夜に誘われて

 手櫛の指の隙間から彼女の髪が逃げた。

 それまで彼女の温度と湿度を感じていた掌にあたる風は少し冷たい。


「もう行くの?」


「うん」


 僕は彼女を引き止めない。


「じゃあ、また明日の夜かな」


「ありがとね」


 彼女は再びベッドへ戻ってきて僕に口づける。

 優しいキスなのに、鉄の臭いが強く残った。


 僕が余韻に浸っているうちに、彼女は夜の向こうへと消えた。




 彼女と初めて出遭ったのは三ヶ月ほど前の深夜。

 あまりにも寝付けなくて散歩に出た先の近所の大きな公園で。


 そこは住宅街の中にあるにしては広くて樹々も多く、大通りからは離れ、車の音も遠い。

 僕みたいに散歩で来る人もいれば、子供を遊ばせる親子連れ、犬の散歩やジョギング、ウォーキング、カップルも若い人から熟年、老年まで……とにかくにぎやかな所……昼間は。

 だからその公園に自分一人だけというのが何とも不思議だった。


 僕の靴音と、草や葉のざわめきだけが、深夜という楽譜の中で役割を与えられている。

 ここでなら寝られるかもしれないな……体も心も五感も伸びをしたその端っこに、猫の声が触れた。


 猫の集会?

 確かに日中、猫を見かけることはあるけど、そんなに頭数いるものなのか?

 軽い気持ちで鳴き声を辿る。


 声は……公園内を巡る通路を外れ、茂みの向こうへ。

 何本かの樹を避けて、僕は唐突に彼女に出遭った。


 通路にしかない照明からは離れているため薄暗いその中に、彼女の整った顔と、長く伸びた彼女の脚だけが仄白く浮かび上がる。

 年齢は僕よりちょっと下くらい……高校生かも?

 髪はふんわりとしたショートボブ。

 明らかにサイズオーバーのパーカーをダボっと着ていて、長袖の先からは指がわずかに見える程度。その裾は膝上までを覆い、まるでミニのワンピースのよう。

 靴下なしで直接履いているローファーの周囲には猫溜まりができていた。


 彼女に見とれていた僕の足元で、小さなニィという声が飛び回り、視線を移すとまだ大きくない仔猫が二匹、僕のスニーカーの紐にじゃれていた。

 僕はしゃがんで仔猫たちへ手を伸ばす。

 頭を撫で、耳や喉元をくすぐり、腹を優しくまさぐり、そしてまた首をくりくりと指で弄る。


「猫、好きなの?」


「それなりに」


 本当はすごく好き。

 彼女がここに居なかったら、わざわざ寄ってきてくれたこの仔猫たちに触れるとき、深夜だというのに声が出てたと思うくらい。

 でも、彼女が居るこの場へ残る言い訳に猫好きを装っていると思われるのも嫌だったし、少し濁して答えた。


「もっと猫見たい?」


 こんな綺麗な子に誘われている、ということを理解するまでに数秒かかった。


「え?」


 理解したはずなのに、自分の経験がそれを否定する。

 それで出た言葉が疑問形。


「ついてきて」


 このあまりにも非現実的な誘いに、僕は我へと返った。

 思えばこんな時間にあんな可愛い子が一人で居るはずはない。

 何かあったときのためにきっと屈強な男みたいなのが隠れていて……そして鼻の下を伸ばしてついていったら、僕はきっと健康か金銭かとにかくとんでもなく奪われる。

 だから。

 立ち去る彼女に猫たちがこぞってついて行くという奇跡のような光景を見ても、僕の足は逆方向へと走り出した。




 念のため帰宅ルートは遠回りの道を選ぶ。

 深夜だし不審者と思われないよう走らないでいるけれど、鼓動がどんどん早くなる。

 時々、バッと振り向いてみたりしたけど、特に尾行されている気配もない。

 なのに、ようやくアパートに帰り着いて部屋のドアを開けたとき、僕の背中に何かが貼り付いた。


 言葉にならない大きな声が、深夜なのに出た。


 背中に貼り付いた何かを慌てて振り払おうとTシャツを脱ぎ、全力で閉めようとした扉の内側に、人影がスッと入り込む。

 そいつをなんとか外へ押し出そうとして突き出した両手の先に予想外の柔らかさを感じ、僕の思考は再び、理解までに時間を要することとなる。

 その間に人影は僕の手に優しく触れ、自身の裾から服の中へと導いた。

 さすがに僕も気づいた。

 自分の手が触れているものが何であるかに……というより、丸見えだった。

 アパートの廊下の通路灯が逆光気味に浮かび上がらせたパーカーの下は、何も身につけていなかった。


「交換条件」


 さっきの彼女の声だった。

 何と何が交換になるのかを言わない彼女への不信感は、その直後の甘く深いキスや指先に触れる感触や僕の体をまさぐる吐息を凌駕することはなく、僕はその場所で彼女に押し倒されることに抗えなかった。

 唯一できたのは、玄関の戸を閉めることだけ。




 血を吸われていたことに気づいたのは、少し落ち着いてシャワーを浴びているときだった。

 浴室の鏡の自分の首筋に二つの小さな穴が穿たれていることも、その鏡に彼女が映らないことも、不思議と恐怖はなかった。


「僕も……吸血鬼になるの?」


「ならないよ。眷属を増やすことができるのは真祖様だけ」


「じゃあ、秘密を知った僕は殺される?」


「そんな簡単に殺したら、もう飲めなくなるでしょ。交換条件って言ったじゃない。それとも、足りない?」


 彼女の肌と僕の肌との接地面積がとたんに増える。

 それが吸血鬼が持つ能力による魅了なのか、それともただ単に若い男子の欲望なのか、そうじゃない何かなのかを考えることもなく、僕は彼女の体を貪った。




 この三ヶ月で僕は、彼女が訪れる生活に馴染んだ。

 彼女は日が暮れてしばらくするとやってきて、僕のベッドへと潜り込む。

 僕が彼女を夢中で抱いている間に、彼女は僕の血をすする。


 幸福の絶頂に居るときの血と、ストレスを感じているときの血は、その味に天と地ほどの差があり、美味しい血ほど、量が少なくて済むという。


「だからこうして、好みのタイプを見つけて恋人同士になるのが一番平和で長持ちするの」


「僕は、君の恋人?」


 思わず聞き返したら、彼女は少し悲しそうな顔をして、小さな声でごめんねと言った。


「違うよ……なんだか嬉しくて。ただの餌みたいなものかなって考えていたから」


「餌なわけないよ。私だって昔は人間だったんだから」


 僕は彼女を抱きしめて、僕らの間に一つルールが増えた。

 僕が生きている間は、他の人から血を吸わないって。




 それからさらに三ヶ月が経ち、彼女は夜明け前に帰らないことが増えた。

 窓には遮光カーテンと目張りを施し、玄関の覗き穴さえも塞いだ。

 昼間でも直射日光に当たらなければ大丈夫と笑う彼女と一緒に布団の中に籠もったりもした。

 あまりにも幸せで、忘れていた。

 彼女を吸血鬼にした存在がいるってことを。


「真祖様が呼んでる。帰らないと」


 ある晩、彼女が唐突に言い出した。


「帰らないと、ヤバいの?」


「ヤバいって言うより、逆らえない。先輩吸血鬼たちも、真祖様には絶対服従で……不思議とそれがイヤじゃないの」


 彼女は僕の買ってあげた服を着て、玄関へと向かう。

 僕も慌てて着替えて、彼女と手をつないだ。


「一緒に行く」


 彼女と一緒に夜へと飛び出す。


「一緒に来て、どうするの?」


 そう言いながらも、彼女は移動速度を、僕が走れる程度にまで抑えてくれている。


「わからない」


 脇腹が痛くなっても、脚が思うように上がらなくなっても、僕は彼女の手を決して離さなかった。


「懐かしいね」


 彼女の声と、自分の鼓動とが、やけに近くに感じることに気付く。

 ああ、周囲が静かなんだ……あの公園だ。


「そうだね。あの茂みの向こうで、初めて君に出遭った」


「びっくりしたの……初恋の人にそっくりだったから。もう、随分前のことなのに」


 随分前……彼女の本当の年齢も今まであえて聞かないでいる。


「それ、初めて聞いた」


「言ってなかったもん。だって私も、あなたが好きだった他の人の話なんて聞きたくなかったし」


 彼女と恋人つなぎしている手に、自然と力が入る。

 関係ない……彼女の過去がどうであろうと……心の底からそう思えるからこそ、聞いてこなかったんだ。

 手をつないだまま僕らは抱き合い、唇を重ねる。

 キスの音が深夜の公園にしばらく響いたあとで、彼女は突然囁いた。


「しっかり捕まっててね」


 そしておもむろに僕らは飛んだ。




 気がつくと猫に囲まれていた。


 ……確か、公園からそう遠くない豪邸の立派な庭へ張り出したウッドデッキへと降り立って……デッキから続く広い部屋へと靴を脱いで上がった。

 置いてあるものからすると、リビングのようではあるけれど、見たことがない規模の広さ。

 うちのアパートのワンフロアが全て収まるんじゃないのって思うくらいの。

 そしてそこには十人くらいの人と、その三倍くらいの数の猫がいた。


 どの人もトレーナー上下とか楽ちんそうな格好をしていて、もっと人数が少なければ全員ご家族なのかなって思えるくらいリラックスしていた。

 男女比は半々くらいで、一番の年上でもうちの両親と同じくらい。年下は恐らく僕ら。


「こんにちは」


 ジャージの上からエプロンをつけ、黒猫を抱いたお姉さんが声をかけてきた。


「こんにちは」


 それにしても綺麗な黒猫。

 美しい……凛々しい……気品があるという表現も似合う。

 とにかく魅力的。

 その黒猫がお姉さんの手から飛び降り、僕の方へゆっくりと歩いてくる。

 膝をついて待ち構えていると、黒猫よりも先に、三毛の仔猫が先にやってきて、僕の左手にじゃれついた。

 思わず頭を撫でて……思い出す。

 彼女と最初に出会った公園で、足元にじゃれついてきた仔猫の片方……いや、あれは半年前だから、あの子が大きくなってその子供とか?


 その子に意識がいっているうちに、いつの間にか黒猫は僕の隣にいて、僕の右手を咬んでいた。

 指先に電気が走ったみたいにビリビリして、気が遠くなる。


「あーあ」


 彼女の声が彼方に聞こえた気がした。




 目が覚めたとき、彼女が膝枕をしてくれていた。

 辺りを見回すと、見知らぬ部屋……キャットタワーや猫ちぐらや猫の玩具であふれている部屋。

 そしてあの三毛の仔猫をはじめ、何匹かの猫が居て、僕の手やジーンズの裾にじゃれついて遊んでいる。


「気に入られちゃったね」


「あ、うん」


 事態が飲み込めなかったけど、猫にかまってもらえるのは正直嬉しい。


「そうじゃなくて。あなたも仲間入りだよ」


「仲間入りって……え?」


「あなたも吸血鬼になったの」


「え? え、でも、真祖様しか」


「さっき、咬まれたでしょ?」


「真祖様に?」


 咬まれたって……あの黒猫くらいしか……え?


「真祖様ってもしかして黒猫に変身していた?」


「違う違う。真祖様は黒猫のお姿なの。変身じゃなくて本物の猫さん。ちなみに、その三毛の子も、真祖様に吸血鬼にされているから、あなたの先輩だからね」


 彼女は笑ったけど、どこか元気がない。

 僕は猫を驚かさないように起き上がり、彼女の方へ向き直った。


「ごめん。僕がついてくなんて言ったから」


「ううん。違うの。連れてきたのは私だし……先輩吸血鬼でね、人間と結婚した人が居たの。相手だけどんどん歳を重ねて、自分が取り残されてゆくのが哀しいって言っててね……それが頭によぎったんだよね。あなたが一緒に吸血鬼になってくれたら、そんな別れ方はしないよね……なんて」


 人間と吸血鬼のカップル……やっぱりそういうのもあるんだ。


「それで……その吸血鬼の先輩は」


「奥さんのお葬式を出したあと、後追い自殺したって……奥さんのお墓の前で日の出を待って……私が帰らないでいる間に」


 彼女が以前言った「元は人間」という言葉を突然思い出した。

 吸血鬼も心は人と変わらない。

 人を愛するし、人の死を悼みもするし、悲しみにかられて自殺もする。

 吸血鬼は不老不死というイメージがあったけど……そうだよね。陽の光には弱いんだもんね。


「……ねぇ、人の血を吸わないと、どうなるの?」


 吸血鬼になりましたって言われても、すぐに気持ちの切り替えができそうにない。

 だってさっきまで普通に人間のごはんを食べていて……。


「死体みたいに動けなくなる……って先輩吸血鬼に聞いた」


「あっ。ごめん……僕が吸血鬼になっちゃったら、君はもう僕の血を……」


「そうだね。吸血鬼同士で血を吸っても、吸ってないのと同じらしいってのは聞いた」


「ごめんね」


「それでもいいよ。約束したじゃない。あなたが死なない限り、他の人の血は吸わないって」


「ダメだよ……君が死体みたいになったら嫌だし……僕も人じゃなくなったし」


「私が嫌なの……あなたが、他の女の血を吸うのも、なんかヤダ」


 彼女のことが急に愛おしくなり、僕は彼女を抱きしめた。


「……一緒に、自殺しようか?」


「いいよ。でもそれならその前に……」


 彼女の唇へ僕の唇を重ねようとしたとき、あの黒猫……いや真祖様が部屋に入ってきて、僕らの間に割り込んできて、お腹をころんと見せた。

 その途端、自殺しようという気持ちがどこかへと消え失せる。

 ああ、こういうことか。

 彼女が逆らえないと言ったのは。


 僕と彼女は軽くキスをして、それから全力で、真祖様にかまった。




 真夜中は猫の庭。

 夜の帳のその裾も、じゃれて登って爪研いで。

 襤褸になったら夜は幕引き。

 夜明けを迎えるその前に、屋敷の全ての戸と窓を、しっかり閉ざして避難する。

 次の夜を待ちながら。




 結局、僕と彼女は真祖様とその眷属のお世話をするために、まだ自殺できていない。

 先輩吸血鬼が自殺したから、猫さんたちの世話係が減って……大人の先輩吸血鬼たちはこの屋敷や未眷属化の猫さんたちの餌代のために、夜の仕事や在宅仕事に精を出していて……とはいっても猫さんたちの世話は皆で取り合いになるんだけどね。


 血は……あれから二人で妥協して、酔うと記憶を失くすご機嫌上戸の友達を作って、おかげでなんとか吸いつなげている。

 でも仕方ないよね。真祖様には逆らえないから。




<終>

吸血鬼

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