お歯黒

 スマホを自撮りモードにして歯を剥き出してみる。確かにこれは『お歯黒』と呼ぶべきものだな。

 しかしこの口の中に広がる鉄臭さは何ともいただけない。血の臭いにも似ているし……それにしてもスマホ画面に映っている自分のこの訝しげな表情ったら。

 しかもあれだ。こんなところにヒゲの剃り残しを見つけてしまうとか。


 コトン、という音が聞こえ、スマホから反射的に目を離す。


「あれ?」


 ガラスの天板に置かれたショットグラスの中には黒い液体。これ、ついさっき俺が付けたのと……色はそっくりだけど恐らく違う液体……だってこっちのは、さっきのとは比べものにならないほど臭いから。


「臭いかい?」


 亜麻也は笑みを浮かべながら俺の真向かいのソファに浅く腰掛けた。自分の顔を見つめていた直後だからだろうか、彼の顔は余計に整って見える。昔から美少年だったもんな……俺なんか三十代に見られることだってあるってのに、世の中こんな不公平もあるもんだ。


「酷い臭いだな。まさかそれも付けろだなんて言わないよな。利き『お歯黒』とかごめんだぜ」


「いや、こっちは僕がつけるんだ」


「冗談だろ。それ、俺がつけたやつより明らかに臭いじゃないか」


「これは本物だからね。血が入ってるからさ」


「血っ?」


 喉の奥に酸っぱいモノがこみ上げてくる。これはってことは俺が飲んだ方は入ってないってことでいいよな。


「本物ってのがよくわからないんだけど、そっちのは『お歯黒』ではないってことかい?」


「そうだよ、とも言えるし、そうじゃない、とも言える」


「どっちだよ」


 笑いながらそうツッコミを入れると、つられたように亜麻也まで微笑む。いかんね。この笑顔は反則だ。きっと彼目当ての女性客も多いんじゃないだろうか。


 店内を改めて見渡すと、全体的に清潔そうな印象を受ける。新人の頃、職場の先輩に連れてかれた新宿のキャバクラはもっと派手派手しくて落ち着かなかったが、ここは悪くない。さすが亜麻也がオーナーをしているってだけはある。こんな田舎だとドラマなんかに出てくる場末のスナックみたいなのしかないと思っていたが、なかなかだな。広さもけっこうあって、二十……いや三十人は入るんじゃないかな。今は開店前だということで、彼以外は居ないようだけど。


「ちょっとだけ待ってて」


「ほいほい」


 亜麻也は先の細い筆を迷うことなく、すごい臭いに満ちたショットグラスへと浸した。本気で付ける気なのか。というか、そもそも俺たちはいった何のために『お歯黒』をつけようって流れになったんだっけ……発端は……アレだ。あの暑中見舞いだ。

 

 俺は小さい頃、親父の仕事の影響でしょっちゅう引っ越しをしていた。一学年中に二回も学校を変わったことだってある。小さい頃からそうだったから当時はそれが普通のことだと感じていたし、そんな環境のせいか友達を作ることに関しても、別れがつらくならないような距離感を自然に心がけていたように思う。

 そんな中、亜麻也とだけは、なぜかとても仲良くなった。俺の人生で、学年が変わったのに同じクラスでいられた唯一の友人。そんな彼と一番最初に出会ったのは忘れもしない小学校六年生の冬。

 窓が曇るほど寒い日のバスの中だった。


 転校の翌日がバス遠足という最高のぼっちタイミングで、見知らぬ人たちに囲まれた俺は、バスの一番前の席で呆然としていた。後ろは盛り上がっている。隣の席の担任教師はほんのりと酒臭い上にいびきをかいている。

 なんだこの状況。友達が居ないことは慣れていたが、この音と臭いには耐え難いものがある。

 ふと通路を挟んだ横の座席を見ると、男子が一人で座っていた。真っ白い窓の外をじっと見つめていて、さっきから後ろの盛り上がりに参加する様子もない。信号待ちで止まった瞬間に、俺は彼の隣にしれっと移動した。


 彼は驚いて顔をこちらへ向けると、戸惑った表情で軽く会釈をした。その顔があまりにも端正で、俺は一瞬ドキリとした。服装だけで判断しちゃったけれど、女子じゃないよな。もしも女子だったらさっきの音や臭いを上回る居心地の悪さだ。そんな逡巡を見抜いたのか、彼はぎこちない笑顔を作るとこう言った。


「僕はクラシナ、アマヤ。座っても大丈夫だよ」


 お互いを探り合うように言葉を二三交わすと、すぐに読書好きという共通点が見つかった。その日から彼とは視線が合えば挨拶する仲にはなったのだが、それでもしばらくの間は二人とも距離を保っていた。俺はすぐに引っ越すだろうからという理由で。そして彼は、僕とは違う理由で。その理由を、僕はすぐに知ることになる。


 彼はいじめられていたのだ。

 彼が僕と距離を置いたのは、いじめられている自分と仲良くすることで俺まで一緒にいじめられるんじゃないかという気遣いからだった。

 クラスの中心的な連中が亜麻也を無視していて、他の連中は巻き添えを恐れてそれに追従しているという構図。すぐに転校するだろう俺は、そういうもめ事には一切関わらないと決めていたのだが、なぜか彼とはしょっちゅう顔を合わせていた。二人とも図書館が好きだったから。


 図書館は駅前公民館のワンフロアだけという小さな町だった。

 僕ら以外の子どもは、クラスの中心的な連中に率いられ、サッカーやら野球やらに勤しんでいたから、図書館では僕と亜麻也と二人きりということがよくあった。

 他の子らは、本を読まないわけじゃなかったのだが、クラスの半分以上の親が同じ工場に勤めていて、親の役職がそのままクラス・カーストの順位に結び付く、つまり「来い」と言われれば断れない、そんな背景だったのだ。


 しかしそんな背景がゆえ、逆に俺はいじめられなかった。

 俺の親父がその工場へ技術指導で来ていたからだ。

 工場では上の役職に就いている大人たちが俺の親父に頭を下げていたおかげで、俺はいつの間にかクラス・カーストの上位にランク付けされていたのだ。


 俺が亜麻也と挨拶をし合っていたせいか、連中もなんとなく亜麻也いじめに本腰をいれられないようだったが、俺には関係ないことだった。どうせすぐに転校するのだから。いつものようにそう考えていた。春休みを越えるまでは。


 俺の記憶の中で、春休みに引っ越しをしなかったのは初めてのことだった。

 親父の、そこでの仕事が長引くことになったのだ。


 俺と亜麻也は同じ中学へと進学した。

 新しいクラスに見知った顔があるという感覚はなんとも奇妙な、そして嬉しいものだった。

 俺は亜麻也とすごくしゃべるようになった。お互いの蓄えた知識を重ね合って盛り上がった後に残る充足感は、本という一方的なコミュニケーションでは決して味わえないものだった。俺は今更ながらに友達というものの素晴らしさを知ることができたのだ。


 亜麻也がどうしていじめられていたのかを知ったのは中学に入ってからだった。

 俺が彼の家に遊びに行くことを、亜麻也はずっと拒んでいた。彼の母親がラブホテルで働いていて、彼らはそこの管理人室に住んでいたからだ。

 田舎では「皆とは違う」ことが避雷針のように災いを引き受ける。

 ただ、これは亜麻也には言ってないことだけど、俺はそれだけが理由ではないと感じていた。いじめの首謀者……確か滝口ってやつ……そいつは男だったけれど、亜麻也のことを好きなんじゃないかって感じていたんだ。よくある「好きな子をいじめる」類のやつ。

 滝口が亜麻也に絡むときは高確率で「お前、女みてぇだよな。本当はホテルで体売ってるんだろ」とか言いながら、亜麻也の髪や腕をつかんでは押し飛ばしていた記憶が残っている。俺には滝口が、亜麻也に触りたがっているようにしか見えなかった。


 滝口は、亜麻也が俺と一緒に居る時にはからんで来なかった。

 俺がクラス・カーストを変動させたおかげで、小学校の時点ですでに亜麻也が無視されることはかなり減り、他の小学校も合流する中学においては滝口一派はもはや少数派となっていた。それだけじゃない。中学に入ってからは、亜麻也自身の人気も上がってきたのだ。


 中学での亜麻也はイケメンの代名詞のようにもてはやされた。女の先輩が休み時間に覗きに来たり、近所の高校生がわざわざ放課後に見に来たりまでした。亜麻也はよく笑うようになった。


 俺と亜麻也はいつもつるんでいて、それが当たり前になり過ぎて、そしてすっかり忘れていたことを親父に思い出させられた時、俺は一瞬、頭の中が真っ白になったのを覚えている。

 梅雨が明けたばかりで、夏の気配をまとった眩しいくらいの晴天に、霹靂が落ちた。

 聞き慣れていたはずの「引っ越すぞ」というセリフに、俺は生まれて初めて「本当に?」と聞き返したのだ。

 確かその前日だったんだよな。亜麻也が俺に「いつかさ、二人でこの町を出たいよね」って言ったのは。俺は何も考えずに「だな」って答えていて、だからこそ、亜麻也に対して嘘をついてしまったかのような罪悪感に苛まれた。


 だけどそのことを亜麻也に伝えたとき、彼は不思議と落ち着いていた。それで安心したのかな、当時の俺は無神経にも「大学とか一緒にいけるといいな」なんて言ってしまったんだ。その直後の彼の悲しそうな表情を俺はずっと忘れられないでいた。

 後に彼が年賀状で教えてくれたのは、彼は高校に行かず、家計を助けるために母親と同じ職場で働くようになった、ということ。

 中学一年のあんな時期からもう、彼はそれを決心していたのかと思うと、彼のあの悲しそうな表情が余計に俺の心に突き刺さり続けた。

 はじめのうちは長文で手紙を書いていた俺も、彼のそういう決意が伝わるにつれ、いろいろ申し訳なくなってしまい、高校時代にはもう、年一回の年賀状だけの付き合いになってしまっていた。


 だからこそ、彼から年賀状以外の頼りがあって、しかもその暑中見舞いに「顔を見せに来ないか」なんて書いてあった日には、一も二もなく「行くよ」と返事を書いた。

 彼と最後に別れてから、もう十余年の月日が経っていた。

 

「それでさ。さっきの話の続きだけれど……えーと、どこまで話したっけ?」


 亜麻也はもう『お歯黒』をつけ終えていた。

 歯にべっとりと黒いものがこびりついているってのに、こんな爽やかな笑顔を浮かべられる人間を俺は知らない。


「お歯黒は中国から伝わる以前の日本にもあったってあたりだよ。その当時のは植物由来のだったってのが古墳から見つかっているとか何とか」


 亜麻也が働きながらも大検を取り、通信制の大学を出ていたことを俺は今日知った。仕事が休みの日には隣の市の郷土資料館まで行き、発掘チームに参加していると話す彼は、考古学や歴史の分野では、俺が足元にも及ばないほどの知識を蓄えていた。


 あの頃のように笑い、あの頃のように会話を楽しめているこの瞬間。この懐かしさに涙が出そうになる。


「そんなに臭うかい?」


 俺は慌てて首を振り、笑顔を作った。亜麻也がせっかく楽しそうにしているのに、今日こそは彼の表情を曇らせたくなんてない。『お歯黒』だろうがなんだろうがとことん付き合ってやるつもりなのだ。


「全然、大丈夫」


 俺は『お歯黒』を剥きだして笑って見せた。あの日をやり直そう。そして今日からまた、俺たちの「いつも」の続きを始めよう。


「それならよかった。それで……古墳……そう。日本古来の『お歯黒』はね」


 そういって亜麻也が取り出したのはまた別の液体。それは黒というよりは深緑に近い印象もある。俺はそれを手に取り、灯りに向かって透かして見る。思った通り緑系の色だ。


「それが、古い文献をもとに調合した古代日本の『お歯黒』。でもね、中国から持ち込まれた『お歯黒』はね、日本古来のものとは全く異質なものだったんだ」


「異質? 効き目が違うのか?」


 もう一度、スマホを覗き込む。本物は血を使っているって聞いたときから、口の中がざわついて落ち着かない。ステーキはレアが好きだしスプラッタ映画も平気だし、俺の付けている方は血を使ってないとのことなのだが、それでも妙に落ち着かない気持ちが椅子の座り心地を悪くしている。


「ああ、災いをもたらす目的で持ち込まれたんだよ」


「災い? いったい誰だよ、そいつ。まさか侵略目的……とすると元寇とかあのあたりか?」


「元寇……よりは五百年以上前だね。ちょっと調べればすぐに出てくるよ。持ち込んだ人物は分かっているからね」


「え、有名人? 歴史上の人物?」


「鑑真だよ」


「鑑真? あのお坊さんの鑑真?」


 教科書レベルの有名人がお歯黒を持ち込んだ……そこまではいい。でも鑑真ってのは偉いお坊さんって聞いていたから、血を使った『本物のお歯黒』というものとはどうしても結びつかない。もしかしてこれは亜麻也ジョークか? 笑う所なのか? 俺はニカッと『お歯黒』の歯を見せようとした、が、それより早く亜麻也は続きを話し始めた。


「そう。正確には鑑真の弟子が持ち込んだんだけどね。鑑真が日本へ渡ろうとして何度も失敗したのは知っているかい?」


「……なんとなく。はるか昔に教科書で読んだ気がする。確か失明とかしてたよね」


「そう。失明したのは5回目の挑戦のとき。しかもようやく日本へたどり着けたのは失明した二年後という」


「昔の航海事情は大変だったんだろうな」


「そう思うだろ。違うんだ。彼が何度も渡日に失敗した理由の大半は、彼の弟子達の仕業だったんだよ」


「弟子が? なんで?」


「まずは僧にまつわる当時の事情を説明しなきゃならないかな。当時の日本ではね、出家を自分で宣言して僧になる者が多かったんだ」


「あー、江戸時代の医者もそういうの多かったって聞くね」


 医者のことは落語で聞いて知っていたが、坊さんまでそんなフリーダムな時代があったなんてな。


「自己申告だからね、中には口だけの酷いのもいたらしいんだ。そこで時の権力者である聖武天皇はね、僧というものを正しく選ぶ儀式である『授戒』の普及を目論んでね。その儀式を出来る僧を唐から呼び寄せようとしたんだ。その願いを耳にした鑑真は、まず自分の弟子達に『日本へ行ってくれる人は居ないか?』と尋ねたんだけど、誰一人名乗り出ない。そこで自ら渡日することを決めたんだよ。じゃあってことで、弟子の何人かは一緒に行くことを決めたんだけど」


「……ああ、そうか。行かせたくない弟子や、本当は行きたくない弟子が……」


「当時の航海事情はあまりよいものではない。君の言った通り、弟子たちのうちには、鑑真の身の安全を気遣ったって部分もあっただろうね。だけどね、それ以前に唐の法は彼らが国外へ出ることを禁じていたんだ。だから弟子が役人に密告して失敗っていうケースもあってね」


「なるほど……じゃあ、災いというのもその中の一人が……あれ? 鑑真と一緒に来て、災いを持ち込んだら、鑑真もその災いにさらされかねないよね?」


「さすが。君は昔からそういう所に気付く優しさがあったよね」


 優しさ……亜麻也の表現はちょっとひっかかったけれど、俺はそこはスルーして話を続けることにした。


「災いをもたらす『お歯黒』と、それを回避できる方法とを、鑑真の弟子が持ち込んだってこと?」


「そうなんだ。そしてその両方ともが、見た目は『お歯黒』なんだ」


「『お歯黒』が二種類?」


 亜麻也は微笑みながら頷いた。俺はすぐにテーブルの上を見る。日本古来の『お歯黒』と、俺がつけたやつ、それとは別の亜麻也がつけたやつ……口の中でむずむずと違和感が主張し始める。たかだか『お歯黒』で、どんな災いが起きるというのだろうか。そしてそれを防ぐお歯黒……まさか。


「血が含まれているって言ったよな。まさか生物的なバイオ兵器……もしくはウィルスとか……そしてもう一つはワクチンか?」


「さすが! なかなかいいセンいってるよ。でもそうじゃない。もっと呪術的な話なんだ」


 鑑真が来たのって、うろ覚えだけど奈良とか平安とか貴族社会の頃だったはず。そんな時代なら確かに陰陽道とかの呪術的なことも日常化していただろうし……大陸の方でも同じだったのかな。


「お歯黒の成分の一つは確かに鉄だ。お歯黒は鉄漿とも書く……鉄に漿……漿というのは汁という意味でね。血漿とか脳漿とかいう言葉に使われるように……その鉄なんだけど、鉄には古来、魔を祓う力があったというのは知っているかい?」


 真っ先に頭に浮かんだのは日本でも中国でもない、ヨーロッパの方の話だ。


「ヨーロッパの話だと思うけど、蹄鉄を魔除けにするってのは聞いたことがある」


「それはケルトの伝説が由来になっている話だね。鉄を持った侵略者が鉄を持たない現住の民を滅ぼす時、鉄というモノは強い力を見出され、勝者が残した伝説の中では特別な存在としての力を与えられてゆくんだ。だけど鉄自体は本当は善も悪もない。妖刀って聞いたことないかい?」


 ファンタジー系ゲームに出てくるサムライ系のキャラがよく持っているようなアレだな。


「……ムラマサとか、そういうやつか?」


「そう。鉄はただ力を持つだけ。清く鍛えられれば魔を祓う力を、邪悪なものを封じ込めれば妖刀のような災いと争いをもたらすものとなるんだよ」


 亜麻也の表現が少しずつ断定的になってきているのが気になる。声のトーンも若干変わってきている気もするし。なんだか体が強張ってきている気もして……俺は緊張しているのか。つばを飲み込もうとして鉄臭さが喉に詰まり、むせてしまう。


「もう一度聞くけれどさ、俺のつけているこれは……」


「大丈夫だってば。それは魔除けの方だから」


 魔除け。そんな言葉、さっきまでなら簡単に笑い飛ばせていただろうけど……今はシャレにならない空気の中で、俺の皮膚までが勝手に鳥肌反応をし始める。

 亜麻也はまた笑顔を見せる。その笑顔に、どうしても妖しさを感じてしまう俺が居る。亜麻也がつけている方は……災いをもたらす方って解釈を……するべきなのか?


「魔除けのお歯黒と、災いをもたらすお歯黒とがあるってことかい?」


 後者に「妖しい」とか「邪悪な」とか、そんなダークな形容詞をつけたい気持ちをぐっと堪えて、あえて聞き直してみる。亜麻也、ここで冗談だよって言って笑ってくれよ。あの頃みたいな、無邪気な笑顔を見せてくれよ。


「さすがだね。お察しの通り。後世に残ったお歯黒のルーツはその魔除けの方なんだ。昔は男もお歯黒をしていたってのはさっき話した通り。その理由はね、皆が必死にお歯黒にすがったからなんだ。貴族も武士も皇室に至るまで皆、お歯黒に頼って身を守った。今でこそ『身だしなみ』なんていうもっともらしい理由でつけていことにされているけれど、真実はそうじゃない」


 息を呑んでその先の言葉を待つ。わずかな静寂に、自分の鼓動が早まってゆく音がやたら大きく響く。しかし亜麻也は続きを語る前に、真っ白い綺麗な封筒を俺の方へ差し出した。


「お歯黒のレシピだよ」


「お歯黒の?」


 俺は封筒を手に取る。裏も表も何も書かれていないし、それほどの厚みもない。


「大切にしまっておいて」


 俺は素直に従った。

 不意に首のあたりが勝手にぶるっと震える。そういやこの部屋、少し寒すぎやしないか……いや、それだけじゃない。首から震えが全身に広がっていってる気がする。しかもその震えが止まる気配が全然しない。

 トイレに行ってきた方がいいのかなと、立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


「寒っ。なんでこんな寒いん?」


 店の入り口が開く音と、それに続いたその声にすら体の震えが反応する。尿意を意識してなかったら、うっかり漏らしてしまっていたかもしれないくらい、俺の心も体も追い詰められている。


「お、もう誰か来とるやないか」


 ざわざわと何人かが入ってきたのを感じる。だが俺の体はすっかりすくんでしまって、首を後ろに向けることすらできやしない。

 確か店の入り口には「本日貸し切り」という札がかかっていて、彼が俺のためにそうしてくれたのだと勝手に解釈していたけれど……違うってこと?


「後ろつかえてんねや。早く入れや!」


 俺が身動きが取れないでいるうちに、店へはどんどんと人が入ってて来ているようだ。


「おーい、水谷ー! 料理とか準備できてへんのか? せっかく貸し切りにしてもろたんや。手伝おかー?」


 水谷? 亜麻也はの姓は倉科……いやでも水谷ってどこかで……。


「あれ? 倉科? お前なんでここに」


 なんで? その言葉が俺の中でぐるぐる回る。なんで……って、ここは亜麻也の店じゃないのか? 一方、亜麻也はというと、口を引きつらせるように大きく開けて、彼らしくない笑みを浮かべる。さっき俺がそうしたように、黒く染まった歯を剥きだしにして。


「鑑真の弟子が持ち込んだ真の『お歯黒』は、彼が望んだようにこの国を亡ぼすものにはならなかった。むしろこの国で、戦の道具として使われるようになったんだ。だけど……それを使った……者は……二度と……戻れなく…………」


 亜麻也、そう呼びかけようとした。でも、声が出せない。俺の全身の震えは奥歯をも小刻みに震わせ、俺の口からはガチガチという乾いた音だけが漏れ出ている。


 ふと亜麻也の手から何かがぽとりと落ちた。さらにぽとりと。落ちたのが何かはわからなかったが、今の亜麻也の手を見ていると、それは指だったのではないかと思う。彼の両手は赤黒く怒張し、そこに三本しかない指は鋭く爪が伸び、太く膨らんでいる。俺が口を大きく開いて歯を剥きだしにしたのは、無意識にだった。自分が歯を剥きだしていることに気付いた時、もう一つのお歯黒は魔除け……そんな言葉が頭に浮かんだ。


「うわんんんんんっ」


 耳がちぎれるかと思えるほどの音が、吠え声かもしれないその轟きが響いた直後、亜麻也だったモノは俺の視界から消え、さっき声が聞こえた辺りから次々と悲鳴や耳に残る嫌な音やらが弾けるように飛び散って聞こえた。凄まじい断末魔の叫びは次第に数が減り、やがて再び静寂が訪れた時、俺の心身を怯えさせていた得体の知れないナニカは、どこかへ去ってしまったのだと感じた。



 

 俺が水谷のことを思い出したのは、俺の通報で警察が来てからのことだった。カウンターの奥で、水谷は既に殺されていた。水谷は滝口一派の一人で、あの店の本当のオーナーだという。他の死体とは異なり、店の包丁で刺し殺されていた水谷の死体だけはヒトの形を留めていた。


 警察の見解は、水谷殺しの倉科亜麻也が熊を使って滝口他六名を殺し逃亡……そんなものだった。俺が事件のことをあまり覚えていないと言ったことも、凄惨な事件現場ゆえにあっさりと受け入れられ、共犯者にされることもなかった。また、彼の遺書のような書き置きが自宅から見つかったことも、亜麻也の単独犯として処理された一因となった。


 俺は今更ながら、亜麻也のお母さんが先月亡くなっていたことや、俺がこの地を去ってから滝口一派が亜麻也へのイヤガラセが再び酷くなっていたことなどを聞かされた。口にするのも憚られるようなことまで、されていたらしい。警官の中に、同じ小学校だった前田という奴が居て、そんな話を教えてくれた。


 封筒の中のお歯黒レシピは、二種類の製法が書かれていた。そのどちらにも血が使われていたと知った後、何度も口の中を濯いだが、いまだに鼻腔の奥に突き刺さるような違和感が残り続けている。


 亜麻也が俺にレシピを託したのは、俺にお歯黒を再び付けろと言っているのだろうか。だとしたら、どちらのお歯黒を、彼は望んでいるのだろうか。


 鬼の指が三本であるのは知性と慈悲とを失くしたからという。亜麻也だったナニカが、俺には指一本触れなかったのは、魔除けであるお歯黒のおかげなのか、それとも……深夜に時折、耳の奥底で地鳴りのように響く耳鳴りが、どうにも「うわん」という吠え声のように聞こえて、俺は迷い続けている。

 

 

 

<終>

うわん

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