トウフ

「お前にも見えてるのか?」


 普段から無口な先輩に、突然話しかけられた。

 僕が焦ったのは営業の田端さんに見とれていたのがバレたから。

 アドリブに弱い僕の頬と耳は、先輩の問いかけにリトマス紙のように勝手に反応する。


「せ、先輩もですか」


 とっさにそう答えたのは照れ隠し。

 でも答えた後で気付いた。先輩は「お前も見て」ではなく「お前にも見えて」と尋ねたことに。


 その後すぐ、午前中の仕事のことで課長に呼ばれ、先輩との会話はそこで中断された。

 モヤモヤしたまま午後の仕事をこなし、少しだけ残業してようやく本日の業務終了と肩の力を抜いた帰路、また先輩に話しかけられた。


「ちょっといいか?」


「は、はい」


「他の奴の後ろにも見えるか?」


「他の……?」


「トウフ小僧だよ」


「豆腐小僧?」


「……そこまでじゃないのか。すまん。お前にはどう見える……例えば、あの痩せたスーツのメガネ男」


 先輩が指したのは身だしなみが立派でそこそこの地位にありそうなサラリーマン風の男性。駅前の賑やかな場所だというのに険しい表情をしている。ああいう人が上司だったら質問があっても声かけられないだろうなってタイプ。

 でもそれだけ――いや、先輩は「他の奴の後ろ」って言ったっけ。メガネ男性の背後を見つめてみる。

 パソコンモニタをずっと凝視していたせいか疲れ目でちょっとボヤケている――中で、なんだか白っぽい影のようなモノが見えた。

 最初は眼精疲労ゆえの見間違いかと思ったが、一度「見えたかも」と思ってしまったその瞬間からモワッとしていた白い影はやけにクリアになってゆく。

 くっきりとした白い影。それはメガネ男性の後ろをひょうひょことついて行く。


「なんか白い影がひょこひょこついて行ってるように見えます」


「ああ、俺が見え始めた頃と同じだ」


「え、目の疲れとか気のせいとかじゃないんですか、あれ」


「トウフ小僧だよ」


 また同じこと言った。重要なことだからなのかな?

 それにしても「豆腐小僧」って、妖怪か何かか?


 先輩は自分と同じモノが見える人間に会えたことが嬉しかったらしく、夕飯を奢ってくれはしたが、肝心の豆腐小僧についてはあまり詳しく語ろうとはしなかった。

 ただ「見え始めの頃はお前と一緒ぐらいだったのに、そのうちハッキリ見えるようになっちまった」とだけ。




 数週間が過ぎた。

 先輩の言葉通り、あの白い影はいまや本当に小僧というか子供みたいな姿に見えている。

 「豆腐小僧」と検索して出てくるあんな面白可愛い着物姿ではないが、服装はなぜか印象に残らない。笠も帽子の類いも被ってはいないのだが、頭の上半分は不思議と影に覆われている。

 そして手には、皿に盛られた白い四角いものを持っている。豆腐を持っているから豆腐小僧なんだろうな。

 残念なことに写真には映らない。


 あと驚いたのは、豆腐小僧がついて回る人ってのがそこそこ居ること。

 うちの職場では田端さんだけだが、あのメガネ男性の他にも、上品そうなマダムとか、チンピラ風の中年とか、多分僕より若い茶髪の女子とか、豆腐小僧が跡をつける人たちの共通点はよくわからない。


 先輩とも豆腐小僧の話はあれきりしていないので、ハッキリ見えるようになったこともまだ伝えていない。

 だから人の後ろではなく前を歩いている豆腐小僧を見つけたときも、特に先輩への連絡などしなかった。




 その豆腐小僧はゆっくり歩いていた。ときどき自分の背後を振り返る。まるで自分の後についてくる者が、はぐれていないかを確認するかのように。

 僕の記憶にある限り、豆腐小僧がまとわりつく人間に子供はいなかった。一番若かった女子だってハタチ前後ぽかったし。

 それがこの子は豆腐小僧よりも背が低く、かなり痩せていて、しんどそうに足を引きずって歩いている。しかも時間的にはあのくらいの年齢の子供なら家へ帰る頃合い。

 複雑な事情を持つ子なのかもしれない。なんだか放っておけなくて、気がついたら目で追い続けていた。


 豆腐小僧と痩せた子供は、大通りから小さな通りへ、賑やかな道から寂れた道へ、さらに細い静かな路地へ。人通りもどんどん少なくなってゆく。

 子供の家に向かっているのだろうか。明らかに豆腐小僧が先導しているように見えるけれど。


 堂々と跡を追うのは何となく事案っぽい気配もするので距離を保っているのだが、周囲はもう暗い。豆腐小僧が仄かに光りをまとっていなければ、見失っていたかもしれない。

 それにしても辺りが暗すぎる。道の両側の民家がどこも明かりが灯っていないし、街灯はいまどきLEDじゃないし。

 ふと時間を確認して驚く。二十時を過ぎている。いつの間に? だって子供を見かけたのはまだ夕闇が空の端っこにしかなかった頃だった。

 急に不安になる。


 視界の端でぼんやりとした光が動きを止めた。

 つい電信柱の陰へと隠れてしまう。

 二人は大きな建物の前で立ち止まっている。中からやけに体格のいいエプロン姿の大人が出てきて、子供と何か喋っている。エプロンをつけてはいるが体つきは男性のようだ。親子なのかな。

 あ、豆腐小僧が居なくなっている。しかも大人が子供の手を引いて建物の中へ。


 気がついたら電信柱の陰から飛び出していた。

 親子ならいいが、もしも違ったならば。僕は今、とんでもないモノを目撃してしまったのかも。

 焦燥が自然と足を早めさせる。

 建物は錆びたトタン板で覆われた二階建て。窓から漏れ出る光が、体育館の半分くらいの大きさで町工場っぽいその建物の周囲には他の建物が建っていないことを教えてくれる。

 大人が子供を連れ込んだ入り口は開けっ放しで光と煙――いや、湯気のようなものが漏れ出ている。

 まずは中を確認しよう。

 偶然、前を通りがかった人を装い、入り口の前を通過する――予定だった。


 建物の中は外観に比べてやけに狭く感じた。

 明るくて、ステンレス製の大きな作業台がある以外は特に何もない部屋。

 エプロン姿の大人は、これだけ明るいのに顔にだけ影がかかって見えず、いやそんなことどうでもいい。太い片手には中華包丁のようなものが握られていて、もう片方の手で子供の肩をがっしりと押さえている。


「あ」


 やめろ、と言おうとしたつもりだった。だが声をだす前に包丁が子供の頭回りをぐるんと一周してしまって、僕の喉から出てきた言葉というか音はその短い一音だけだった。

 エプロンのそいつは、子供の頭頂部を包丁で、まるで帽子を脱がせるみたいに器用に取り外すと、そこへ手をつっこんで白い塊を取り出した。

 包丁の上の頭頂部を子供に両手で持たせると、今度は包丁の腹で白い塊を叩き始める。前後左右上前後左右上……叩かれて叩かれてすっかり四角くなったそれを、子供が手にした頭蓋皿の上に乗せた。

 それと同時に、明かりがフッと消えた。

 周囲は途端に闇に溶け込む。ただ一つ、というか一人、白い四角いモノを乗せた皿を持つ子供……豆腐小僧のように仄かな光をまとっているそいつだけを残して。




 気がついたら、最寄り駅だった。

 いつどうやってあの場を離れたのか、電車に乗ったのかは覚えていない。発車ベルが鳴り止む前に慌ててホームへと降り、改札を出る。

 現実の中を歩いている感覚はまだ戻らなくて、何度かかかとをアスファルトを打ち付けながら帰宅する。幸い、帰路で豆腐小僧との遭遇はなかった。

 部屋の鍵を開ける時、鍵を鍵穴になかなか挿れられなくて、自分が震えているのだとようやく気付く。

 その晩は何も食べられず、風呂に入る気も起きず、結局眠れもしなかった。


 翌朝、熱めのシャワーを無理やり浴びたが、家の外へ出て豆腐小僧を見てしまうのが怖く、玄関のドアを開けられなかった。

 会社に休むと電話を入れた所、まだ早い時間なのに先輩が出た。

 僕は昨日見た全てと、その前からの豆腐小僧が見えるようになってからの全てを、とにかく喋った。

 先輩は最後まで全部聞いてくれて、最後に小さくため息をつくと、こんな話をしてくれた。




 俺には一歳違いの兄がいるんだ。自分で言うのもなんだが、俺は小さい頃から勉強がよく出来てね。両親は兄よりも俺ばかりを可愛がった。特に父親は贔屓が酷く、兄のことをまるで居ないかのように扱うことさえあった。俺は兄のことを好きだったから、両親に褒められるたびに居心地が悪く、兄への申し訳なさでいっぱいになった。

 そんな状況で俺が小二のとき、兄が交通事故で亡くなった。両親にかまってほしくて心配してもらいたくて車道に飛び出して、そのまま。だがそれを、うちの親は「馬鹿な自殺」と言って公にせず、身内だけでさっと葬式を済ませると遠い場所に引っ越した。そこでの暮らしは、まるで兄など初めからいなかったかのようだった。

 俺はつらかった。だから最初に兄を見た時、兄への申し訳なさから見るマボロシだと思ったんだ。触ろうとしても触れなかったし。顔も、上半分は影に覆われてよく見えなかったし。

 兄はいつも両手で、白い大きな四角いモノを乗せた皿を持っていた。そして両親の、とりわけ父親のあとを付いて回っていた。時折、手に持った皿を父親の背中へ向けて持ち上げたりもして。見てて辛かったよ。だから俺は兄を手伝おうと思ったんだ。

 その頃にはもう俺は、年齢も背の高さもかつての兄を超えていたから、皿を下から持ち上げて父親の前へ持っていってやろうとしたんだ。そんな想いが通じたのか、兄にはずっと触れられなかったのに、白いものには触れることができてね。ほんのり温かかったその白いもののかけらが手のひらに残ったんだ。

 俺は父親にそれを見せた。けれど、父親にはその白いかけらは見えなくて。捨てるのも兄に悪いと思った俺は、その頃は豆腐だと思い込んでいたから、口に運んだんだ。食べたんだよ。トウフを。

 するとな、兄の想いが、記憶が、なだれ込んできた。味とか食感とかは覚えていない。兄の感情の洪水が俺の中を一気に通り過ぎてゆく感じ。それでわかったんだ。自殺じゃなく寂しかっただけだと。そして俺のことも恨んだり怒ったりしていなかった。俺は悪くないって想ってくれていた。

 それで俺は中学から全寮制の学校に入って、大学は一人暮らしで、社会人になってからは両親と縁を切って一度も会っていない。




「おい、聞いてるか?」


「は、はい。聞いてます……すみません。こんな喋りにくいことを、話してもらったりして……」


「いや、大事なのはここからだ。トウフには兄が死んでからの記憶も残っててな」


 死んでからの記憶?


「兄は当時の自宅前でトウフ小僧に見つけてもらって、トウフ工場に連れて行ってもらったんだ。お前が見た建物は恐らくトウフ工場だ」


「と、豆腐工場?」


 あの、オカルトスプラッタじみた怪しい建物が?


「入り口で包丁を持った大人が出てきて兄に言ったんだ。お前の年齢ならばまだ頭の腑で頭腑トウフを作ってやれると。その頭腑トウフを、自分のことを忘れた人に食べさせることができれば、一生忘れないでいてもらえるって。兄はそれを受け入れ、後はお前が見たのと一緒だよ。そうやって兄は頭腑トウフ小僧になったんだ」


 先輩のその話を聞いて、忘れていた事を思い出した。頭腑トウフ工場が真っ暗になった直後に耳元で囁かれた言葉を。


『お前の年齢だと無理だな。オレの声を思い出したら殺す』




<終>

豆腐小僧

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