君が消えたあの暑い日を僕は今も手放さない
浜風になびく赤く長い髪が逆光の陽に透けたその美しさに圧倒されて、釣り竿を放してしまった。
それが僕と彼女の出会いだった。
夏が始まって間もない、よく晴れた日に。
釣りが好きってわけじゃなかった。
何も考えずにボーっと釣り糸を垂らす。それが良かっただけ。
だから道具もちゃんとは揃えず、技術を学ぶでもなく、穴場を調べるでもなく、ただ景色が良い防波堤を見つけては釣りをしている体を装って夕焼けを待っていた。
一日中そうしていると、時々釣り糸にちょっかいを出してくる物好きな魚も居る。僕はまるで釣るのが目的であるかのように、竿を持ち、適当にリールを巻いたり伸ばしたりする。そんなときに立ち上がるのは決してエキサイトしているからではなく、ずっと座っていると腰が疲れるから。
最初のうちは、親切に教えてくれようとするベテラン釣り師みたいな人たちも居たが、僕の顔には「そういうんじゃないんだけどなー」感がすぐに出ちゃうようで、やがて平和になった。
「君、下手だね」
本当だったらその声にも、愛想笑いを浮かべて会釈を返しておしまいにしている所だったのに。
僕が釣り竿をうっかり放してしまったりするから、その釣り竿を代わりにつかんでもらう、なんていう関わりができてしまった。
「すみません」
竿を受け取る。
人は、人の目を見ようとしない人とはあまり仲良くしようとしない――という自分理論をもとに視線を外すのが常の僕だが、今回は意図的にではなく、反射的に視線を外してしまった。可愛すぎて。
「お礼、もらえる?」
お礼?
予想外の言葉に思わず彼女の顔を見て、ちょっと見惚れて、慌ててまた目を逸らす。今度はわざと。というか多分赤くなっているであろう僕の顔からも彼女の視線が外れてほしいなんて思いながら。
「お金は持ってませんよ」
人に興味を持たれるとか苦手な僕は、さりげなく周囲を伺う。
仲間が居て罰ゲームさせられているとか、それとも強面の彼氏が居てとか、まさか新手の
「釣った魚、食べさせてよ」
「いいですよ。釣れた分は全部あげます」
どうせ釣れるわけないし、もし釣れたとしても百均で買ったバケツごとあげちゃえばいいし、なんて軽く考えてそう答えたのに、なぜか彼女は――苗字だか名前だかわからないがミサキは今、クーラーボックスを抱えたまま笑顔で助手席に乗っている。
来た時は飲み物とか昼飯とかしか入ってなかったのに、今は釣れまくった魚で一杯になっているクーラーボックスを。
重くないのかなとは思うのだが、僕がクーラーボックスではなく、その下のショートパンツから剥き出しのミサキの脚を見ているとか思われるのも癪で、あえて彼女の方を見ないようにしている。見ないようにしているのに、車内は夕焼け色一色で。世界が、ミサキの髪の色に包まれているみたいだな――なんて一瞬でも考えちゃって頬が熱くなるが、幸い車内は赤く染まっているからセーフ。
しかしなんでミサキは初対面の男の車とかにあっさり乗っちゃうかな。本気で僕の家まで来る気なのかな。
バックミラーを確認するが、黒塗りの車とかに追跡されている気配はない。結局、無事に帰宅してしまう。
「包丁、綺麗だね。よく切れそう」
「あんまり料理しないから新品なだけだよ」
ミサキは片っ端から魚をさばき始める。
その手際の良さったらプロなんじゃないのって思うほど。
「ほらほら。あっちで休んでて。運転でお疲れでしょ」
二人立っていると窮屈に感じる台所とアコーディオンカーテンでしか隔てられていないリビング兼寝室へと移動する。
ソワソワする。
女子が、それもあんな可愛い子が僕の部屋に居る。しかもなんだか夕飯を作ってくれている。
緊張する。
緊張が酷くなる。
ちょっとエッチな展開とか妄想して気を紛らわそうとしてみる。
そのタイミングでミサキが山盛り刺身を持ってこっちの部屋に来たよごめんなさい。
「食べよっ」
「あ、ありがと」
砂場の棒倒しのように、山盛り刺し身を二人でぐいぐい消費してゆく。醤油だけじゃなく、炙り味噌とか、塩&ワサビとかでけっこう飽きない。
お腹いっぱいになったのと、緊張がほぐれたのと、運転疲れと気疲れとで瞼が少し重くなる――が、このままおやすみなさいってわけにはいかないだろう。
「ミサキの家ってどこ? 車で送るよ」
「うーん。私の家は遠いよ?」
「遠いって……今日の海の近く?」
「ううん。もっと。海を越えるの」
「え?」
「泊まってもいい?」
「い、いいけど」
変な声が出る。
帰りに寄ったコンビニで、アレは目についたけど買ってきてないし、そもそも僕はそういう経験自体ないし。
「汚いベッドで申し訳ないけど、ミサキが使っていいから」
声がちょっと震えてしまい、かっこ悪い。
恥ずかしさからまた赤くなった顔を見せないようミサキに背を剥け、クローゼットからこたつ布団を引っ張り出す。とりあえず今夜はこれを布団代わりにしよう。
部屋の電気を暗くして横になる。
眠たいのに眠れない――なんて思っていたのも最初のうちだけで、あっさり熟睡できてしまった。
目覚めも良かった。なんかね、部屋全体にふわりと甘い匂いがして。どこかで嗅いだことがある果物の匂い。これが噂に聞く「女の子の甘い香り」ってやつなのかな。
ベッドを見ると、ミサキの無防備な寝顔がそこにあった。昨日のことは夢ではなく、居なくなってもいなかった。
僕がまた見惚れていると、ミサキがパチリと目を開けた。目が合う。とっさに言い訳が出てこない。寝顔見つめてたとかキモいよね?
「おはよ」
「お、おはようっ」
ミサキはキモい僕の笑顔とは真逆の邪気0%の笑顔を見せた。だめだよこんなの絶対好きになるだろ。
「ね、今日も海に行こ!」
「今日は、雨だけど」
「行こっ!」
結局ミサキに押し切られ、僕らは海へと出かけた。
雨よりも風が強い中、二人で大きな一つのポンチョ型雨合羽にくるまって、釣り糸を垂れる。
ミサキの甘い匂いも、体温も、刺激の強い感触も何もかもが近くって、全く釣りに集中できない――のに、釣れまくる。けれどもう、どんなに釣れても、僕の頭の中はミサキでいっぱいになっていて、そしてとうとう、男特有の恥ずかしい状態に気付かれてしまった。
「私のこと、好きなの?」
ミサキは特に様子もテンションも変えることなく直球を投げてきた。
いやもう好きか嫌いかなら絶対に好きではあるんだけど、これは単なる肉欲なのかもとか、もしかしたらからかわれているのかもとか、告白した途端にキモいって言っていなくなっちゃうんじゃないかとか、頭がぐちゃぐちゃしてくる。
それに。僕が女性に対して「好き」と言うことに対してはトラウマがある。
「……僕は」
言葉に詰まる。これできっとミサキには愛想をつかされて――それなれそれでこれ以上、無駄にドキドキしないで済む。
明日からは仕事だし、ほんのわずかな間、楽しい夢を見させてもらったとでも考えようか――って!
「うわっ!」
思わず声が出てしまった。ミサキが僕の首筋を舐めたから。
「わかった。こいつが邪魔しているんだね」
こいつ?
何のこと?
「行こう! 今日はもう釣りはやめて」
「い、行こうってどこへ?」
「山の方」
その言葉に驚いた。僕がずっと山を避けていたことを、誰にも言ったことのない核心を、ミサキが唐突に言い当てたから。
「ミサキには、山ってどこの山だかわかるの?」
「あっちでしょ?」
ちゃんと僕の故郷の方角を指している。
山に囲まれた田舎。もう二度と帰ることはないと思っていた場所。僕を守るために身代わりとなったじいちゃんの眠る、あの故郷。そのじいちゃんに、もう戻ってはいけないと言われたそこへ、とてもじゃないけれど戻ろうなんて気はおきない。
「ごめん、ミサキ。じいちゃんとの約束でね、僕はあそこへは戻ってはいけないんだ」
「なんで? 嫌いなの?」
「嫌いなもんかっ……でも、じいちゃんは僕のせいで亡くなったから」
「そっか。でもそしたらこの先もずっと一人で我慢し続けて生きてくの?」
考えないようにしていたことを、ミサキはあっさりと僕につきつけた。
詰まった言葉が口を塞ぎ、それでもまだこみ上げてきた想いが目から決壊する。みっともなく涙を流す僕の頬を、ミサキの舌がゆっくりと撫でる。
ミサキの呼吸も心音もやたらと近くて、こんな状況なのに、こんな気持ちなのに、僕の体は勝手に興奮した。
ミサキはそんな僕に愛想を尽かすこともなく、今日も一緒に帰宅して、その夜は、ずっと溜まっていたものを全て、ミサキに受け止めてもらった。
目が覚めたとき、僕はユニットバスの中に居た。
いや、風呂の中で寝落ちとかじゃなく、部屋着は着ていたけれど――夢を見ていた? いったいいつから? ミサキと出会ったのも、その後のことも全て夢? だとしたらそんな夢を見る僕は――なんて自嘲しながら台所へつながるドアを開けようとしたが、開かない。ドアノブがピクリとも動かない。
どういうこと?
それからの体感での数時間、いろいろ試してみたが、天井にある蓋みたいなのさえも全然動く気配がない。
幸い、電気は点いてるし、シャワーから水は出るし、トイレもある。でもそれだけ。せめてスマホでもあれば……。
大声も出してみたが誰も助けには来てくれなかった。うちは一階の角部屋で、隣は半年前くらいから空き部屋。恐らく寝室に置きっぱなしであろうスマホが何度も鳴っていたが、それでも誰かが外から怒鳴り込んで来たりはしなかった。
水だけではだんだん腹が減ってきて、蓋を閉じたトイレの上に座る。
最後の手段はこの扉に体当たりして脱出……となると、無駄に体力を使うわけにはいかない。
ため息も涙も出る。いったいどうしてこんなことに?
涙。
ふとミサキの舌の感触を思い出す。
舌だけじゃない。触れたところ全ての感触を……本当に夢だったのかな。こんなにはっきりと全て覚えているのに……もし、全部夢じゃなかったのなら、あの何度もかかってきている電話は恐らく会社から。
深く考えたくなくて、僕はそのままふて寝した。
どのくらいの時間が経っただろうか。
体の側面に布団の感触を感じて、うっすらと目を開ける。
見慣れた自分の部屋。
本当に夢だったのか?
電気は消えていて、外はもう明るい。スマホを探して手を伸ばそうとして、背後に気配と感触を感じて振り返る。
「ミサキ?」
ミサキは眠そうに目を開けて、優しく笑った。
「え?」
慌てて飛び起きて、ミサキの上半身を見て慌てて掛け布団をかけて、それからスマホを探して、充電が切れていることに気づいて急いで充電して、テレビをつけて時間を見て天気予報から今日の日付を知って絶望的な気持ちになって、通話できるくらいまで充電が回復して急いで会社に電話して。
三日間も無断欠勤した理由をしどろもどろになって説明している途中にミサキがちょっかい出してきて、その声が上司にも聞こえたみたいで、電話が切られる直前に言われた「クビ」という言葉に呆然としながら座り込んだ。
「ね、海、行こう!」
ミサキは屈託のない笑顔。
「ちょ、ちょっと待って。いったん、整理させて。何がどうなっているのか……」
「えっとね。まず、一番大事なことから言うね。あたしの前でおならは絶対にしないでね。絶対。あと、あたし鶏肉嫌いだから。鍋も嫌い。土鍋、捨てちゃったから」
「えっと……おなら、気をつけます。それから他のことも……えっと。どういうこと?」
「一緒に暮らさないの?」
「いや暮らしたいけど、でも」
言いたいことと聞きたいことが多すぎて口が渋滞を起こす。
「大丈夫だよ。もう、おじいちゃんのお墓参りだっていけるよ」
「ど、どういう」
「背くらべして、あたしが勝ったから、あの女は他の土地に移っていった。あの女が抱えていた君の匂いは消してきたから、もう大丈夫」
背くらべ。その単語を聞いた瞬間に、子供の頃の、十五年前のあの悪夢のような夜が脳内に蘇って……こない?
何だろう。あまり怖くない。というか、記憶が薄れていっている、というか。
あの女に最初に会ったとき、実家の高さ3メートル以上ある生け垣の上からはみ出ていた白い帽子……まで、ぼんやりと霞んでゆく。その帽子の記憶も、風に飛ばされたみたいにどこかへと飛んで、それからはもう全く恐怖がなくなった。
「ミサキ……ミサキは……」
何なの? という言葉を呑み込む。
あの女よりも強い怪異なのだとしたら僕にはどうすることもできないし、そもそも、こんなに可愛くて、可愛くて、可愛いミサキならば、怪異だとしても――出会う前までは、一生童貞のまま、怯えて死ぬのかとか思っていたから。
「ミサキは、可愛くて、ずるい」
ミサキは嬉しそうに笑った。
あっという間に季節が巡った。
無断欠勤した会社は辞めざるを得なかったけど、ミサキのススメで買った宝くじが大当たりして、悠々自適に魚を釣って暮らす日々。
たくさん釣れ過ぎたときに魚を分けたのがきっかけで、たまに魚と料理や別の食材を交換してくれる海鮮居酒屋なんかも見つけたりして、とても幸せな日々を送っていた。
最近は、ミサキがどこからか入手してきた小さなガジュマルの鉢を大切に育てている。
何もかもが順調で怖いくらい――でもそんなこと、欠片でも考えちゃいけなかったんだ。
その日は朝からやけに暑かった。
いつもと変わらない、そんな日常の延長に、それは起きた。
馴染みの海鮮居酒屋さんに「もしも釣れたら」と頼まれていた魚が釣れて、釣りの帰りに寄ったときだった。
「いつもあんがとな。これはお礼。持ってきな」
保冷剤の乗ったプラスチック容器を渡される。
「こちらこそありがとうございます。煮付けですか?」
「良いタコを仕入れてね。半夏生だからさ、タコを食べないと」
「ありがとうございます」
車に戻ると、助手席でずっと待っていたミサキの機嫌がなんだか悪い。
いつも笑顔を絶やさないミサキらしくない。
「どうしたの?」
「口にしたくない」
変質者でも来たのかと車の周囲を見回したが、それっぽい人影はない。
仕方なく車を出したが、ミサキの表情はどんどん曇ってゆく。ミサキと一緒に暮らすようになってからもう一年近くになるというのに、こんな表情も、不機嫌なのも初めてのこと。
でもそのときは理由もわからず、ただただ一人で不安になっているだけで、とうとう家まで到着してしまった。
「捨ててから来てね」
ぶっきらぼうに言い残し、ミサキは先に車を降りる。
捨ててから……その対象になりそうなものをあれこれ考えてみるが、該当しそうなものといえば例の海鮮居酒屋さんからもらったタコの煮付けくらいしか思い当たらない。
でもせっかくもらったものだし、次に会ったときには感想を聞かれるだろうし、さすがに捨てるというのは気が引ける。だから僕はそれをその場で食べることにした。胃の中に捨てるってやつだ。
どうしてそのとき、もっと深く考えなかったのか。ミサキの態度と、ミサキが僕の家に居着くことになったときに伝えてきたことと、よくよく考えれば、結びつけることだってできたはず。なのに僕は、目先のことしか見えてなくて。
タコは柔らかく煮付けてあって美味しかった。
本当に、その程度のことのために。
今の僕は、タコは見るのも嫌い。後悔と、自分の愚かさに対する自責とで苦しくなるから。
ミサキが居なくなってから、多分、何日か過ぎた。
その間、僕は何もできず、やろうとすらも思わず、ずっとあのユニットバスに閉じこもっていた。そこにずっと居続けたら、ミサキが戻ってきてくれるんじゃないかって淡い期待も、僕にそこから出るという選択肢を捨てさせ続けた。
タコは全部トイレに吐いて流したし、口の中が出血するくらい歯も磨いた。
それでもミサキは帰ってきてくれなかった。
ミサキに出会う前まではずっと一人で生きてこられたのに、僕はどうしてこんなに弱く、情けなくなってしまったのだろう。
もう一人では生きていけないかも。
ああ、そうか、そういう手段もあるのか、なんてぼんやり考えながらバスタブの中にうずくまっていた僕の視界に、亀裂が入った。現実逃避のユニットバスと、現実とを隔てていたドアが、ゆっくり開いたのだ。
小さな女の子だった。
それは、可愛らしい、幼い、まるで三歳かそこらの――そしてミサキと同じ赤い髪の。
直感的にミサキの家族だと感じた。屈託のない笑顔が似ていたから。
その子はバスタブのすぐ近くにまで歩いてきて、バスタブの縁から僕へと手を伸ばす。僕は黙ってそれを見ているだけ。女の子はそれでもなお僕へと手を伸ばし続ける。その必死さに、僕は思わず女の子の手を取った。
柔らかくて温かい手が、僕の人差し指をぎゅっと握りしめ、女の子は嬉しそうに笑った。
「お、とう、さん」
「え?」
今、なんて言った? お父さん? 僕が?
「お、とう、さん、なでて、くれない」
なでて、くれない――撫でて? まさか?
僕はバスタブから出て、その子を抱きかかえて寝室へ。
窓際に置かれた小さなガジュマルの鉢。頭を撫でてあげると喜ぶよってミサキに言われてから、いつも葉っぱの上のほうを優しく撫でるのを日課にしていた――けど。
まず、ガジュマルを優しく撫でてみる。女の子は嬉しそうな表情。次に女の子の頭も撫でてみる。またもや嬉しそうな表情。
「もしかして、君はこのガジュマル?」
「キミ! あたしの名前はキミ!」
はしゃぐ女の子の耳に訂正の言葉は届かず、その子の名前はキミちゃんということになってしまった。
それから更に一年が経った。
キミちゃんは相変わらず僕と一緒に暮らしていて、外見はもう5、6歳くらいに見える。会話だって流暢にできる。
一応、役所に届けようとはした。自分の娘として――でも、ダメだった。「ここに居る女の子、見えませんか?」と一人で言っている怪しい、もしくは可哀想な若い男、みたいな目で見られてしまって。
そもそも、キミちゃんを見ることができる人には滅多に出会わない。おかげで通報とかされずに済んでいるのだろうけど。
食事はミサキのときと変わらず、ほぼ釣った魚。キミちゃんがついてきてくれると、必ずたくさん釣れる。
さすがに刃物は持たせられないので、僕がさばく。そのとき必ず、魚の目玉はキミちゃんにあげる。ミサキが魚をさばいてくれていたとき、目玉をつまみ食いしていたのは知っていたから。
キミちゃんは本当に魚の目玉が好き。キミちゃんを――ミサキがあの小さなガジュマルの鉢を持ってきた日からちょうど一年経った時には、市場でマグロの目玉を買ってきて食べさせてあげた。
キミちゃんの驚いたような、幸せそうな、とても興奮した笑顔は、やっぱりミサキに似ていて、キミちゃんが眠ってから僕は少しだけ泣いた。
実は僕なりに、ミサキやキミちゃんのことを調べてみた。
彼女たちは恐らくキジムナーという存在。
伝説とか伝承といったものには様々なキジムナーが描かれ、ある部分では彼女らと一致し、ある部分ではちょっと異なったりもした。
そんな中で、キジムナーの嫌いなもの、というのも見つけた。
タコ、ニワトリ、熱い鍋蓋、おならが嫌いという。
タコ以外の三つは一緒に暮らし始めるときにNGとして伝えられたが、タコに関しては話題にするのも嫌だったとは――もっと早く調べておけば、ミサキが居なくなることを回避できたかもしれなかったのに。
過ちは繰り返さない。
僕はキミちゃんのことは全力で守った。
キジムナーの嫌がるもの全てから無縁の暮らしができるように。
一度、テレビをつけていたら、一瞬だけ「たこ焼き」という話題が出ていたことがあった。すぐにチャンネルを変えたが、キミちゃんはその晩、うなされていた。慌てて起こして、大丈夫だよって抱きしめた。
キミちゃんは寝ぼけながら、ずっとずっと前の人が、海の底のアレと戦って、逃げて、怖かった、と断片的なことだけ言って、再び眠りについた。ご先祖様から受け継いだ記憶とかなのだろうか。とにかくキジムナーにとってタコは、海外での呼び名「海の悪魔」くらいに酷く怖いモノなのだろう。
ミサキのようにいなくなるんじゃないかって不安でずっと僕だけ起きて抱きしめていたが、キミちゃんは翌朝からはすっかり元気になって、僕に笑顔を見せてくれた。
キミちゃんは、テレビで気に入った服があると、いつの間にかその服装になっていたりする。それでテレビを自由に見せていたんだけど、あのうなされ方もしんどそうだったし、ミサキみたいに居なくなってしまうのも嫌だったしで、番組表は事前に全部調べておいて、タコが映りそうな番組は全てチャンネルを変えるようになった。
それからさらに数ヶ月後。
「お父さん、見て! イルカ!」
鹿児島から沖縄へと渡るフェリーの中に僕らは居た。
アパートの更新タイミングで解約し、1メートルほどに育っていたガジュマルと必要な荷物を全部、僕の小さな車へと乗せ、海沿いを走りながら南下してきた。
目的は、ミサキの宿ったガジュマルを見つけ出すこと。
キミちゃんによると、ガジュマルから離れていても、ガジュマルに触れて話をすれば聞こえるという。
僕はもう一度ミサキに逢いたいし、ちゃんと謝りたいし、キミちゃんも逢わせてあげたい。できればまた三人で一緒に暮らしたい。
沖縄と離島と、とにかく片っ端から全部の――ミサキは、あの八尺様に背くらべで勝ったって言っていたから、それだけの大きさのガジュマルを、確認すれば、きっと会えるはず。
ミサキ本人には会えなくとも、ミサキのことを知っている別のキジムナーに会えるかもしれないし。
フェリーは那覇に到着し、僕らは車へと乗り込む。
窓からは沖縄の風と、強い陽の光。
開け放たれた窓の外を見つめるキミちゃんの、肩まで伸びた赤い髪が陽に透けながら風になびく。
「お父さん」
キミちゃんが急に振り返った。
「な、なに?」
「お母さんのこと、思い出してたの?」
「そ、そりゃそうだよ」
「ラブラブだねぇ。でもきっと大丈夫だよ、こっちに行けば……」
キミちゃんが指した方向へハンドルを切る。
そうだね。あの日の続きを、もう少しで再開できる気が僕にもしている。
<終>
キジムナー、八尺様
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