第18話 白い炎であり、そうでない女

 わざとらしいまでに南国風のオアシス。

 日本人にそれをみせるのであれば、もっと美しい湖のほとりとかないのかと思いながらも、脳裏に浮かぶ言葉は黄泉戸喫。 

 日本神話で伊弉冉様が、迎えに来た伊弉諾様と一緒に戻れないと言った理由はこれだ。あの世のものを口にしたが最後、現世には戻れませんというやつ。

 どうあってもこの世界は私を死後の世界の住人にしたいらしい。

 見るからにとんでもなく美味しいお水なのだろうけれど、忍耐あるのみ。

 しかしながら、飲んでしまいたい欲求に負けそうになりそうなほど綺麗な水。

 飲まないと決めても、飲みたい欲求は湧き上がってくる。

 必死に欲求と戦う。もうこんな幻影見せるなとかぶりを振った瞬間、自分以外の誰かの気配を感じて、辺りを見回す。

 ほんの数秒前には確かに感じていたその気配が今はどこにも探せない。 

 だが、何か言葉に出来ないが違和感があった。

 重なり合うことのない世界がリンクする、そんな感じだ。

「またステージが変わった?」

 悪鬼の臭いがしない。

 うっすらとだが花の香りすらする。でも、この花の香りとは何かが違う。

 植物の自然の香りでもない。香水のようなどこか造られた香りがごくわずかだが鼻腔をかすめる。

 四方八方敵だらけのステージのど真ん中にぽっかりと現れた異様すぎる空間。

 腫れあがった唇の端が不快感を与えてくる。それにそっと指で触れてみると跳ね上がりそうになるほど痛みを感じ、声をあげそうになった。

「夢ではないらしい」

 うっかりすると眠りの世界へ誘われそうになっていそうなところを、わざと傷の痛みを利用して覚醒のための荒療治する。

 いよいよ、ご対面かもしれないと思い至って、望のことを思い出した。

 ここへぶち込まれることになる数日前、宗像の長が人生においてたった一度だけゆるされるという望への命令を出した。もちろん、望がその命令をだした人間を認めていてはじめて成立するものであるのだが、どうやら私にはその資格があったらしい。

 長が未熟であろうと、成熟しておろうと、その命令に真があるのならば時の狐はそれを叶えてくれる。

 幼い日、望がまだ白だと大嘘をついていた頃、狐男は私にこう言ったことがある。

 いつかお前が真に望むのならば神の狐がその願いを聞き届けてくれる、だから今は悲しいことは忘れて眠って良いんだよ、と。

 お前がそう言ったはずだと私が言った時、望は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 明らかに標的にされていることがわかっている私の側を離れることに大反対であったあの狐男だったが、それを我ながら上出来すぎる名文句で説得を果たした。

 

 朔が理を支配するのならば、お前は時を支配するのだろう?

 ならば、時を遡り、連れ帰れ。


 冬馬の目もあった。だからこそ、何がとは明言しなかった。

 望は私が言わずとも連れ帰れと命じた者が誰であるかを知っていた、そう思った。

 私事で時間を操作することは禁じられている。

 それでも勝利の方程式を完了させるにはこれ以外の方法を思いつかなかった。

 わずかでも時を操作すればどんな弊害が起こるかわからない。

 まさにバタフライ効果。この自分すら消えてしまうかもしれない。

「それでも私が選んだ」

 ふいに穂積の爺様の言葉を思い出した。


 直感こそが正解。

 長の決断だと知らん顔をしろ。


 偶然はない。すべてが必然だとしたら、私が望を使った段階で、ここに私が置かれている現状こそが私が作り上げた今。

「自業自得。 それとも、これが避けて通れない道?」

 疲れたなぁと言葉にしたらひどく簡単に、いともたやすくこの世界に淘汰されてしまう。楼蘭と別れてから自分の血液以外を口にすることもなく、眠ることさえ許されない。

 膝を折れば、そこへ悪鬼が群れてくる。

 歯を食いしばって立ってみても、両足がこの地に沈み込んでいくような感覚が襲ってくる。その上、いつのまにか出来た額の傷口から輪郭をなぞるようにして紅い滴が伝い落ちていく。

 真実、独りぼっちってこれほどに辛いものなんだな。

 今頃、あのクラスメイトの抱えていた苦しみがわかる気がした。

 追い詰められた先にある気持ちを知った。

 これから先に幸せが待っているかもしれないとわかっていたとしても、今が辛すぎたら確かに逃げ出したいし、投げ出したくなる。

 因果応報。

 私はこうなってみてようやく他人の痛みに気づけた。

 少しましな人間になっただろうか。

 ふと目を閉じそうになる寸前に、独特の違和感が襲ってきた。

 耳に届いたのは場違いな賛美歌だ。それは荘厳な旋律にも似た響きすらある。

 本能は拒否をしているのに、足はその声の方へすすむ。

 私の課題克服のチャンス到来らしい。


『誰だ?』


 少女のような声が届いた。

 幼いような、いや、れっきとした女の声。

 視線をあげると泉を挟んで対岸に誰かが居る。

 しばらく様子をうかがっているとあちらもこちらを見た。

 すらりとした女性。背格好は同じくらい。

 年恰好も変わらない気がする。

 だが異様に目を引くほどの真っ白く波だった髪。

 肌の色は私と同じ。ただ、その目の色が異様なほどに赤い。

 その目の色に気づいた瞬間、思わず一歩足を引いていた。


『君は誰だ?』


 それはこちらがききたいくらいだ。でも、ここでの問答に対応してはならないことは本能でわかっていたので、ひたすらに押し黙ることに徹する。


『なるほど君は賢いな。 この問答が己の首を絞めることを知っているわけか』


 黙秘を貫く私に対し、ほころぶような微笑みを浮かべた。

 私の中の戦闘意欲がどうしてか極端に奪われていく。これは相手が強すぎるときに動物が感じる本能みたいなものだ。圧倒的な脅威を前に戦うという選択肢が抹消され、すくんでいる、それだ。だからこそ、すぐに私の本能はその場から立ち去れと警告してくる。

 迷うことなく一も二もなくこの泉から離れようとした時だった。

 彼女がにっこりと笑ってとんでもない一言を口にした。


『待て。 私が黄泉の王だ』


 何を言っているんだ。本当に言っている意味がよくわからない。

 黄泉の女王は最期の時にその身を挺してすべてを封印し、消滅したはずだ。

 ただ呆然として返す言葉が見つけられなかった。

 彼女はほんの少し小ばかにしたような声をあげて笑った。


『こんな芸当を生身でできるとしたら、今上か?』


 急に身体中に鳥肌が立った。身体の芯が急激に熱を失うほどの恐怖。

 それを振り払うつもりで、ほうと息をはいて、ぐっと睨みつけた。


『正解か。 恐怖を覚えようが、今上ともなればさすがにそれで終わりとはいかないか。 ここにたどり着くとはただの今上でもないわけだろう。 さて、君の名前は何という?』 


 ぴちゃりぴちゃりと音を立てて、黄泉の王と名乗った女は泉に身を浸していく。

 それができるということは、こいつは人間じゃない。

 そのままこちらへ向かって歩いてくる。

 ぼんやりとしていた輪郭、目鼻立ちがくっきりと見え始める。 

 コイツの顔はどこかで見たことがある。どこでみたことがあるんだ?

 必死になればなる程に出てこない。


『私が相手をしてやろう。 久しく宗像の者になど逢っていないからなぁ』


 こいつの名前も知っているはずだ。どうしてかはわからない。

 冥界の第三階層にいた時と今とでは明らかに何かが違う。

 黄泉の世界は私の中にある歴史を、記憶を、知識を奪う。

 真っ白に戻したがる性質にあるのだ。

 己が己であることを維持するのがめいいっぱいの私は絶対に知っているのにたどり着けない。

 別のことを考えただけで、己が誰であるかを忘れかねない逼迫した感覚。

 足をひけ、逃げろ、動けと叱咤しているが身体が思うように動かない。

 女はびしょ濡れのままでひたひたと近づき、距離を詰めてくる。

 魂が逃げろと最大級の警告を発し、急いで後ずさったはずなのに何でこんなに身体が動かないのかわからない。 

 あったはずの距離を一気につめられ、恐ろしく、綺麗に整っている笑顔がすぐ目と鼻の先にある。万事休すとはこのことか。


『君は獣にでも選ばれたのか? そして、ここに魂がある』


 駄目だと必死に身体をひいたのに、左胸にぴたりと人差し指を押し付けられた。

 その瞬間だった。

 心臓を直接握られたような強烈な痛みと意識を奪われかねないほどの激痛が走った。

 その場に体をくの字にして倒れこみ、声にならない声が勝手に上がった。

 私がとっさにどうしてそれをしたのかはわからないが、指先を噛み、血をにじませたもので触れられた部分にぬりつけていた。

 痛みが一気に収束していくのがよくわかった。

 なんとか呼吸を整えて、ゆらりと立ち上がり、さらに数歩だけ離れる。

 急げ、十種神宝だ。


「瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品々物比礼」


 頼む、私の中の炎を呼び覚ましてくれと、願い続けた。

 黄泉でこれをするなど理に反しているのかもしれないと思ったが、本能でもうひくことはできなかった。

 間髪入れず、布瑠の言霊がすべりおちていく。


「一二三四五六七八九十・・・・・・布留部、由良由良止布留部・・・・・・」


 血のにじむ右の指先に息を吹きかけ、ポンとまだ痛みの残る左胸をはじく。

 左胸を中心に紅色の光を発する文字が自分の体を這うように広がっていく。


「暗き闇を照らす尊き月よ、汝の光を吾の血潮に呼び覚ますことを許したまえ!」


 全身にわずかなしびれは残ってはいたがほうとようやく息を吐くことができた。

 もう痛みはうずく程度で転がり回るほどではなくなった。

 イーブンとはいかなくともこれでいくらか物になると、身構えた。


『あくまでも抗戦を選ぶとは愚か。 ここで膝を折れ、王に礼を尽くせば赦してやる』


 馬鹿を言うなと私は唇をかんだ。

 女の言うことは誤りだ。黄泉の王が現存しているはずがない。

 これは宗像本家の後継者でしか知り得ない事実だ。

 こいつが何を口にしようと、それは虚言でしかないと言い切れる。

 宗像の後継として認定された時に意志とは無関係に知った現実が根拠だ。

 白い髪に、紅い瞳を持つ者が王のはずがない。

 その容姿を持つ者は最上級の罰則を受けた者の証だと記憶している。

 わずかに眉間にしわを寄せた女がこちらを凝視する。


『君を護る者たちにこう言われたのだろう? 梅の絆以外を信じるな』


 女が形の良い唇の端をもちあげた。  


『本当に未熟すぎるな』


 のせられるな、言霊だけは禁じると私は唇をかんだ。

 次の瞬間、どうしてそうなったのかわからなかったが女に完全に背後をとられ、泉の淵に膝をおらされた。


『梅はいつでも正しいのか?』


 首の後ろをつかまえられ、強引に泉の水面に顔を突き出す形となった。

 闇色をした硬質の針金のような長い髪が体動に合わせて揺れ、頬を打った。

 どうして伸びている?

 それも烏の濡れ羽色、こんなに濃い色の髪ではないはずなのに。

 瞠目せざるを得ない。

 どうしてこんなことになっているんだ。


『君の周りの者達が真実を語っているとは限らないのに、哀れなことだ。 強い者は強さをその礎にかえられておしまいだというのに』


 はっとして振り返ろうとした瞬間、間近で風を斬る音がした。

 だが、私の身体が勝手に動いて、それをよけていた。


『なるほど、君は恐ろしいほどにただの梅ではないというわけか』


 女の紅い瞳が悲しげに光る。


『梅の中にも全てを凌駕する梅がいる。 良い事を教えてやろう。 君がその役割を私に譲渡するならば今すぐに自由なれるぞ、穢れ知らずの君』


穢れ知らず。

これは隠語で、ダブルミーニングでもある。

一つ目は獣憑の王を指す。獣憑は穢れを全て獣に委ね、己の身体を汚さないからだ。それが転じて闘わずに勝ちを得る者、これが二つ目の卑怯者という意味だ。

黄泉使いは戦闘ありきの血族だ。

だからこそ、闘いを他者に委ねる者はうとまれる。


『委ねるのは得意だろう? 逃げても誰も君を責めはしない。 理を死守している君の役割など理解しないだろうからな』


理を死守。

確かにそうかもしれない。

 時が止まっているような、時々、静止画像をみているような錯覚。

 殺されかねない危機的状況であるのに私はこの女が哀れに思えた。

 片膝をついたままの姿勢で、じっとその姿を眺める。

 濃紺、いや紫色の大袖、内衣は緋色。裳をはいており、金色のそえひもで結んでいる。奈良時代にでもタイムスリップしたような気分になる。

 大袖を身に纏っていながらこの俊敏な動きはやはり格上だと思わせる。

 闘うための装束ではないことを知っているのは、これが宗像の代替わりで着用する礼装にうり二つだからだ。桁違いのポテンシャルを持っているに違いない。

だが、罰則を受けた者が穢れ知らずである『私』に何が出来るというんだ。真の意味で手出しはできないはず。


『何ができるのか?』


 女が私の心の中の言葉を口にする。


『試してみようか? 咎人が穢れ知らずに何ができるか』


 女が指先を歯できずつけるそぶりをみせた。

 とっさにそれを止めるべく、私は無謀にもその懐に飛び込んでいた。

 衣の裾をふみ、女の反応をわずかに遅らせる。

 だが、バランスを崩すこともなく女は私の首に手を伸ばした。 

 殺られると思わず身をすくめ、すぐ横に飛びすさった。


『こいつにだけは血を使わせちゃ駄目だ』


 あざ笑うように女は言葉を投げつけてくる。

 思考を完全に読み切られている。

 にたりと奇妙なまでに笑んだ。

 怖いと思い振り払った手の先が彼女の頬にわずかに触れた。

 爪の先についていた私の血液がその頬を汚した直後、その顔の皮膚が焼けただれたように見えた。

 それが錯覚でないことを自覚したのはその数秒後だった。

 美しい白磁の肌がマシュマロの溶け落ちるようにそげ落ちていく。

 顔の半分がその骨となった所で、私ははっとした。

 逃げ切れる、そう直感した。

 だが、立ち上がろうとして、胸に差し込むような痛みが走り、私はもう一度、その場に転がった。

 尋常ではない痛みが再燃し、うめき声をあげるしかできない。

 恐ろしいほどの冷や汗が噴き出し、鼓動がはっきりと聞こえる。

 気を抜けば、私は私を忘れてしまう。

 とっさに腕に己の歯を立てた。

 痛みが私の意志を必死に支えてくれる。


『お前のような梅をみると殺してやらねばと強く思うのだよ』


 女が再度距離を詰めてくる。

 渾身の力を込めて、上半身を起こした。下半身を引きずるようにして立ち上がろうと歯を食いしばる。

 もう少しというところで、私の身体が地面に倒され、女がその上に馬乗りになった。

 腐臭がする。

 首を締め付けてくる腕をほどこうと力を入れた先から女の腕が骨に返っていく。

 ぽとり、ぽとりと何かが私の頬に落ちた。

 それは血の涙だ。それはまだあたたかい。

 首を力一杯しめつけられているのに、私は時が止まってしまったように苦しみも痛みもなく、ただ女の顔を見上げた。


『君が器だと世界は言うのだろう。 獣をそばに置きながら、それでもまだ自由でもいられると信じているのだろう』


 狂気の表情で、女はそう言った。


『すべては過ちでしかないのに』


 首の拘束をはずし、抗うのが正解に違いないのに、私の両腕はそれを諦め、かわりに女の頬へ手を伸ばしていた。

 あの悪魔と容姿は瓜二つ。

 でもこの目の前の女は私の父を襲った女とは違う。そんな気がした。

 執着を手放し、解放されれば良いのに、この女は妄執に支配され、念だけでここに残っている。梅など知らんと顔を背ければ良いと、もう闘うのはよせと私はこの女に言いたくなった。


『いつもいつも悲しむのはあの人だけだ……』

 

 わずかに女の腕の力が緩んだ。

 その瞬間、馬乗りになっていた女の身体が横風に煽られたように私の上からと取り除かれた。


「阿呆! 同情なんかするな!」


 どこかで聞き覚えのある若い男の声がした。

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