彼の手口
「俺はさ、右手で書くよりも左手で書く方が実は良い小説が書けるんだよ」
彼は包帯を巻いた左手でジョッキを呑み干したあと、ニヤニヤと笑いながらそう言った。
「またまたぁ」
人格的には好きになれない彼のジョークの中では比較的まともな方だったが、皆は笑顔で聞き流す。
あの左手、最初にオフ会に参加した時は確か出来物があるからと言っていたのを僕は覚えている。あれから何回のオフ会があったろうか。そのいずれの時でも彼は包帯を巻いていた。まさかこのジョークのための壮大な仕込みか。彼は人の身体的欠陥をちょくちょくジョークにしていたから、それも考えられる。
彼が僕らのコミュニティに彗星のように現れたのは半月ほど前のこと。その作品の多彩さに皆は圧倒された。あまり自分のことを語ろうとせず、いろんなジャンルの作品を書き分けるその才能に僕は正直嫉妬した。そんな作者であったからこそ、僕らが定期的に開いていた「作品品評会」という名前のオフ会に呼ぼうという話が出たときも誰も反対しなかった。
ところが彼は作品品評会の場で突如それまでの寡黙な仮面を脱ぎ捨て、あの感動的な作品や美しい物語を書く作者と同じ人物とは思えないほどの口汚さで、辛辣な批判家としての地位をあっという間に築いた。
本当にこの彼があの作品群を書き上げた彼と同一人物なのかと疑う者も居たが、それでも皆オトナだったから彼の参加を受け入れ続けた。
そんな折、メンバーのうちの誰かが彼に尋ねた。彼の作品と彼自身のオフ会での言動があまりにも違いすぎると指摘した上で、一つこの場で書いてみろ、と。彼はしばし考えた後、ジョッキを呑み干し、そう言ったのだ。右手よりも左手の方が、という例のアレを。
結局その夜、彼は書かなかったのだが「次回は必ずお見せする」という約束をしたため、皆はそれ以上の追及はしなかった。
そして一ヵ月後、来ないんじゃないかという大方の予想を裏切り、彼は作品品評会の会場に現れた。登場した時は「待ってました!」と囃した連中も彼がコートから左手を出した時、一瞬にして黙った。相変わらず包帯が巻かれていた彼の左手ではあったが、普段の倍くらいに膨らんでいたからだ。
結局書かないための仕込みじゃないのかと僕は思った。
皆の表情を見るに僕だけがしている邪推でもないようであったが、彼は突如書き始めた。包帯を巻き膨れ上がったままの左手で本当に。
出来上がった作品は、今まで読んだ彼のどの作品とも異なる作風ではあったが、非凡さを感じさせる言葉遊びが随所に散りばめられた素晴らしい作品であることは誰の目にも明らかだった。僕らは非礼を詫び、その後は彼を賞賛し続けた。その帰り道のことだ。
「よお。君も僕の左手を疑っていたクチだろ?」
彼はそんな風に馴れ馴れしく語りかけてきた。僕は慌てて彼に再度謝ったが、慣れているさとサラリとかわす。そればかりか僕の作品に興味を持っていると話題を変える。
発想は悪くないが言葉の選び方がイマイチなんだよと言ってくれた彼の目からはいつものようなニヤニヤ笑いは消えていて、いつもより毒が少なめのようにも感じる。彼に認めてもらえた、というのは嬉しい。
彼の批評に僕はただただ耳を傾けるばかりだった。
「今度、二人だけで話でもしないか?」
断る理由が見つからなかったし、二人で一週間後に呑む約束をした。
プチ呑み会までの間、僕は自分の作品をずっと推敲し続けた。
なるほど彼の言う通り「これで完成だ」と思えた作品も、翌日、翌々日と時間を経て見直すと新しい表現や可能性に気付くことができ、まるで酒が熟成するように深みを増していったのだ。
そうやって出来上がった作品を、僕はまず最初に彼に見せようと、二人だけの呑み会に持参した。
だが、約束の時間になっても彼は現れない。待ち合わせ場所のやりとりを見返したが、場所も時間も間違っていない。
何十回、時計を見ただろうか。ようやく彼から連絡が来た。
作品を書く筆がついノってしまい、実はまだ家に居るのだと。僕が良ければ彼の家まで来ないかと誘われる。こんな各駅しか止まらない辺鄙な駅を指定するから妙だなとは思っていたけれど……この遅刻もひょっとしたら彼の仕込みなのかもしれない。
まあ、彼の執筆風景を見ることができるというのは魅力的だったし、僕は彼の申し出を承諾した。
彼の指示通りに商店街を通り抜けてしばらく進む。
何度か角を曲がり細い路地を抜けて辿り着いた袋小路に、いかにも昭和という風情の古めかしい一軒家があった。
呼び鈴が見当たらず、おそるおそるドアをノックすると、しばらくして奥から彼の声がした。
「開いているから入ってくれ」
緊張しながらドアノブに手をかけると確かにすんなりとドアが開く。でもこれ……中からわずかに漂い出る異臭に、中に踏み入る勇気をくじかれかける。
「そのまま真っ直ぐ来てくれ」
再び彼の声。ここまで来て帰るのもなんだしと、僕は彼の家の中へ踏み込んだ。さっきした異臭とはまた別の臭い……カビ臭さに包まれた廊下をゆっくりと進む。ハンカチで鼻と口を押さえながら。今まで外で会った彼からこの手の不快な臭いを感じたことはなかったけれど……いやいや、考えたらダメだ。
頃合いを見計らって何かしら理由をつけて早々に立ち去ろう。そう決意した僕は、廊下の突き当たりのドアを静かに開けた。
その部屋もまた昭和の遺物としか思えないような雰囲気で、部屋の中央にあるコタツに入ったままの彼はあのニヤニヤ笑いを浮かべてこちらを見ていた。
彼の左手は相変わらず包帯が巻かれてあったものの、先週見たような異様な大きさではなくごく普通のサイズに戻っている。
「まあ、座りたまえ」
まさかあのコタツに入れというのだろうか。僕がためらっていると、彼はおもむろに左手の包帯をほどき始めた。
「近くで見ないか? 俺の……まあ、義手みたいなものなんだがね」
義手? まさか……いや、彼がよく口にする放送禁止用語の数々からすれば、彼の体がそういう状態だからという理由も考えられなくもない。興味が不快感に勝ち、コタツにこそ入らなかったものの彼の隣に膝を落とす。
「ほら」
彼は僕の目の前に左手を突き出した。義手? いや、この普通の人の手にしか見えない。生命線がちょっと長く太すぎるようにも感じるが……だが彼がくるりと手のひらを翻すとその甲には……なんだこれは……特殊メイクだろうか人の顔のようなものが貼り付いている。
目を閉じているせいかデスマスクのようにも見える。
やられた、と思った。
と同時に、この悪趣味なジョークにうんざりする僕の顔を見るためだけにこんな面倒な仕掛けを準備したのかと思うと、自然と笑みがこぼれそうにもなる。
彼は僕の作品をほめてくれた。その上こんな手のこんだサプライズを、僕のためだけに。彼の中で僕はどれだけ評価されているのだろうか……じゃあ、どういう反応をしてやろうかなと言葉を探していると、彼はそのデスマスクを僕の顔の近くにぬっと近づけた。
「こうやってね……目が開いたら頃合だ」
頃合? その直後だった。どういう仕組みなのか確かにデスマスクの目がじわじわと開いてゆく……ん? 何かしゃべっている?
「……げて……」
それが聞こえた時は遅かった。僕の顔が何かにひっぱられるようにひきつって、つるんと首から下がなくなったような感覚に包まれる。やがて浮遊感の中でぐるぐると僕は落ちてゆく。落ちて……どこに?
こんな真っ暗闇の中で、どちらが上か下かもわからないのに?
その問いに、無数の言葉が答える。自分の中にこれほどの語彙があるのかと思えるほどの量。頭も妙に冴えてきて、それらの言葉がお互いに寄り添い合い、連なり、幾筋もの物語を自動的に編みこんでゆく。今まで使いきれずストックしていたプロットを核にそれぞれが美しく連鎖して、自分の中から生まれたとは思えぬほどの見事な物語がいくつも頭の中に浮かんでくるのだ。僕は嬉しくなってそれを語り始めた。誰かに伝えたくてたまらなかった。こんな面白い物語の数々を……
……もう、何本の作品を語っただろうか。語るたびに、ペンを走らせるサラサラとした音がこの暗闇に響き、そして僕の中から物語は天上へと昇華してゆく。僕は幸せな気持ちの中で、生み出す喜びに酔いしれていた。
あれからさらに時間が過ぎた。
僕はもう何もかも語り尽くしてしまった。
その時ようやく気付く。僕のまわりの薄暗がりにはいくつもの干からびた「顔」が落ちていることに。どの顔も疲労と絶望とに満ちた、胸が苦しくなるような表情。
ちょっと待て。薄暗がり? ……だとしたら、どこからか明かりが射しているのか? ここから逃げられるのか?
「ふわぁ」
あくびが出る。こんな状況で?
なんだか急に眠くなってきた。集中力が完全に途切れた状態……。
待て待て待て。ここを抜け出すチャンスだというのなら頑張らないと……ああ、あれだ。頭上にある二つのヒビから光がわずかに漏れて入ってくる。
二つのヒビは、どんどん開き、明るくなってゆく!
その光の中に、かつて見たことがある昭和の部屋の風景が浮かんだ。この部屋……彼の?
僕の中に一つの仮定が生まれた。まさかここは彼の手の甲なのか?
そしてこの光の中に浮かびあがる若者は……だめだ! 逃げて! そう叫ぼうとしたが声が出ない。いけない……でも……なんとか……最期の……力を……ふり……し……ぼっ……。
ふん。最期にもう一本書いたと思ったらつまらない自伝か。しかもオチを書きかけで交代しちまうとか。まあ推敲さえすればいつか使えるかもしれないし、しばらく寝かせておくか。俺はノートからその最期の作品を破り取るとクリップで綴じ、ショート・ショートと書かれたダンボールの中に放り込んだ。
さて、これからしばらくは恋愛小説家だ。それとまた新しいコミュニティを探さないと。次はどんなペンネームにしようかな……おっとその前にこの人面疽に包帯を巻いておかなきゃだ。そうしないと枯れた時、また見境なく喰っちまうからな。
<終>
人面疽
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