目ざわり

つちやすばる

第1章「お急ぎください」

 梁が蜘蛛の巣のように張り巡らされた駅の硝子の天井には、天使のような形をした雲がかかっていた。それから目の覚めるような、真っ青な空が。ふと視線を下に戻すと、思い出したように喧騒がはじまった。人の出入りはまばらだが、靴のあたる音や手荷物をチェックする人の微かな声が、思いがけず響いていた。レイダンは自分が乗る予定の列車をしばらくの間眺めてから、チケットに記載されている番号の扉に乗り込んだ。席には誰もいなかった。誰もいないことは当たり前の風景だったので、特に何の気もとめずいつもどうり窓際の席から時折影のように通り過ぎる人達をぼんやりと眺めていた。季節は春も半ばを過ぎて、軽いコートだけでもよい気候になっていた。ふとかれは思い出した。かれの故郷はこの駅のすぐ近くで、そのときのかれはこの春の、いっせいに花火が撃ちあがったような花の咲く季節が、いつも眠たげで夢うつつな気分にさせられたことを。そうしてかれは目を閉じて、かつてのかれの育った場所についての、記憶の連想に忙しくなった。

 駅のアナウンスが鳴り響くまで、それは続いた。


「ウェスト行き、3番からまもなく発車いたします。お乗りになる方は、お急ぎください。」


 アナウンスは3回。それからまもなく短い言葉になった。


「3番列車にお乗りになる方は、お急ぎください。」


 最後のほうにはこうなった。


「お急ぎください。」


「お急ぎください。」


「お急ぎください。」


 かれは珍しく口元に笑みを浮かべた。かれは本当は冗談が好きだった。ただ、世間の趣味とは相容れないところがあって、そこがかれの人を寄せ付けない雰囲気を強めていた。かれがその言葉から連想したのは、ある詩人の言葉だった。大学図書館の地下開架でそれを見つけたとき、かちり、と時計の針が進んだような感覚になったのだ。

 かれは現在も、時計の針が進んでいる世界にいる。おそらくかれの死の瞬間まで。わたしにそれを知るすべは、ないのであるが。




 レイダンが短い眠りに落ちている間、列車は目的地へと時刻どうりに進んでいた。そのために、いつもなら待ち合わせ時間というものを気にするレイダンを、少しゆるんだような気持ちにさせた。停止のアナウンスと共にかれは腰を上げると、いつもの軽い身のこなしで扉から降りていった。何か飲み物を頼もうと、駅に備え付けられた喫茶室へと入った。そこはアジアの草木が植えられた、温室仕立ての喫茶室だった。低いソファと低いテーブルが等間隔に置かれていて、ソファの布地の鳥と草花の絡まりあった模様が、くすんだ地味な色をして、その場にしゃれたエッセンスを与えていた。かれは目を覚まそうとコーヒーを頼んだ。

「何かお読みになりたいものはございますか。」給仕は言った。

「何でもいいよ。できたら、Le jornalがあれば。」

「ではそれをお持ちいたします。」

 給仕がしなやかな体つきでキッチンのほうへ向かっていくのを眺めてから、レイダンは自分の胸の上辺りをトントンと二回叩いた。すぐに枢軸局とのアクセスが出来、かれの直属の上司との面談の予約を申し込んだ。

 注文どうりコーヒーが運ばれ、盆ごとテーブルの脇に置かれた。そこにはミルクや砂糖と共に、頼んだ通りにLe jornalの今月号が置かれていた。かれは少しの間、それをぱらぱらとめくって、流し読みをし、自分の気になっていた時事問題の、進展の度合いを確かめた。世間は相変わらずだが、それでもまとまった記事の出ている雑誌はありがたかった。少なくとも自分以外の他人が、どのようなものの考え方をするのかということだけは、よくわかるからだ。

 しばらくして、チリチリという軽やかなベルの音が聞えた。

「ナイル・ワークから返信です。アポイントが受理され、15分後に約束されました。」

「ありがとう。」レイダンはカップを手に取りながらそれに答えた。

 喫茶室では鉄道の音を相殺するために、風と砂の音が誰の耳にも届くように設計されていた。完全な無音よりも人は微かな自然の音が聞えるほうが落ち着くので、これは最近の人気のサービスだ。しかしながら、健康への弊害も当然議論されていて、そのような均質で人工的な音を長時間聞くと、精神面で多大なストレスが蓄積されるのではないか、という警告を発する科学分析家もいた。それらの声は当たり前のように無視されつつあり、このサービスを開発した組織の信頼度と付加財はうなぎのぼりだ。

 しばらくの間レイダンは、このオリエンタルなムードにひたりながら、ときおりコーヒーをすすった。

 微かな通信音とともに、約束の時間を告げるアラームが鳴った。

「いつでもいいよ。」レイアムは飲みかけのコーヒーを、ちらりと眺めた。

 突然、喫茶室の光景は消えて、自然光に満ちた石の部屋にレイアムはいた。いつもどうり、入室とともに上司の顔を見、すぐに後ろにかかった瀟洒な模様のカーテンと、時代のついた器の類に視線をぼんやりと合わせた。

「ご苦労様、レイダン。コーヒーが飲みかけだったのに、すまなかったね。」

「いつでも飲めますから。」レイダンはそっけなく答えた。

 かれの上司は顔に満面の笑みを浮かべて、しばらくの間黙っていた。

「さて、きみに免じて話をさっさと進めようか。」そういって上司はすぐそばの長方形の机をトントンと叩くと、すぐに白い書類の流れが整理され、いくつかの文書が並んだ。それを人差し指ですうっとすくようになでると、それらが床の上にデスプレイされた。その文書には隅から隅まで目を通していたので、これからなんの講義が始まるかは、レイダンにはすぐに読み取れた。かれの上司はその書類越しから、目を細めてレイダンを見てから言った。

「きみのこれからの仕事はほとんど自由行動になると思う。堅苦しいお役所仕事から逃れて、ぜひとも創造性を発揮してほしいと願っている。」レイダンはまつげを0.4インチほど動かした。

「案件はひとつだが、おそらく複雑に絡まりあっているため、結局のところ頼みの綱はきみの行動力ひとつだ。そのために選ばれたことを認識してほしい。おもわぬことが起こることを私は期待しているが、枢軸局の利害とは必ずしも一致しないので、いちいちの報告はしなくてもいい。私の所に訪問するのもしばらく駄目だ。とにかくきみ自身が情報を管理して、大変なときは適宜使いを頼んでくれば、きみの危機とみなして助けよう。使いは私の直近のものを使う。この通信は枢軸局からはシャットアウトさせてあるがそれでも後十分程度だ。さて。」上司はここで一息いれて、レイダンの顔を確かめた。

「解決すべきは嬰児殺しだ。なぜ管理の目から逃れてこのようなことが民間で起こっているのかはわからない。新しくうまれたもののなかで、ある種の選別を行っているつもりなのか、なにかの抗議なのか、それともただの楽しみなのか、単独なのか組織なのか全然わからない。世間ではこのことが話題になったとき、ある種のパニックが生まれたがそれもすぐに収まっていまでは通常の事態になりつつある。私の仕事はそこに風穴を開けること。きみはわたしの足と目だ。失敗したらきみのここでの将来はない。」

 レイダンは何も言わなかった。 

「失敗とは何を意味するのか、という顔つきだね。私のいう失敗とはすこしでもきみが損なってしまったとわたしが判断した場合に失敗とみなす。たとえば…」

「ミィアム。」レイダンは遮った。

「私の将来の心配をしてくださってありがとうございます。しかしこの通信の残り時間をさらに意義あるものにするために、話を別の話題にすべきかと思います。」レイダンはそれが私の将来の最も為になることだ、とこころの中で唱えた。

「ああ。レイダン。本当にすまない。そうだったね。」ミィアムはいかにもつらそうに眉根を寄せた。

 まるで役者だ、とレイダンはこころのなかで思った。かれの上司は貴族階級出身の、いわゆる高級層に属する女性だったが、なぜ枢軸局のポストについたのかは何年も一緒に仕事をしているレイダンにもわかりかねた。高級層の、とりたて女性はあまり働くことに熱心でなく、たいていは無給の名誉職について、家の財を惜しげもなく食いつぶしている。彼女が入所したときにはちょっとしたニュースになって、各種メディアから会見の申し込みが殺到した。でも彼女はそれを受けなかった。自分には長い髪がないから、表立った行動は控えるようにしている、というユニークなコメントつきの辞退の言葉がしばらくの間メディアを飾った。長い髪は高級層の女性のステイタスで、いくつになっても髪の毛を長くたらし、場合によっては染めている。レイダンはそれほど綺麗だとは思わないのだが、それでもたいていの人々の羨望を集めていた。ミィアムは濃い褐色の髪を肩に届くか届かないかというところで切りそろえていて、それが彼女の感じによく似合っていた。眉も目も同じ色だ。なんというのか、男性であれば幼い頃一度はあこがれるタイプ、とでもいうのか。ほっそりして若々しく、軽やかな髪とともにすたすたと歩く。20代後半ということだったが、正直にいって15、6の少年のような感じの女性だ。飄々とした顔つきをしているが、ものすごく異様な目をしていて、レイダンも彼女とまともに目をあわすことは出来ない。

 ミィアムの目的そのものは非常に明快で、世界にその名を残すこと。それだけはまわりのものにもありありと感じ取れた。独善的で短気だと一部の人間からは悪評が立っていたが、レイダンの目に映る限り、独善的なのは仕事の特色からくるもので、短気なところは微塵もなく、氷のように冷静なところのあるのに、道化も演じられるよくわからないところがあるひと、という印象だ。それに、とくに上司の内面を知りたくもないし、知ったところで既に出来ている信頼関係にみじんも影響しない、というのがレイダンの本音だった。上司の気持ちを知りたがるから、皆出世が遅れるのだ、とも。

「きみはほんとうに諦めが早く行動にすぐ移す。」ミィアムはすこしの間考えてからこう言った。「きみに仕事を与えているのは私だが、それを抜きにしてもきみの働きぶりには本当に助かっているよ。」

「ありがとうございます。」

 レイダンはこの上司のときおりの素直さには、いつもこころがかき乱された。それでもかれは一切表情を崩さなかった。なんというのか、負けるものかという素直な気持ちも、レイダンもまた持ち合わせていたからだ。

「私の推測は、このことはチャーチが関わっているのではないかと考えている。教義からすれば信じられないことだが、今でも自治を保っているのはあそこくらいなもの。何か病的なことが起こったとしても誰も取りざたしないし、声を上げる人間に対しても抑圧が効く。きみにはそこに入っていって、現状どのような光景が広がっていて、そこに住んでいる人間の思想と行動をよく見てほしい。ただ深く入り込んではいけない。なるべく早く通り過ぎるように心がけてほしい。そのためにきみには身分を与えよう。きみは教会の仕事にしばらくついて、何の痕跡も残さすに見るだけのものを見て立ち去るんだ。その次がとても大事だ。その資格と身分のまま、今度はチャーチの管理下におかれている村々を近いところから訪問していく。そこでも同じようにしてくれ。あまりにも長く滞在してはいけないが、安全だと判断した場合には、村に住み着くような形になってもよい。それはそこにいることで、さらに有益な情報が得られると思われる場合だ。そのようにして君自身の目を通して、実際に何が起こっていて、何が押し込まれているのかをみる。その蓋が開いているときにきみがその場にいるのが大事なんだ。非常に危険だ。だから常に安定した立場を保つようにこちらも尽力する。きみはきみの仕事だけを見ていく。」

 ミィアムはレイダンの顔を見た。

「わかりました。」レイダンは軽く頭を伏せて、そのまま静かに通信が途切れるのを待った。






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