ラッキーアイテム
頬に、ひたりと生ぬるい湿り気を覚えて目を覚ました。
慌てて起こした半身を支えた手のひらにじっとりと冷たい湿り気。
ぞくりと背中に走る悪寒を抑え込むように手のひらを慌てて見つめる。薄暗がりの中でもはっきりと見える……赤くはない手のひら。だいじょうぶ、これは汗。
ここ数日、嫌な夢ばかり見るから少し過敏になっているのかもしれない。
悪夢がいつの間にか現実の中にまで染み出して来ているような気がしているのは、程度こそ軽いものの地味に長引いている頭痛のせいもあるだろう。今日せっかく仕事を休んだんだから病院に行けば良かったのかも。
少し離れた所、ベランダに通じる窓から黄昏がかった斜光と一緒に入ってきた風が、汗にまみれた私の体温をゆるゆると奪ってゆく。
ぶるりと体が勝手に震える。
とりあえずシャツだけでも取り替えよう。
ベッドからふかふかの絨毯の上にそっと降りた私のつま先がスリッパの代わりに箱を履く。すっと持ち上げたつま先の向こうに、お気に入りブランドの靴箱が見える。
……ああ、そうだ。部屋の中、こんなにぐちゃぐちゃなのは探し物をしていたんだっけ。
この部屋の中にあるはずのものが無くって……病院に行くよりもそれを見つける方が大切な、そんな気がして。
結局どうしても見つけることができなくて、私が出した結論は「紅香(べにか)が勝手に借りていった」ってところ……そういや紅香ってばまだ帰っていないのかな?
ベランダへそっと顔を出して隣の様子をうかがう。私の部屋と紅香の部屋と両方ともベランダ付きだけれど、それぞれは独立していてつながってはいない。
昔はここで糸電話とかして遊んだっけ。でも今はサッシが閉じられ、明かりもついていないっぽい。
双子で、しかも同じ家に住んでいるってのに紅香の行動パターンがまったく分からない。
少なくとも高校時代までは理解しあえていた自信はあった。
でも私が大学へ、紅香が短大へ進学したあたりから私たちの道は少しずつ離れていったように感じる。そして決定的だったのは一昨年の梅雨、パパが事故で突然、私たちの生活の中から消えてしまったあの日。
双子だから生まれたのなんてほんの数分も違わない姉妹。でも私はなんかお姉ちゃんとしてしっかりしなきゃいけない、とか思ってしまった。
だから大学院も諦めて就職することに決めたし、パパのお葬式だって、オロオロするばかりで何もしようとしないママに代わっていろいろ頑張って動き回った……私は。
紅香は違った。
手伝ってくれるどころかママと一緒でなんにもしなかった。
そのことを私、軽く責めたんだよね。そしたら紅香、その翌日からかな、夜遊びするようになって……もう長いこと、まともに会話していないし、笑顔も見せてくれていない……そんな中でたった一つだけ、二人の距離感が変わらないところが残っている。
私は部屋へと引っ込み、床に散らかった靴の箱を片付け始めた。片付けながらもまた探す。お気に入りのあのピンヒールを……やっぱりない。これはもう、紅香のせいとしか考えられない。
紅香が小さな頃から変わっていないところ、それは私の服やら靴やらをこっそり持ち出して着てゆくこと。
幼い頃から紅香は、私と同じ服を買って貰うのを嫌がった。絶対に私と違う服を選んで。それなのに私の服を勝手に着る。わけがわからなかった。でも、ちょっと大きくなってから紅香がその理由を教えてくれた。
『せっかく二人居るのに同じ服買うとかバカじゃないの。二人とも別々の服を選べば二倍オシャレできるんだから』
私は空の靴箱をじっと見つめた。もう何回見ただろう。何度見ても中身は空っぽ。この部屋の全部の靴箱を見たけれど、他の靴はちゃんとそれぞれの靴箱にしっかり収まっていて……ふぅ、とため息をついたあとの一瞬の静寂の中、その音は響いた。
カタ。
音に呼ばれるようにして部屋のドアを見つめる。ドアノブを回した時の音に聞こえたから。あのドアの向こうは廊下……あ、まさか紅香がこっそり靴を返しに来たのかも。そう考えた私が立ち上がった時、静かにドアが開いた。
ドアの向こうもこの部屋同様、薄暗がり。そこから中を覗うようにそっと顔をのぞかせたのは紅香ではなかった。
「あら、明日奈、起きてたの?」
ママの声だった。
「う、うん。今、起きたところ。心配かけてごめんね」
「いいのよ……それより紅香知らない? あの子、出かける時も帰ってくる時もいっつも時間とか言わないで……予定が見えないって困るのよね……」
機嫌が悪そうな声。そういえばママ、ご飯の準備を自分だけがするのは不公平とか前に言っていたっけ。
「会ったら言っておくね」
ママは無言のまますぐにドアを閉めた。ご機嫌ナナメ。その原因である紅香は出かけている……そう、出かけているってことは今がチャンス。本人が居たらトボけて返さないかもしれないし。今の間に取り戻しちゃったら、面倒くさい言い訳聞かなくてすむかもしれない。
それならと私は立ち上がって廊下へ出た。
「あれ?」
心の奥がざわつくのを感じた。
何かどこか「違う」気がして……なんでそんなこと感じちゃったんだろう。見慣れているはずのいつもの景色だよ。いつもの廊下、目の前の吹き抜けには見慣れた大きなステンドグラスもいつも通り、その下に広がるらせん階段は一階の玄関ホールへとつながっていて。
今は吹き抜けのシャンデリアが点いているから、ステンドグラスは外から観た方が綺麗だろうな……って、そんなこと考えている場合じゃない。
視線をすぐに左右に移す。階段を上りきったここから両側に伸びた廊下には……1、2、3、私の部屋、それから振り返って、5、6、7……扉の数までつい数えてみるほど、心の裏側がむずむずする。
そう、裏側。だから直にかけない感じで、むず痒くてイヤな感じ。
なんだかいやな寒さがつきまとっている……ああ、きっと私は具合が悪いんだ。この時間なら急げばまだ病院に間に合うかもしれない。さっさと紅香の部屋から回収しちゃおうっと。
もやもやした気分を吹き飛ばしたくて勢いよく紅香の部屋へ近づき、いきなりドアを開けた。
そのとたんだった。
膝の力が抜けて私は扉にしがみついたまま尻餅をついた。
やだ、立ちくらみ?
紅香の部屋の薄暗がりがスッと動いて私の膝に触れたような気がして、立ち上がるよりも先に慌てて扉を閉めた。
この感覚……触れられたというよりも引っ張られたような、嫌な感覚……あれと一緒だ……あの悪夢の中のあれと。
ああ、もう思い出しちゃった。いつも忘れようとしているのに、私の気が少しでも緩んだ隙を狙って悪夢は夢の世界からこのリアルの中に這い出してくる。
悪夢の中の私は見知らぬ荒野を歩いている。
遠くに見える山々の形は、その稜線に日本じゃない雰囲気をまとっている。
私は誰かに呼ばれていて、その呼ばれている方へ向かっているのだけれど、実際に何か声が聞こえるわけじゃなく、何かに裾を引っ張っられて連れてゆかれる感じ。
その何かは常に私の視界の死角に潜み、しかも引っ張るのはブラウスだけじゃなく、スカートとか、ストッキングとか、とにかく私が着ているいろんなものを引っ張って、ある方向へ向かわせようとしているみたい。
うながされるまま歩くたびに不安は増してゆく。だってそっちの方の空は真っ暗だから。
あまりの不安の大きさに立ち止まった私は、今度は足下に違和感を感じてふと見ると、さっきまで乾いた荒れ地だったはずの地面がどす黒いぬかるみに変わっていて、私の足先をじわじわと呑み込み汚し始めている……沈んでいるってこと?
歩いてきた方向へ逃げ戻ろうとするんだけれど、動けば動くほど私の足は深みにはまって行き、そしてとうとう片足が抜けなくなってしまう。
私は泣きながら両手で足を抜こうと頑張るけれど、足が抜けないどころか今度は手にまでぬるりとした感触がまとわりついてくる。
慌てて見た手は、真っ赤な血でべっとりと汚れていて、そこで私は初めてこのぬかるみが泥ではなく血なのだと気付く。
誰でもいいから助けて、と、周囲を見回す私の目に映る空には、あの真っ暗な空がいつの間にか近づいていて……しかも、夢を見るたびに確実に距離が近くなっている気がして、ダダをこねるようにイヤだイヤだと必死にもがいて……そこで目が覚める。
全身が汗びっしょりになっていて、もちろん手のひらも濡れていて。夢であんなシーンを見るもんだから、恐る恐る手のひらを確認して、赤くないことにホッとして。もう何度観たのだろう。
背中がぶるりと震える。思い出しただけなのに、寒気が増している。
ああ、これは、汗ばんだ服を取り替えていなかったからだ。
着替えたら治るはず。
きっとそう。
そういえばお医者さんにも行かないと……悪夢の記憶から抜け出したい私は、とにかく「現実」に属するコトばかりを考えて、その「リアル」へ自分をつなぎとめようとした。
急いで自分の部屋へと戻り、着替え始める。
途中で体の重さを感じてベッドに腰掛ける。
具合が本当に悪い。しんどい……このしんどさは何日も続いているよね。ここ数日、ハードだったもんなぁ。
思い出したくもないのに、あの記憶はかさぶたみたいに私の心の中に貼り付いていて、記憶の中に手を伸ばすと、すぐに引っかかって触れてしまう。
あれは三日前……月曜日のこと。
週始めからなんだか具合が悪くて、でも来月は彼と旅行に行くから有給休暇は残しておきたくて、私はちょっと無理して会社へと向かった。その通勤途中、いつもの乗換駅でのこと。
何かに押されたような……違う……今、思い出してみると、どちらかというと引っ張られたような感じ……あの悪夢のような……違う違う、今はそのことは考えないで……とにかく私は押された。
それも電車の扉が開いて、さあ降りなきゃって瞬間に。前とか横とかじゃなく、真下に。
すみません、と声を出そうとした。
でも出なかった。
私の体は人の波の中に溺れそうになって、そしてそのまま都会の人ごみの中に落ちて行く。視界がすとんと縦に移動し、反射的に動かした視線の先、ホームがイヤな速度で顔面に近づいてくる。
最悪……そう思った瞬間、私の体はぴたりと落ちるのを止めた。私の腕を、誰かが支えてくれたのだ。
「大丈夫ですか?」
その声の主を確かめる前に、すぐに逆側の肩も誰かに支えられる。私はそのまま空中をちょっとだけ歩いて、ちゃんとホームへ着地した。
「あ、ありがとうございます」
私のお礼は幾つかの会釈に受け止められ、何秒も経たないうちに私はまた一人に戻る。
背後を電車が走り去る音。
人の波が薄くなり、私は目の前のベンチに腰かけて脱げかけた靴をまた履いた。
危ないところだった。
電車とホームとの間に落ちかけるなんて……私がいつも降りるドアは、ホームがカーブしている場所だから、電車とホームとの間が確かにちょっと開いている。
いつもドキドキしながらまたいでいたけれど、乗換の階段に近いこともあり、乗る場所を他のドアには変えられないでいた。車両を一両ずらしたことがあるけれど、その時は電車を降りたあと人が多くて階段にすらなかなか近づけなくて、乗り換える予定の電車が一本遅くなっちゃったし。
とにかくその時は「隙間に自分が落ちるだなんてショックだな」程度に考えていた。
恥ずかしくてたまらなくって。
それでも、得体の知れない恐怖は感じていた。
周りの人が支えてくれなかったら、あのまま落ちて……ううん。そうじゃない。そういう恐怖とは違う。うまく言えないけれど、落ちること自体が怖かった。痛いだろうとか、人身事故になるかもとか、そういう具体的な怖さではなく、リアルじゃないもっと深いどこかへ際限もなく落ちていきそうな……底の見えない崖の上に居るときのような……そうやってそのことを考えていると、それだけで落ちて行きそうな……。
まあ、そこで我に返ることができたから私はベンチから立ち上がり、会社に遅刻しないで済んだんだけれど。
乗り換えに向かう階段を降りながら、私の中には恥ずかしさと恐怖の他にもう一つ、別の感情があった。
それは好奇心。
通勤時じゃなければ私は自分が落ちかけた線路脇を覗きに行っていたかもしれない。落ちる瞬間にちらっと見えたあるものがとても気になったから……それが黒のピンヒール。靴底だけ真っ赤で、私が持っているお気に入りのピンヒールによく似ていた。色だけじゃなくデザインまでもがそっくりで。
通勤の時に履くわけなんてないのに、自分の靴が脱げて落ちてしまったって錯覚しちゃったほど。
その日はずっとピンヒールのことが気がかりで、仕事でも幾つかミスをしてしまった。ミスの後始末で残業して、ちょっと疲れて帰宅して……一週間のスタートなのに最低って思ってそのまま寝ちゃったっけ。
一昨日……火曜日。
だるい気持ちを引きずったままの通勤中、電車がいつもの乗換駅のホームにすべりこむ直前くらい、私は急にあのピンヒールのことを思い出した。
今日もあるのかな。
あるとしたら、持ち主は拾いたいって思わないのかな。
わずかな間にそんなことがぐるぐると頭をまわる。同じデザインの私のピンヒールは、私にとって特別なモノだったから。
私とピンヒールとの出逢いは、とあるブランドの店内で。
その場ですぐに買って履き替えたくらいに一目惚れだった。その後も履くたびにどんどん好きになっていったのは、履いていると良い事ばかり起きたからっていうのもあるかも。
時間つぶしで買ったスクラッチくじが当たったり、ゲリラ豪雨が上手に私を避けてくれたり、話題のイケメン俳優がバーで隣の席に座って、しかも奢ってくれたり。
今の彼をゲットした合コンでもこの特別なピンヒールを履いていたんだから。
今ではもう好きってだけじゃなく、かけがえのないラッキーアイテム……だからこそ、脱げたまま置き去りにする持ち主の気持ちがわからない……あ、電車が止まった。
扉が開く。
その扉へどっと押し寄せる人の波に私は乗る。
今度は落ちないよう、足下に気をつけながら。そうやって気にしていたからだと思う。私の目にそれが映ったのは。
例のピンヒールがまだあった。しかも昨日は気付かなかったけれど左右両方揃って落ちている。さらにその横になんかくしゅくしゅしたものまで……まさかアレ、ストッキング?
ありえない、と、私は思った。
靴を両方落としてそのまま帰る人、その同じ人じゃないにしてもストッキングだけ落とす人……いや、酔っ払いならあり得るかも。そのあと裸足で帰ったのかな。あ、ストッキング、伝線して取り替えたやつがバッグから落ちたとかならあり得るか。
そんな事ばかり考えてしまって、仕事に集中できなかった私はその日もミスを連発して、当然のように残業だった。
帰宅が遅くなったにも関わらず、私は帰ってすぐ私のあの特別なピンヒールを探した。
あのピンヒールは私にとってラッキーアイテムじゃなきゃいけないから。違うモノだとはいえ、同じデザイン同じカラーのあのピンヒールがこんな風に嫌なことのきっかけになるなんてダメ。私の特別なピンヒールをちょっとでも履けさえしたら、きっと元気が出てきて、嫌な流れを全部断ち切ってくれるって思えて……だけど、どこを探しても見つからなかった。
探し疲れて、そのまま寝ちゃったっけ。
昨日……水曜日。
残業続きのせいかずっと疲れが取れなくて。うんざりとした気分のまま通勤……そして……やっぱり気になるアレを、電車とホームとの隙間に探して……ああ、やっぱりある……え?
見なきゃよかったって思った。
見たくなかった。
ピンヒールはそのままそこにあったし、その横にストッキング、それだけじゃなくスカートまでもが落ちていた。そのスカートの柄が大問題。私がけっこう気に入ってるのと同じ色、同じ柄。
偶然にしても気味が悪い。
というかスカートって! スカートは……脱いだらパンイチだよね。そんな状況で……この駅、JRに私鉄に地下鉄まで乗り入れしてるし、例え終電近くだったとしても人はけっこう多いはずだけど……あのスカート落とした人はどうやって帰ったの?
普通ならここ、呆れるのを通り越して笑うとこ。でも私は笑えなかった。
ピンヒールにスカートに、どちらも私のお気に入りとそっくりっていう気持ち悪さのせいで。
通勤中の人混みの中に居るのに、荒野に居るみたいに寒気を覚える。
ああ、そう! 私はその瞬間、気付いた……あの悪夢を毎晩のように見続けていることに……気付けた、というべきか。
あの悪夢を「最近、ずっと見ていた」にも関わらず、その瞬間まで私は「見ていない」って思っていた。
それまでの数日間ずっと起きたときには汗びっしょりになっていたし、起きてすぐ手のひらを見てホッとするところまで一緒なのに。
まるで、悪夢が誰かの手によって隠されていたかのような……誰かって誰よ。
胃袋がきゅうっと縛られるようにキツイ痛みに襲われる。胃のムカつきが取れない。ノロにかかった時よりもずっと、嫌な感じの痛み、寒気、嫌悪感。
なんとか会社までたどり着いて、トイレに直行して私は吐いた。
もちろん仕事は散々だったけど、顔色が相当悪かったらしくて上司は怒るどころか心配してくれたくらい。
「少し休憩しなさい」という上司命令に甘え、私は休憩室へと移動する。
あまりのしんどさに、彼に電話しちゃった。仕事の邪魔しちゃうってわかっていたけれど、一人では耐えきれなくて。
彼は優しく話を聞いてくれて、最後に「週末には逢えるから」って受話器の向こうでキスの音。それで少しだけ持ち直した。
帰り道、足取りが重い私の肩をユミコが叩いた。同期入社で親友のユミコ。気分転換に呑みに連れて行ってくれて……それでハジケて……気がついたら、私は自分の部屋に戻って寝ていた。
携帯を見たらもう夜中過ぎていて……廊下から何か物音がして、ああ紅香が帰ってきているんだなって思ったんだけど、体がだるくて私はそのまま寝てしまった。メイクを落とす気力もなかったほど。
今朝……木曜日。
朝から気持ちが悪くて食欲がまったくなかった。まあこれは自業自得なんだけど。
精神的には発散できたけど肉体的にはお酒が残っていて……いやいや違うって。危うく自分のせいにするところだった。元々は、電車とホームの隙間に落ちていた変なモノのせいなんだから。
もう二度と見たくなんかなかった。
だからいつもと車両をずらしてみた。車両とホームとの隙間が広くない場所に。
もちろん乗換にかかる時間を多めに見積もって、少し早めに出て。
これで今週のおかしな流れを元に戻せる、そう思っていた。
なのに。
あの駅で、いつも降りる場所とは二両もずらしたそのドアからホームへと足を踏み出そうとしたとき、なんで見ちゃったかな……だって安心したかったからだと思う。「隙間」を見ても何もないよねって、そもそも私の降りる場所には人の落ちるような幅はない場所だよねって、私はちゃんと回避できたよねっていう、確認。
そうして踏み出した足が固まった。
でもそのまま後ろの人に押されて、転びかけながらもホームへと降り立った。
よく立てたよね、私。転んでもおかしくなかった。だって……ねぇ……私が見たものは何?
数秒か数分か、とにかく私は自分の見たものが信じられなかった。だからといってもう一度それを確かめることも出来ず、ほんの一瞬の間に視界に入ったものを認めたくなくて、ただただぼーっと立ち尽くしていた。
だって。
あのピンヒール、ストッキング、それからスカートも……なんで、そこに落ちていたの?
降りるドア、変えたんだよ?
誰かが移した? なんで? 私が降りる場所を狙って? そんなこと、あり得る?
私は必死にベンチまで移動して、腰をおろして、周りを見回した。
いつも乗り降りしている場所じゃない。しかも二両もずらしたこの場所で降りるって決めたのは、ほんのさっきだっていうのに。
ありえない。
目を閉じると、隙間から見えたモノたちが私の目の前に浮かんでくる。
直後、ものすごい寒気がして、私はハッと目を開いた。
増えていた……もう一つ増えていた。私の持っているものによく似たワイシャツ。しかも月曜に着ていたやつじゃない?
肩が、膝が、がくがくと震える。
嫌な汗が出て、そしてその汗が私の手のひらに落ちて、あの悪夢がフラッシュバックのように現実の中に顔を出す。
私は手のひらに落ちた滴の色が赤じゃないことを確認してから、ぎゅっと握りしめた。
……もしかしたら、私、心が不安定なあまりに幻覚とか見ているのかな。
きっと今見に行ったら、そんなものはないんだ。そもそも何も落ちてなんてないんだ……自分に何度も言い聞かせてみても、ぐらぐらと揺れる心のバランスは取れないまま。
本当に見たのかどうか再確認しに行く勇気なんてない。
こんなに体が震える状態でホームの端っこなんかに近づいたら線路に落ちちゃったりしちゃうかも。いや、それよりも、そこにあのモノたちがやっぱり本当に在ったりしたら……私は……。
体に力が入らないまま何本かの電車を、そして人の波を見送った。その波の中の何人かが通り過ぎるときに私をチラチラと見る。
その時私は、自分がぐしゃぐしゃに泣いていることに気付いた。
しばらくして、少し落ち着いてから会社に電話した。
前日の私がよっぽど具合悪そうにしていたらしく、こちらからは何も言う前なのに今日は休んでいいよと上司に言われた。すごくありがたかった。
このまま帰っていい。そんな救いを手に入れたにも関わらず、それでもまだ立ち上がる元気が出てこなくて、ホームのベンチにずっと座り続けていた。
来る電車の数が少し減り、人の波が小さくまばらになってゆく。
ぼんやりと眺めているホームの白線が、ふいに近づいて来ている気がして、私は慌てて立ち上がった。
そんなことあるはずないのに……でも、立ち上がった拍子にまた吐き気に襲われ、駅のトイレへと駆け込む。朝ご飯を食べてなかったから胃液以外に何も出てこない。
ふらふらになりながら手と口を洗おうとして……トイレの鏡に映る自分を見て、ぎょっとする。
これ、私?
メイクが落ちているとかいうレベルじゃない。信じられないぐらいやつれていた。
そりゃチラチラ見られるわけだ……。
帰ろう。
ちゃんと家に帰って休もう。電車にはもう乗りたくなくて、というよりホームに足を踏み入れること自体が怖くて、タクシーで帰宅した。
帰宅中の車内ではずっと私のピンヒールのことを考えていた。
あんなところに落ちていたアレのことじゃなく、私の特別なラッキーアイテムの方を。
いつまでもこんな気分でいたくない。探すのを途中でやめたからこんな気分が続いているんだ。自分のをちゃんと見つけさえすれば、こんな落ちかけている心の闇の中から抜け出せるはず……って信じながら、私は自宅のドアを開けた。
「あれ、明日奈、なんで居るの? 仕事じゃないの?」
玄関で鉢合わせた紅香は、私のお気に入りの黄色いワンピースを着ていた。大きなひまわり柄のやつ。もちろん貸した覚えなんてない。
「ちょっと! なんで私のお気に入りのワンピ」
「いいじゃん、明日奈ってば平日は着ないでしょ?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
自分の怒鳴り声に力がないのがわかる。声が枯れているというか。ヒリヒリとのどの奥が痛い。紅香はそんな私にはおかまいなしで、そそくさとブーツを履いている。
「ちょっと、紅香、私の黒いピンヒールどこよ? 靴底だけ赤いお気に入りのピンヒール!」
「ピンヒール?」
紅香は眉間にシワを寄せた。
「知らないわよ。なんでもあたしのせいにするのやめてよね」
紅香はブーツを履き終わり、かかとをトントンとした後、少し大き目のバッグを肩にかける。
「どこ行くの? まだ話は終わってないわよ!」
私が一生懸命訴えているっていうのに、紅香はまるで埃でも払うかのようにひらひらと手を振って外へ出てゆこうとする。
「明日奈はさぁ、あたしと違って素敵な彼氏さんが居るでしょ? あたしには居ないの。だから可愛い妹の幸せ探しに協力してくれたっていいじゃない。それとも何? 明日奈の愛しい彼氏さん、あたしにくれる? ひょっとしたら入れ替わってもバレなかったりして」
紅香が私の服を着ていることが急に大きな不安へと変わる。まさか……いや……そんなことあるはずが。
彼が平日なかなか逢えないのは仕事が忙しいからなんだし……だけど……打ち消しきれない不安が大きくなってゆく。
あるはずのないことがこの数日、自分の身に起こり続けているということに気付いたから。
自分の足の周りにどす黒い色のぬかるみが見える。悪夢が現実へと滲み出してきて私を呑もうとする。私は闇の中へ落ちて行く。
「……明日奈……明日奈!」
声に呼ばれて私は目を開けた。紅香の顔がすぐそばにあった。
「いきなり倒れるからビックリしたじゃない」
「……え……私……倒れたの?」
「そうだよ。顔色悪いし、会社休んだのってそのせい? ちゃんとベッドで寝たほうがいいよ。んで、このワンピ、借りたお礼はちゃんとするからさ。じゃ、ほんとごめんね」
悪びれない笑顔の紅香は時計をチラチラ見ながら玄関を出て行った。私の心配よりも大事な用事なのね……イヤミの一つも言いたくなる。
あのごまかし方の感じだと紅香のところにある確率は高そう。とはいえ、今は探し物をする元気なんてない。
そこへ奥からパタンパタンとスリッパの音が近づいてくる。ママだ。
「あら、明日奈、会社は?」
「……具合悪くて、休んだの」
「ほんと、顔色悪いわね。とりあえず寝てなさいな」
「……はい」
私はらせん階段を一歩ずつ踏みしめる。
いつもは振り返りつつステンドグラスを眺めながら上るのに、今は自分のつま先以外を見るゆとりがなくて。
階段上ってすぐの部屋で良かった、なんて思いながら、そのままベッドに横たわったんだっけ。
寝たのは午前中だったのに、あれからずっと寝ていたんだな、私。
やっぱりダメだ。このままじゃ。
私はぐっと立ち上がる。
そして着替えを再開しながら心に決める。探そうって。
お医者さんよりもあのピンヒールが先。
これほどまでに最低どん底の気持ちを癒すには、薬なんかよりもずっとずっと私のラッキーアイテムの方が必要だなった思えたから。
今度は立ちくらもうがどうなろうが最後まで探しきる!
奥歯をぐっと噛み締めながら紅香の部屋へ向かう。
開けてすぐ部屋の灯りのスイッチを手探りで探して点ける。
ああ、紅香の部屋、入るのはすごい久しぶりなのに、なんだか紅香の部屋だなってのが分かる。主に散らかり方で……なんて言っている場合じゃないよね。とっとと見つけてあげなきゃ、私の大事なピンヒールちゃん。
探し始めてからどのくらい経っただろうか。見つけるまで何があろうとこの部屋を出ない、そう決めていた。さっきまでの私は。
でも今は……。
私の視線が気がつくとドアに向いている。私がさっき入ってきた入り口のドア。
私は何を気にしているのだろう。
そのタイミングでまた鳴った。ぐぅ、と私のお腹が。
ああ、そういえば今朝から何も食べていないんだっけ。とりあえず探すのは中断してご飯でも食べようかな。
廊下へと戻った私は、再びあの肌寒さを感じた。
汗ばんだ服は着替えたってのに、さっきよりも寒気が酷い気がする。
風邪でも引いたのかなと自分の額に触れようとした瞬間、私は気持ちの悪いものを見た。
なに、これ……。
これまでの人生では見たことがないほどの立派な鳥肌。しかも、両腕……だけじゃない、肩も、そしておそらく足も、いや、全身?
やっぱりお医者さんの方が先だったかな……なんて不安がじわりと私を取り囲もうとしたとき、一枚の扉が目に付いた。
廊下の端にある、誰も使っていない物置部屋。
いや、そう思い込んでいるのは私だけで、ひょっとしたら紅香が自分の部屋の延長みたいに使っていたり?
どうしてもその扉が気になった私は、鳥肌の立った腕をこすりながら、その扉へと歩き始めた。
だけど、一歩近づくごとに寒気が増してくるような気がする。
近寄っちゃいけないような気さえしてくる。
ちょっと待って、ここ、私の家だよね?
立ち止まって深呼吸する。今以上に最悪なことって何?
自分の現状はなかなかに最悪だってことを再確認する。
そしてその「最悪」は、あのピンヒールを見つけさえすれば終わらせることが出来るっていう根拠のない自信もわずかだけどあった。
あのラッキーアイテムを見つけさえすれば……その想いだけを拠り所にして私は進む。
お願い、お願い、見つかってちょうだい。
心の中で祈りながら物置部屋の扉のドアノブに手をかけた。
あれ?
ドアノブを回したのに扉は開かない。
ドアをよくよく見ると、下の方にいつの間にか鍵が取り付けられていた。
ドアと壁とに金具がつけられていて、その金具には小さな南京錠が。
ちょっと待って。いつの間に鍵なんて……紅香ったら何考えてるの?
怒りにも似た感情がふつふつと湧いてくる。
その勢いで少しだけ元気が出た。
目立たないように小さな鍵をつけたんだろうけど、それが災いしたわね。このサイズの南京錠なら実は私、開けられるんだから。
去年の台風の時だったかな、ユミコが教えてくれたんだ。
置き傘してたビニール傘が壊れたから捨てようとしたときのこと。ユミコに止められたんだよね、全部捨てちゃうのもったいなよって。
どうしてって聞いたら、この傘の部品使って南京錠が開けられるのよって。そしてユミコはその言葉の通り、職場の備品ロッカーにつけられた南京錠を開けてみせた。あの部品、ロッカーの鍵開けられるから職場には置いておきたくなくて持ち帰って……えーと、確かどこかにしまっておいたはず。
私はいったん部屋へと戻り、あの時ユミコからもらった部品を探す。
おぼろげな記憶の通りに机の引き出しの中、古い携帯と一緒にしまわれていた。あのピンヒールもこのくらい簡単に見つかればいいのに……とにかく、これで!
勇ましく廊下へ出ようとした私は、予想だにしなかったものにぶつかりそうなって、慌てて踏みとどまった。
「……ママ?」
「明日奈、起きてたの? ちょっと心配で見に来たのよ」
「あ、だいじょうぶ。食欲も少しだけど戻ってきたし」
「そう。それならいいけど……無理しないで寝ていなさいね」
「うん。平気だってば。ご飯食べて、ちゃんと寝て、明日は元気に仕事行かないと。来月の旅行、行けなくなっちゃうから」
「いいわねぇ。シンガポールだっけ?」
「そー! 空中にあるプールで泳ぐんだ!」
ママはふっとため息をつく。
「心配なんていらない感じね」
「あ、ごめんなさい」
ママを心配させたくなくてちょっとカラ元気ではしゃいでみせたけど、実のところは明日も仕事を休めるなら休みたいぐらい。
なんかここんとこママの機嫌がずっと悪いんだよね。
困るなぁ……きっとまた紅香が何かやったんだろうけど。
「ママは疲れたからもう寝るわ。あなたもほどほどにしなさいね」
「はい」
ママはそう言って階段を降りてゆく。
パタンパタンと遠ざかるスリッパの音を聞きながら、私はじっと扉の内側で待つ。そして少しだけ時間を置いてから、奥の……あの物置部屋の扉へと向かった。
すると、また……。
あのイヤな寒気がぶり返してくる。
なんなのもう。
南京錠を手に取るけれど、やけに冷たく感じる。
私、熱あるのかな。この時間だと診察してくれるのなんて夜間救急くらいだよね。そういうところって寒気ぐらいで行ったら怒られちゃいそう……ううん、この悪夢のようなアンラッキーを終わらせることができるのは、きっとお医者さんなんかじゃなくて……あ!
ユミコに習ったやり方で南京錠が開く。私は震える体を改めて奮い立たせると、今度こそとドアを開いた。
「ん……」
その途端、また立ちくらみ。
さっき、紅香の部屋の前で来たヤツよりも酷い。
膝に力が入らない。
一瞬、今朝のホームを思い出す。白線が近づいてきた幻覚のとき、こんな風に力が入らなかったっけ。
でも私……それでもトイレまで頑張って行けたよね。
そう、行ける。
きっと行けるから。
ドア枠に寄りかかりながら部屋の灯りを点ける。
そして、部屋の中の雑然振りに唖然とする。
紅香の部屋といい勝負……ってことは、この部屋、やっぱり紅香が使っているってこと?
無理やり深呼吸をする。とっとと探しちゃおう!
とにかくここの部屋のどこかに……不意に背筋がぶるぶると震える。
思わず声が出るくらいの、今日一の寒気。
しかも引っ張られているようなあの感覚まで。吸い寄せられるように見た部屋の片隅の壁際に視線を移した私は、驚きのあまりその場にしゃがみ込んでしまった。
そこにあったのは……真っ黒い人形……それも人間と等身大の……いや、人形ってよりもマネキン?
顔こそ目鼻の類のパーツがなく、のっぺりとしているものの、耳のカタチはしっかりとついていて、首から肩のラインとか、足先とかまで全身に妙な生々しさがある。
しかも、普通、マネキンって台とかから棒とかで支えられているよね。でも、このマネキン、自立しているの……しかも、私のあのピンヒールを履いて!
それだけじゃない。黒マネキンってば、私の帽子を被り、私のシャツを着て、私のスカートを履いて、ストッキングに、耳には私のピアスまで……全部、私のお気に入りだったものばかり。
私は駆け寄ってピンヒールを黒マネキンから急いで外す。靴底は赤……やっぱり私のラッキーアイテムの!
「これ、全部私のものばかりじゃない!」
しかもスカートにシャツに……今週、線路脇に落ちてたのと同じやつ!
私は急いで黒マネキンが着ていたものを全部剥いだ。
因果関係なんてわからないけれど、あの線路脇に落ちていたものとこの黒マネキンが着ているものが一緒……帽子以外だけど……とにかくその一緒っていうのがイヤだった。
「紅香ってば悪趣味。勝手に借りたもの、こんなところに隠しておくなんて。しかもこれ、私の勝負コーデの研究でもしていたつもり?」
もしかしたら双子だから、紅香がこうやって考えたコーデを私が無意識に受け取って、体調が悪かったから幻覚みたいに見ちゃったのかも?
小さな頃遊んだ糸電話、しりとりとかよくやっていたんだけれど、私、紅香が単語を言う前に何を言うかわかったんだよね。離れたと感じていた紅香との絆が、ちょっとだけ取り戻せた気がして、少しだけ気持ちが軽くなる。
そう考えると、いろいろと取り越し苦労だったような気もしてきた。
自分のものを全部取り戻した私の中に、安心感と共に元気が戻ってきた。
もうだいじょうぶ、そんな気持ちが私の周りに漂う不安を追い払ってくれている気分。
それでも、この気持ちをリセットしたくて、私はその場でラッキーアイテムのピンヒールを履いた。すると、さっきまでの寒気が嘘のように消えてホッとする。やっぱりお医者さんよりもピンヒール探しを優先して良かったんだ。
それなのに。
それなのにまた、ぞくりと寒気が一筋だけ首筋を舐めるように走った。
寒気がした方向には黒マネキン。
あれ……私、さっき全部脱がして倒しておいたような……でも、今、黒マネキンは立っている。
起き上がりこぼしみたいに重心が下にあるのかな……黒マネキンを触ったときの感触は布のようではあったし、脱がすことばかりに夢中になっていたから、そんなに気にもとめていなかったけれど、裸にされた黒マネキンがじっと私を見つめているようなイヤな感じがずっとつきまとっている。
目とかないのっぺりとした顔なのに、私から目を離さないでいるような、イヤな気配。
だから近くにあった麦藁帽子をかぶせてその頭を隠した。
とっさに手にしたこの麦藁帽子、まだパパが生きていた頃に紅香とおそろいで買ってもらったやつだ。
私のは葉山でクルージング中に風に飛ばされちゃったからこれは紅香の。そうよ、紅香。あんた、私の服じゃなく自分の服を着せておきなさい。
麦藁帽子をかぶった黒マネキンが、顔が隠れているというのにまだ私を見つめている気がして、私は急いで第二の紅香部屋を出た。
自分のものは取り戻したし、気持ちの悪いここには長居無用。小さな南京錠も元通りにして、私は自分の部屋へダッシュした。
自分の部屋に戻った私はピンヒールを旅行用のトランクにこっそり隠した。ラッフルズのロング・バーにはこのピンヒールがきっと似合うはず。
でも、それ以外のものは、全部ビニール袋に詰め込んで捨てることにした。あの黒マネキンがどうにも気持ち悪くて。
帽子とスカートは特にお気に入りだったけれど、なんかもう身に着けたくはなかったから。
だから、近所のゴミ捨て場へこっそり捨ててきちゃった。
本当は朝に出さなきゃいけないんだけれど、寝る前に全部済ましておきたかったんだ。
それで、全部、元通りになるはずだった。
電話のコール音に起こされた。
眠い目をこすりながら見るとユミコから……え、まだ5時ってどういう……。
「はい、もしも」
「ちょっと! 明日奈?」
「は、はい」
「あ……良かった。生きてた」
「い、生きてたってどういうことよ?」
「う、うんとね……私さ、昨日の夜も呑みに行ったんだわ。ほら前に陽気なスペインからの留学生に会ったじゃない、おさげの子。あの店」
「あーあー、あの店ね」
いつもの乗換駅で降りて五分くらいの場所にある店だ。そこでぐっと胃が重くなる。あの駅のことを考えただけだってのに。
「でさー。終電逃しちゃったから朝帰りになっちゃってさぁ」
「もう、ユミコったら相変わらずね」
「そしたらさ……見ちゃったの」
私はその時、ユミコの声が震えていることに気付いた。
「……見ちゃったって……何を?」
「駅前の交差点でさ、信号待ちしてたら大きなトラックが突っ込んで行って」
「え、突っ込んでって、どこに?」
「交差点の向こう側で信号待ちしてた人のところ」
「ちょ、それって大惨事じゃないの!」
「……うん。でも……死者は一人だけっぽい……」
電話の向こうで、ユミコがのどをつまらせているのが分かる。泣いている?
「私、見ちゃったの……轢かれて頭だけぺしゃんこにつぶれた死体」
ユミコは急に咳き込み、うっうっと何かを吐くような音が聞こえた。そんなユミコに私は何て言ったらいいんだろって考えている間に、ユミコはまたしゃべりはじめた。さっきより声の震えが激しくなっている。
「……その死体がさ……黄色いひまわり柄のワンピース着てて……ほら、明日奈が買うとき私が一緒に居たあれよ」
ひまわり柄のワンピースって……え、紅香? 電話を持つ私の手も震えはじめる。
「本当は近くでちゃんと確認したかったんだよ……でも、怖くて近づけないうちに警察が来てブルーシートかぶせちゃったから、何かの見間違いとかだといいなって考えてたら……気がついたら電話かけちゃってたの。寝てたでしょ、ごめんね……なんかもう気が動転しちゃって……ほら、明日奈ってば仕事休んだでしょ? 具合悪そうだったし、家で寝てるって思ったから絶対に違うって思ったんだけど」
「ユミコ。電話、ありがと」
私は急いで廊下へ出る。ユミコの言っていた「私の服と同じ」というキーワードがどうにもひっかかる。
なんだかあの黒マネキンのせいのような気がしていて。
私は第二の紅香部屋の前まで走ると、昨日と同じように南京錠を開けた。
開けた途端に、足先から痛いほどの寒気が昇ってくる。
でもそんなの気にしちゃいられない。
部屋の電気を点けて、下っ腹に力を入れて、私は部屋の中へ一歩踏み出した。
真っ先に黒マネキンの方を見た……居る。
在る、ではなく、居る、という表現を思わず使ってしまった自分に驚く。
ただ、昨日この部屋を出たときと同じく麦藁帽子だけを被った状態で不気味にたたずんでいる黒マネキンを見ると、その妙な存在感というか気配というか、「居る」という表現を使わせるだけの何かがあった。
今は夜じゃなく朝だから、と、根拠のない安心感の盾を一生懸命探すけれど胸騒ぎは止まらない。
本当はもう二度と見たくなかった黒マネキン。
けれど、麦藁帽子をかぶせたままじゃ何かがいけない気がして、私は黒マネキンに近づこうとした。
その麦藁帽子をかぶせたのが自分だということと、さっき聞いた電話の内容とが勝手に結びついて……結びつくことに、理屈は通らないのだけれど。
あの麦藁帽子を外したら、その下にある黒マネキンはどんな表情を浮かべているのだろうか。昨日、のっぺりとした顔のない造詣を見ているはずなのに、不安が予想の中に様々な負の形相を作っては消える。
……足が重い。
近づきたいのに、近づきたくない。なんだろう、この足の重さ。足首から先だけが、まだ悪夢のぬかるみの中に居るみたい。
ずいぶん時間が経ったようにも感じるけれど、何歩進めたというのだろう。
もともと十畳ほどしかない部屋だから、もうあっという間に着いていたっておかしくないのに。
ああ、足が重い……ああでも、少しずつだけど近づいている……手を伸ばせば、麦藁帽子を外せるかもしれない……そんな距離まで近づいた時だった。
背後から、大きな声がした。
「どういうことっ!」
凄まじい怒鳴り声に振り返ると、そこには紅香が立っていた。
ああ良かった。紅香ってば生きてるじゃない。
ユミコが見たのって私たちとは何の関係もなかった人だったんだわ。
最近「似ている服」っていうフレーズに変に敏感になっちゃって……。
「もう、紅香ったら朝っぱらからうるさいなぁ。またママに怒られちゃうよ?」
そう語りかけながら、私は紅香が着ている服を見つめていた。あの黄色いひまわり柄のワンピースじゃなくネグリジェ。いつの間に帰っていたの? ……でも、なんかこのネグリジェ、見覚えがある。普段これを着ているのは、紅香じゃなくって……。
「どうして……邪魔するの?」
紅香の顔は苦しみに歪んでいる……紅香の……あれ。何かがおかしい。
「どうして脱がせたの? 全部入れ替わるはずだったのに……」
紅香の声でそう言った。でも、双子だからなんとなく分かる。目の前に居るのが紅香じゃないってことが。しかも……入れ替わるって?
「……もしかして、ママなの?」
私の考えがまとまるより前に、私の口が勝手にそんな言葉を出した。その言葉に私自身も驚いた……だけど、紅香は私のことをじっと見ながら……紅香……紅香の顔をしたその人は……吐き棄てるように言った。
「どこまで私の邪魔をすれば気が済むのよっ!」
邪魔?
何のことだか全然わからない。私は呆然と、その不自然な紅香を見つめている。
「あなたたちのせいで、私は全てを失ったのよ」
声は紅香だけど、しゃべり方がママに似ている。
「ママなの?」
私はもう一度たずねた。でも、目の前のその人は、私の問いかけには答えず勝手にしゃべり続ける。まるで私の声など聞こえていないかのように。
「私には若い頃、とっても好きな人が居た。大好きだった。その人と一緒になろうって約束までして。でも父がね、大きな借金を作って自殺しちゃってね。途方にくれていたときに私に声をかけたのがあなたたちの父親よ」
これはママの話なの?
ママが若い頃の話なんて今まで一度も聞いたことがなかった。そしてそれよりも、目の前の紅香の姿の人がいつの間にかゴルフクラブを持っていることがすごい気になる。
私は少しずつ後ろへと下がろうとする。すると、一歩後退っただけで背中がぞくりとする。背中越しに感じる黒マネキンの存在感。
「あなたたちの父親は、お金持ちだったけれど浅ましい男だった。私は、大好きだった人と一緒に駆け落ちすることにして、ある晩こっそり待ち合わせたの。でもそのその待ち合わせ場所で待ち構えていたのはあの人じゃなくあなたたちの父親だった。そしてそいつは私を無理やり犯したの。私は何が起こったのかわからないまま……そして気付いたら、あいつの妻にさせられていた。私の母が私を裏切ったのよ。お金目当てで」
話の内容がもし本当なのだとしたらすっごく同情はするけれど、ゴルフクラブを振り回しながら一歩ずつ近づいてくるその状態はとてもじゃないけれど受け入れられなくて。
「やっぱり紅香? ねぇ、何かの悪い悪戯? ね、危険だよ、やめようよ」
「結婚させられてすぐにあなたたちが生まれた。生まれてきたあなたたちに罪はないからと大切に育てたわ……なのに、跡取り息子を産まなかったってだけで、あの男の両親からは酷い扱いを受けた。知ったことか! 私が来たくて来たんじゃない! お前たちの息子が汚い手を使って無理やりこの家に閉じ込めたのに!」
「ね、危ないよ。話聞くから……だからゴルフクラブ振り回すのだけはやめて」
でも、振り回されるゴルフクラブは少しずつ私との距離を縮めてくる。それも、むちゃくちゃに振り回しているんじゃない。振りかぶっては渾身の力で殴りつける、そんな殺意のこもった一撃を何度も繰り返す感じ。
立ち止まったら本当に殺されるかもしれない。
私は、背後からの寒気に凍りつきそうになる足をなんとか引きずって、後ろへと下がり続けた。
ふと、目の前の「紅香の顔」に、怒り以外に喜びのような表情が浮かんだ。
「そんなときにね、イイモノを見つけたのよ。あいつ、歪んだ性格通り、歪んだものを集めていた。河童の手とか人魚の剥製とか。ほとんどはまがい物よ。あいつと同じナカミのないモノ。でも数があったからね、中には曰くつきのホンモノも紛れ込んでいてね……呪いってやつ。試しに使ってみたら、あいつの両親、コロリと死にやがった! あは、あはは、あはははははは!」
高笑いのわずかな間、ゴルフクラブを持った手が止まる。よし、今の隙に横をすり抜けて……無理無理無理。とてもじゃないけれど無理すぎる。
「……」
やめて、と、言ったつもりだった。
いつの間にかカラカラになっていた私の喉は、思ったように声を出すことができなくなっている。
その時だった。びゅんと振られたゴルフクラブの先端が私の膝をかすめたのは。
「っ!」
むちゃくちゃ痛い。
これ、怖がらせるとか冗談とかじゃなく、間違いなく殺意。
目の前で起きていることを理解できないまま、私の体と心は黒マネキンの方へと追い詰められてゆく。
「さすがに持ち主だけあってね、あいつは私がやったことにすぐに気付いたわ。でもね、こっちだってすぐにバレるってわかってた。だからもう仕掛けておいたの。あいつ、私のことを一生懸命呪ったわ……その呪いが全部自分に跳ね返るとも知らないで! あいつ、しょっちゅう事故に遭ってたでしょ。本当に自業自得! そして最後はとうとう……! あはっあはははは、あはははははははは」
とん、と背中が壁につく。
そのついた背中から痺れるほどの寒気が広がってくる。ああ、これは違う。これ壁じゃなくあの黒マネキンだ。
ちょっと背中がついたくらいでは倒れない黒マネキンの不自然な怖さと、目の前に迫るゴルフクラブの恐怖とが、前後から私の心を削り取る。
「半分はあいつの血が流れているとはいえ、あなたたちは可愛い娘。そう思おうとしたわ。でも無理だった。だってあいつが憎くてたまらなかったから! そんなあいつも、一つだけ便利なところがあったわ。お金だけは持っていたからね……」
また、一瞬、ゴルフクラブを持った手が止まる。でも本当にほんのわずかな間だけ。ふぅ、と小さなため息をもらしたあと、再びゴルフクラブを振りかぶって、振り下ろす。
「でもね、お金って心を満たさないのよ。もちろん再婚だって考えたわよ。でもね、みんなお金に群がる下衆ばかり!」
びゅん、と顔のすぐ近くをゴルフクラブが通過する。
イヤ……誰か助けて……そんな言葉を心の中に浮かべて、私は気付く。ここには誰もいないことに。
パパが亡くなったあと、私が一生懸命守ろうとしていた家族は……ここには居ないんだってことに。
私の大好きな家族に似たナニカは居るんだけれど。
「明日菜……あんたは紅香よりよく出来た子だったよ」
そんな風に言われても、助かりそうな気配はいまだゼロのまま。
「明日奈、あなた、連れてきてくれたのよ。私がかつて愛したあの人にそっくりな人を! やっぱり親子なのね、タイプが一緒……私、あなたの彼を見るたびに、少女時代に戻ったみたいな気持ちだった」
目の前のナニカは、手を止め、うっとりとどこかを見つめている。今度こそ……今なら行けるかも……その一瞬の隙にかけようとした私の肩に、鋭い痛みが走った。一瞬、息ができなくなるほどの痛みが。
フェイントなんてなしだよ。
「私、呪いの品をもう一度調べなおしたわ。そうしたら見つけたのよ。姿を奪うことができる道具を! あはははははっあはっあははっあはははは!」
姿を……奪う? まさか、この黒マネキン?
「私、やり直すことにしたの。明日奈、あなたとして……それなのにそれを邪魔して!」
笑いがやみ、フッと息を吸い込む音が聞こえた。私は反射的に、背後にあった黒マネキンを担ぐようにしてしゃがみこむ。鈍い音がすぐ近くで聞こえて……一瞬のことだった。
どさり、と、私のすぐ横にナニカが倒れる。
しゃがみこむ私のすぐ横に、倒れたナニカは、目を見開いたまま私をじっと見つめている。
紅香に似た顔のままで、じっと、ずーっと。
その顔の額からどくどくと血が流れ始める。
何が起きたのか分からなかったけれど、私は慌てて黒マネキンの下から這い出した。
ゴルフクラブの先端が、黒マネキンの頭にめり込んでいる。
ぼんやりとその光景を見つめていた私が、警察を呼ぶことに気付いたのは、それから数分経ってからだった。
警察は先ず通報者であった私を犯人として疑った。
でも検死の結果、傷口と一致したゴルフクラブに私の指紋がなかったとか、そもそも倒れてから握らせるのは不可能なくらい強く握られていたとか、内臓が全て消えていたとか、不自然なことが多すぎて「殺害方法の証明が不能」とかなんとかで事故として処理されることになった。
現場を指揮していた年配の刑事さんは私の話を信じてくれたし、こういう死体は表には出てこないだけで時々見るんだよ、とかボソリと教えてくれた。
黒マネキンは裏庭で燃やした。これも警察にいったん押収されたんだけれど、戻ってきた。
もともとは黒じゃない生地だったようだけど、黒いインクでママの名前がびっしり書き込まれていたせいで黒く見えたのだろう、だって。しかもそのインクからママの血が検出されたらしい。
私にとってママはママで、パパや紅香同様、大切な家族だったのだけれど……ママはずっと独りで、家族を演じなきゃいけないことに苦しんでいたのかもしれない。
だからといって殺されるなんて冗談じゃないけどね。
そう、頭をひき殺されたひまわり柄ワンピの人は、やっぱり紅香だった。
紅香と、「事件性なし」で事故死扱いとなったママと、二人分の葬儀を私は手配した。
そして、通夜も告別式も全て終えた夜のこと。
「大変だったね。紅香ちゃんに引き続きお母さんまで」
ユミコが私の肩を優しく抱きしめてくれた。
「ありがと……でも、変な話だけど、パパの時の経験が役に立ったかな」
「いいんだよ。無理してジョークとか言わなくても」
「ユミコ、ありがとね」
「私にできることあったら、いつでもなんでも言ってね」
ユミコは私のことを何度も抱きしめて、そして帰って行った。ユミコと入れ替わるようにして、彼が来た。彼もユミコと同じように私を何度も抱きしめてくれた。
「俺、泊まっていってあげようか?」
「だいじょうぶ。今は一人で、心の整理をしたいから」
「そっか……じゃあ、困ったことあったら頼ってこいよ」
彼も帰ってゆく。
「……ぷっ……あは、あははは、あははははははは」
彼を見送り、扉を閉めてすぐ、こらえきれなくて、つい、笑ってしまった。
ユミコが私のことを大切にしてくれるのは、友情というより愛情……いや、肉欲だった。
私を抱きしめている間、ずっとユミコは欲情していた。
彼はもっと酷い。
頭の中に私のことはほとんどなくて、お金のことばっかり。行くのをやめた旅行代金のキャンセル料をいつ私に請求しようかとか、私と結婚しちゃえば今の仕事辞めて遊んで暮らせるかもとか、しかもいまだに合コンに行きまくってて適当に遊べる女を探しているようだし。
いつの間にか握りこぶしを作っていた手の中の異物感に気付き、大きな白い石がはまった古びた指輪を外した……本当に、聞こえるんだ。
ママの遺品を整理していたら呪いの品々の効果が書かれた日記が出てきた。
呪いというものの存在は目の当たりにしたから信じてはいる。でも実際、自分が使ってみると……酷いものね……酷すぎる。今まで真面目にやってきたのがバカみたいに感じちゃうくらい。
「あははははははは……あはは……」
……私、こんな笑い方、するんだ……ママみたい。
ねぇ、ママ。ママはひょっとして、私と入れ替わるの、成功しているんじゃないの?
自分自身に向かって問いかける。でも、誰も答えてくれない。
私は家族を失くし、友達も、彼氏も、全て失くしたような気がしていた。でも、ママは……不思議なことに、私の心の中に今も居るような気がして。ママ、もしかして他にも呪いの品を私に使っていたりしたの?
「あは、あははは、あははははははははっ」
笑い声が響く玄関ホールに、ステンドグラスごしに陽の光が描く模様だけがキラキラと美しかった。
<エピローグという名のプロローグ>
「なぁ……機嫌、直してくれよ」
「……」
「君が一緒に逃げようって言っていたあいつ、札束ちらつかせただけであっさり君を譲るって言ったんだぜ」
「嘘よ!」
「嘘なもんか。だから君の言うように僕がクズなら、あいつもクズなんだ。同じクズなら金を持っているクズの方がいいだろ?」
「一緒にしないでっ!」
「僕は本当に君を愛しているんだ。そりゃ、無理やり車に押し込んだのは悪かった。でも雨の中で傘もささずに強情に立っている君が倒れたのを見てほっておけなかったんだよ」
「誘拐よ! あなた、犯罪者よ」
「君のお母上の許可はもらっているんだけれどね……」
「どうせ私のお母様も騙したんでしょ! あなたのご商売、人を騙すんでしょ? どうして刑務所に入らないで済んでいるのか不思議なくらい」
「騙すだなんて人聞きが悪い。需要と供給ってやつさ。要らないって言っているヤツから買ってさしあげて、欲しいって言うヤツに売ってさしあげる。僕はその手間賃をいただいているだけ。詐欺呼ばわりは心外だな」
「あなたそのうち刺されるわよ。人を騙してばかりで誰にも愛されずに、孤独のうちに死ぬのよ!」
「まあ待てよ。僕は本当に君に惚れているんだ。その証拠に、僕の秘密を見せてやるから」
「秘密?」
「こっちの部屋だ……ほら。見てごらん」
「何? これ……薄気味悪いものばかり」
「仕入れてはみたけれど売り物にはちょっとできない『いわくつきの呪いの品』ってやつだよ。中には本物もあるから安易には触らないように」
「この白い宝石の指輪、綺麗」
「言ったそばから……ああ、その白いのは宝石じゃなく、人骨だよ」
「じんこつ……ひ、人の骨? やだ、外してっ」
「しょうがないなぁ、ほら、手を貸して」
(……雨に濡れた君をこの屋敷に連れてきて……着替えさせるときに僕は君を手篭めに……)
「い、今、なんて?」
「今? 何も言ってないけれど?」
「でも……今あなた確かに……ああ、私、汚されてしまったんだわ……この人に……ああ!」
「どうしたんだい。そんな急に泣き出して」
「触らないで! ケダモノ! ……ああ、私、もう、あの人に愛される資格を失くしてしまったんだわ……あああああっ」
「おいっ……気絶してしまったのか。君は美しいのだけれど、思い込みが激しいのが玉にキズだね。この指輪は、自らの疑心暗鬼を育てる呪いがかけられているんだよ。君が聞いたのは僕の声じゃなく、君の中の不安が生んだ妄想さ。ケダモノか……どんな酷い役を僕に演じさせたたんだい。まあいいさ。気長に待つよ。あいつに頼まれたんだ。君を幸せにしてくれって。それにしても札束ちらつかせて、とかいう設定、チープだよな。全部、あいつのシナリオだから仕方なく言ったけれどさ。あいつの……病に蝕まれた僕の親友の……最期の頼みを断れなくてさ……でも、君を愛しているのは本当なんだ。いつかきっと振り向かせてみせるから」
<終>
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