと言うのがその子らであった。上の二人は既に戦士として十分に成長しており、父親の抗フランク活動に参加している。姫は2人生まれ、それぞれグワルドゥス、ネスタと名付けられた。

 グリュフドにとってグウェンシアンは実は二人目の妃である。死んだ前妻との間に二人の男児があり、アナラウドとカデルと言うが、この二人はグリュフドの優秀な幕閣の一員として様々な戦に転戦していた。グリュフドは彼らを左右の手駒としながら、グウェンシアンの血で生まれた若き俊秀らを加えて、カンブリア南部の領地を回復する時期を虎視眈々と狙っていたのである。フランク側にとっても、彼らはそこそこなお尋ね者の一家であった。この一家ある限り、デハイバースの地は完全にフランクの色に染まることはないと、苦く認識していたのである。

 1136年1月のブレイキニオグ王勝利の報告は、デハイバースの人々にとっては二重の意味で朗報となった。まず、現在の反フランク活動がアングル領に近いポウィス王国の従属国、ブレイキニオグの戦士達にも事実上広がったこと。更に、軍事力で勝るフランク騎兵にカムル人がはじめて大規模な一方的勝利を収めたことである。王は俄かに活気づき、グウェンシアンや息子らの肩を抱いて熱っぽく語った。

「いよいよ雪辱を晴らすときが来た。デハイバースの戦士たちを結集し、怯えるフランク人らを追い払う好機が来たのだ」

 現実的に見れば、フランク人らが城を築いてその周囲に植民地を広げており、カムル人らはその支配の及ばない山野へ逃げるか、一定規模集住している地域はフランク人の宗主権を認めて少なくない税を収めているので、すべての戦士達が集まるかは疑問が残る。それはグウェンシアンらにもわかっている。だが、このデハイバース王が理想を言うと、何やらその絵空事めいた内容に実質が伴う気がして、気分が高揚するのであった。

 2月に入ると、更に状況が変わった。グウェンシアンにあてて、グウイネドの特使が訪れたのである。はるばる北部から山野を踏破して彼女らの本拠地であるマウルの地に訪れた使者は、三十台半ばに差し掛かっても衰えないかつての姫君の美貌にほれぼれとしながら、主君の言伝を届けた。

「グウィネドの王グリュフド、及び名代オワイン王子が、デハイバースの王並びに王妃に挨拶する。我らロードリー大王からハイウェル善王の血を引きしカムルの兄弟は、過去の因縁を水に流すべし。グウィネドと貴国が手を取り合う日が来た。願わくばグウィネド首府アベルフラウにお越し頂き、御身との会合をもって両国の軍事同盟を結び、フランクへの恩讐を果たす為、ケレディギオン攻略に乗り出さん」

 その内容にまたもデハイバース王グリュフドは歓喜した。過去の因縁とはすなわち、彼が半ば強引にグウェンシアンを娶ってしまったこと、それからひとたびは敵対関係に陥りかけたことであり、これらを帳消しにすると言うのである。更には、デハイバース王国がかつて支配し、フランクに奪われたケレディギオンを共に軍事攻略せんという意思表明も付帯していた。現状のデハイバースの勢力ではケレディギオン攻略は夢のまた夢であるが、近年国力を頓に増したグウィネドの支援があれば、或いは可能であるやもしれぬ。口では大言を吐いても、自らの半生を振り返ると、フランク勢力に対し大きな勝利を収められなかったこと、忸怩たる思いがあるグリュフドである。

 渇望している物事が目に入ると、人の視野はいい意味でも悪い意味でも狭まるものである。否やはなかった。グリュフドは決意した。早急に旅支度を整え、側近であるアナラウドとカデル、他に腕の立つ戦士を数名伴い、ノルマン支配下にあるケレディギオンの山地側を通過して、グウィネドへと北上する計画が立てられたのである。あまり手勢が多過ぎてはケレディギオンのフランク人に見つかりかねない。王と二人の王子を含め僅か五名の使節団が促成された。グウィネドからの使者が、帰りの道を先導する。グウェンシアンも可能であればその一行に加わり、老いの進んだ父に一目会いたかったが、デハイバース本領の動向を監視する必要があったため、子供らと共に残ることとなった。

 出立の日が来た。マウルの山塞を囲む木々は二月の寒気に震えつつ、五名の騎士を送り出す。六人の子らと共に王を送り出すグウェンシアンの姿がそこにあった。

「陛下、お気を付けくださいませ。フランク人に見つかれば、虜囚の憂き目を見るかもしれませぬ。どうか、神のご加護がありますように」

 決然とした、しかし憂いを込めた大きな瞳で、グウェンシアンは馬に跨ろうとする夫の手を握り、いとおしそうに擦った。グリュフド王はその白くたおやかな、しかし剣を握った形跡たこのある手を握り返した。この手を携えて、彼は雌伏の時を耐えてきた。身重の彼女を守りながら山に海にと逃げ、時には馬を並べて敵の城を焼いた。長くつらかった日々も、もうすぐ報われようとしている。

「出来るだけ早く帰る。御父上とご兄弟には私から宜しく伝えておこう。万が一の時は無理をせずそちもグウィネドに息子らと共に来るがよい」

 そういって、二人は熱く抱擁し、口づけを交わすのであった。アナラウドとカデルは「やれやれ、父もお盛んなことだ」と互いに顔を見合わせ、笑みを浮かべて頭を横に振る。冬の夕日が彼らの後ろから照り付け、別れの抱擁を赤く染め上げた。まるでそれは、神話に伝えられる騎士と姫君の一枚絵の様に、グウェンシアンの息子たちの目に焼き付いた。乳母に抱えられた末の王子のリースは、眩しそうに両親の姿を見つめた。

 彼らはその光景を―思い出せる者たちは―後日、悲しみと共に回想することになる。

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