第164話 第五部 第一章 6 温かな食事
夕方、シエルの荷物が届くのをわたしは心待ちにしていた。
そわそわするわたしをシエルが笑う。
「落ち着いて」
窘められた。
「……はい」
自分でも落ち着きがないのは自覚している。
うろうろ歩き回るのを止めて、素直にソファに座った。
そんなわたしにメアリがほっとしている。
歩き回るのが心配だったようだ。
(本当にみんな、過保護)
わたしは心の中で苦笑する。
「そんなに楽しみなのに、どうして今まで忘れていたの?」
シエルは不思議そうな顔をした。
「どうしてって……」
わたしは苦笑する。
「仕込んで、ただ放っておいただけだから」
正直に答えた。
アークに預けた時点で、わたしはすっかり安心してしまった。
アークに任せておけば大丈夫だと思う。
無意識にアークに頼り切っていたことを、今さら自覚した。
「わたしはいろんな人に助けられていたのね」
自分ひとりで何でも出来るつもりになっていた自分の驕りが恥ずかしくなる。
反省して、凹んだ。
「え? なんで落ち込んでいるの?」
そんなわたしにシエルが戸惑う。
「自分が驕った人間だと気づいただけなので、気にしないで」
心配しなくていいとわたしは言った。
だが、それでシエルが納得するわけがない。
「いや、そんなこと言われたら気になるよ」
シエルは追及した。
結局、アークに頼っていたことを反省したのだと説明することになる。
「自分ひとりで何でも出来るつもりでいた自分が恥ずかしいです」
反省するわたしをシエルは苦く笑った。
「アークは頼られるのが嬉しいタイプだから、気にしなくていいんじゃない?」
そんなことを言う。
「そうなの?」
わたしは首を傾げた。
「そうじゃなかったら、姉さんが忘れているようなことまで覚えていて、届けたりしないよ」
シエルの言葉に、わたしの気持ちは少し軽くなる。
確かにと納得した。
「基本的にアークは面倒見がいいんだよ。姉さんがいなくなってからは、マルクス様の用事をあれこれやっている。だいぶ頼りにされているみたいで、なんか生き生きしている」
その話を聞いて、わたしはほっとする反面、ちょっと寂しく思う。
「アークをマルクス様に取られた気分だわ」
ぼやいた。
「姉さん、欲張りすぎ」
シエルに叱られる。
「そうね」
わたしは素直に認めた。
届いた肉醤はちゃんと濾してあった。
ワインの瓶に澄んだ液体が入っている。
わたしは小皿に少しだけ中身をあけた。
醤油にしては色が薄い。
舐めようとして、メアリに腕を掴まれた。
止められる。
「私が、先に」
そう言われた。
毒見するつもりらしい。
「わかったわ。塩辛いはずだから、あまりたくさんは舐めないでね」
わたしはメアリに確認してもらう。
小皿を差し出した。
メアリは指先で救って、舐める。
「……」
なんとも微妙な顔をした。
「美味しい?」
わたしは尋ねる。
「わかりません」
メアリは答えた。
馴染みがない味なのだろう。
だが、毒が入っていないことは納得してくれたようだ。
わたしが指で掬って舐めよとしても、今度は止めない。
(なんか、ドキドキしてきた)
鼓動が早くなるのを感じた。
ぱくりと指を咥える。
厳密にいえば、醤油に出汁などを加えたような少し甘みがある味がした。
だが思ったよりずっと醤油っぽい。
(醤油だ)
そう思ったら、涙が出てきた。
「姉さん?」
「マリアンヌ様?」
シエルとメアリの焦った声が聞こえる。
「美味しい」
わたしは感動を口にした。
「泣くほど?」
そう言って、シエルは涙を拭ってくれる。
その顔には安堵が見えた。
突然泣き出したわたしにそうとう驚いたらしい。
「涙が出るほど美味しい」
わたしは頷いた。
「美味しいって偉大ね。人の気持ちを豊かにするもの」
しえるとメアリに向かって力説する。
「わかったから、落ちついて。興奮しすぎると、身体によくないんじゃない?」
シエルの視線がちらりとわたしの腹部に向かった。
「そうね」
わたしは深呼吸する。
一息ついてから、改めて小皿を手にした。
クンと匂いを嗅ぐ。
生臭い感じはなかった。
「この肉醤、今夜の夕食に使ってもらえないかしら?」
わたしはメアリを見る。
「お夕食は皆様と召し上がるんですか?」
メアリは逆に聞いた。
悪阻が始まってから、わたしは温かい食事を取っていない。
食べる時間もラインハルトとずらしていた。
どうしても、料理の匂いが気になる。
だが今日は行けるような気がしていた。
「ええ。大丈夫そうな気がするので、同じメニューを一緒に食べようと思います」
わたしは頷く。
「では、そのように伝えてきます」
メアリは厨房に走った。
その日、帰宅したラインハルトはルイスを伴っていた。
わたしはルイスにいろいろと世話になった礼を言う。
ルイスは黙って、ただ頷いた。
その顔はまだ疲れているように見える。
結婚式が終わっても、ルイスの仕事はまだまだ終わらないのだろう。
(過労死する前に休ませなきゃ)
そう思うが、わたしの意見を聞くとは思えなかった。
ラインハルトから言ってもらうのがいいだろう。
わたしはラインハルトに、久しぶりに一緒に食事を取るつもりであることを告げた。
食堂に向かう。
「大丈夫ですか?」
ラインハルトは心配な顔をした。
「たぶん」
わたしは曖昧に頷く。
わたしの悪阻はだいぶよくなっていた。
もともと、軽い方だったのかもしれない。
最大のストレスだった結婚式が無事に終わったこともわたしの気持ちを軽くしていた。
ストレスが不調の原因になることをしみじみと実感する。
シエルもいるし、今日のわたしはかなり気分が良かった。
温かい料理も食べられる気がする。
わたしはラインハルトと向かい合って座った。
横にはシエルがいる。
クロウには肉醤を使った料理を一品、用意してもらった。
それがわたしの前に置かれる。
ジャガイモをバターと肉醤でソテーしたものだ。
湯気と共に香る匂いにドキドキする。
(食べられそう)
香ばしい醤油の匂いがむしろ食欲を誘った。
一口、口に入れる。
「美味しい」
幸せを感じた。
にんまりしてしまう。
美味しいものを食べると、人は心がほっこりして満たされるらしい。
人間というのは意外と単純だ。
「姉さん、泣かないでよ」
そう言われて、自分が涙ぐんでいたことに気づく。
シエルがハンカチを取り出して、わたしの目元を拭いてくれた。
「ありがとう」
わたしは礼を言う。
気が利くわたしの弟はやはり天使だ。
にこっと笑うと、シエルも微笑み返してくれる。
そんなわたし達を見たラインハルトはムッと顔をしかめた。
2人はちょっと微妙な関係であることをわたしは思い出す。
シエルに滞在を勧めたのがラインハルトだったので忘れていたが、2人は無駄に張り合うところがあった。
「ラインハルト様も召し上がってください。美味しいですよ。味付けはわたしが作った醤油なのです」
その場の空気を和ませようと、わたしは料理の説明をする。
「マリアンヌが? 本当にいろんなことをしますね」
感心しているのか呆れているのか、微妙に判断がつかないニュアンスで言われた。
だが、美味しかったらしい。
口に入れると、驚いた顔をした。
「美味しいですね」
素直に誉めてくれる。
こういうところがラインハルトは上手い。
わたしは嬉しくなった。
「そうでしょう?」
胸を張る。
「本当に美味しいよ、姉さん」
シエルも誉めてくれた。
和やかに楽しく食事が進む。
久しぶりに温かくて美味しい食事を取って、わたしは満たされた。
お茶を飲んで一息つき、シエルとまったりしようとわたしは思った。
だが、ラインハルトが渋い顔をする。
「マリアンヌはそろそろ休んだらどうだい?」
そう言われた。
ベッドに入って休むように促される。
「どうしてですか?」
わたしは不満な顔をした。
「明日の朝も起きられなかったら大変だからです」
ラインハルトではなく、ルイスが理由を口にする。
それを言われると、わたしは何も言い返せなかった。
確かに、明日の朝も挨拶に行けないのは不味い。
疲労を理由に休むのが許されるのは一日がギリだろう。
今が調子いいからと言って、無理をしてはいけないこともわかっていた。
体調が急に悪くなる可能性はないわけではない。
それでも、わたしは名残惜しい。
甘えるようにシエルを見た。
シエルなら、味方してくれるかもしれない。
シエルは優しく微笑んだ。
「姉さん。しばらく滞在するんだから、一緒に過ごす時間はたくさんあるよ。今夜はゆっくり休んで、また明日話しをしよう」
そう言われてしまう。
どうやら、味方はいないようだ。
「そうね」
わたしは頷く。
仲がいいわけでもないのに、ラインハルトとシエルは結託している感じがした。
どうやら、わたしがいないところで話したいことが3人にはあるらしい。
追い出されている感じがした。
ここで駄々を捏ねるのも大人気ないので、わたしは素直に寝室に向かう。
後でラインハルトを問い詰めればいいと思った。
風呂に入って、ベッドに横になる。
満腹なせいか、直ぐに眠くなった。
そのまま、意識が途切れる。
寝てしまったようだ。
次に目が覚めた時には朝で、びっくりする。
「マリアンヌ」
揺すられて、目を開けた。
ラインハルトがわたしの顔を覗き込んでいる。
(もう朝? いつの間に?)
わたしは心の中で焦った。
「今日は動けそうですか?」
ラインハルトは心配そうに問う。
わたしは昨夜のことを問い詰めるタイミングを完全に逸してしまった。
「大丈夫です」
そう返事をする。
着替えて挨拶に行こうとラインハルトに促された。
わたしは着替えのためにメアリを呼ぶ。
起き上がり、ベッドから降りた。
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