第2章「ひねくれアイザック」

「こちらの暮らしは、あなたの気に入りましたか?」

 司祭がレイダンに、肉と野菜のサラダのボウルを渡しながら、礼儀正しく尋ねた。

 レイダンはふいをつかれたので、夢見心地な気分でそれを受け取ると、「ええ、司祭様、とても。空気もよいし、生まれ変わったような心地です。」と如才なく答えた。「それに、ここの朝食はすばらしいですね。」

 はははは、と司祭はいかにも快活そうな人物らしく、腹から声を出して笑った。

「ここはほとんど何もないところですが、朝食だけはいくらでも出せますからね。パン、バター、牛乳にベーコン、ハムに野菜と、たくさん作っていますから。」

 はあ、とレイダンはゆっくりと匙を動かしながら、聞くともなしに司祭の言葉を聞いていた。ふと視線を感じて、顔を左に向けると、あの青年がさもおかしそうに茶をすすりながら目だけ動かして、こちらに視線を投げかけていた。相変わらず親密な、人懐こい目つきをして、こうレイダンに言っているようだった。

「退屈な、ながったらしい、じいさんの話!」

 レイダンは青年にしばらく目を向けていたが、さっさとこれを片付けてしまおうと、皿の料理に集中し出した。

 朝食の席には、一応は村の者全員が顔を出すことになっていたので、ホールにはにぎやかではれやかな声が上がっていた。特に青年が席をついているテーブルは、ひときわ楽しそうににぎやかだった。彼はテーブルの席の者が何気なく口にした言葉に、気の利いたちゃちゃを入れてはその場を盛り上げていた。

 レイダンだって、朝から年寄りと顔を突き合わせているより、できるならそちらに加わりたかった。しかし座る席の位置はそれぞれ属している班で組み分けされており、そこを切り抜けていくだけの勇気とここでの立場はレイダンにはなかった。


 この村に滞在してから、ゆうに一週間は経つ。食客としてお飾りの役職を与えられている以上、退屈さとは無縁ではいられない。もとより手を動かすことより人の中にいて頭をすばやく働かせていくのが得意なレイダンにとって、ただの滞在客として過ごすことは正直もうすでに限界に来ていた。おまけに同じ話題で誰かと話が弾むということが、ここでは一切ない。村の住民は一様に穏やかで礼儀正しく、心ずくしの誠実さでいつでも接してくれる。しかしその分だけ、愚痴や文句の出てくる隙間のないことも、レイダンには意外とこたえた。そう、少しずつ腑抜けにされているような感覚だ。争いごとはごめんだが、ときおり不満が噴出するくらいの精神の健康さは欲しかった。その健全な抵抗心を、すこしずつ、吸い取られていくような感覚。つねに見張られ、こころの動きを逐一見ていく異常な精神。それが村のそこかしこの土の中、あるいは人々の奥底で眠っているのだ。それらはここぞというときを逃さず、レイダンのこころに入り込んでくる。最初はとてもとまどったが、レイダンにはすぐ自分を修正するだけの精神の自由さがたっぷりあった。仮面をころころと変えてゆく道化芝居のように、そのつど身をかわしてゆくことが彼には出来た。「それができないひとにとっては、ここはたしかに地獄といってよいな。しかしその反面、天国でもあるわけだ…。」レイダンはひとりごちて、皿の上の料理をすべて平らげた。たいして動いてもいなかったので、ここのたっぷり出される朝食にも、正直もううんざりだった。


 その晩、映写会があるというので、レイダンは珍しく夕食後に出掛けた。外はまだ明るかった。夏の夜の独特の青い色がどこもかしこも満たしてゆくさまをぼんやりと眺めていると、久しぶりで気分がよくなった。

 映写会を主催した邸宅を訪問すると、大きな部屋の一室には普段見かけない住民の姿が目についた。彼らは一様にして単純な目と単純な顔つきをしていたが、よく見ると、芸術愛好家らしく繊細な所作と言葉の選別をしていることが感じられた。

 藁と木組みの小さな椅子がまばらに置いてある場所に陣をとって、レイダンはすこし離れたところから眺めることにした。


 部屋の壁の一面には、映像の写しだされる白い厚手の布が準備され、後ろのほうで映写機が青白い光を円形に放って、埃が煙のように上がっていた。そばには慣れた手つきで少しだけ機会に触れたり、角度を再確認したりといった作業を続けている者の動く影が、お伽噺のような狼の姿になって、斜めに壁に放射していた。

 少し経った後で、とうとう映像がはじまった。


TEATRO SCALA "VIOLETTA"


 という古風なレタリングの文字が大写しで流れた。その後劇場に詰めかけた観客ごとの景色とそこからすぐにその場の咳払いとかすかなささやき声の音が流れた。レイダンは体の奥底からなつかしさと退屈さに襲われながら、楽な姿勢をとって頬づえをついた。・・・


 会が終わると、人々はまばらに家路についた。レイダンは自分の寝床に帰る道すがら、ゆっくりと歩きながら瞑想した。とっぷりと日の暮れた部屋に戻ると、明かりも付けずに上着とシャツを脱いで、どっさりと寝台に身を投げた。ふと風にのって、蜂蜜のような香りがした。顔をうえに背けると、寝台の横のテーブルに、グラスに指した花があった。野薔薇だった。







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