遠距離恋愛

 自分の目を疑った。

 そこにあるべきものがないということを情報として知らされたとしても、そんなことって自分の中にすぐには入ってこないんだよ。見慣れていたはずの建物が、僕の目の前では半分ほど無くなっている。


 久々に取れた休みを利用して彼女の住んでいるアパートを訪れた僕に突きつけられた事実。

 火事が起きたということ。

 そして彼女が焼死体として発見されたということ。

 消防服を着た人や警官なんかが忙しなく動きまわり「現場」に近づくことを拒んでいる。そんなことしなくても僕の足は動かないでいるのに。何が起きたのか分からないまま僕は立ち尽くしていた。


 火事が起きた?

 しかも、今朝だなんて。

 なんで?

 どうして?


 「火事」という言葉は知っている。でもその「火事」という言葉が頭に入ってこない。何度聞いても、僕の口は「え、火事なんですか?」とくりかえしてしまう。そのうろたえている僕を呆然と見つめているだけの僕も居る。僕はたぶん混乱している。

 自分がプラスチックのケースに入れられちゃってるんじゃないかなって思うくらい、全ての音と景色がぼやけて感じる。「いま」という世界が遠くなってゆく。


 彼女は僕の二つ下。大学で知り合い、地元から離れて一人暮らししていた僕の部屋にいつの間にか転がり込んできた。僕の就職先が地元でしか見つからなかったせいで、僕の卒業後、逢えるのは数ヶ月に一度くらい。

 彼女はずっと僕の住んでいた部屋に住み続けているのに、お互いが一人暮らし。だけどそんな切ないのももうすぐ終わる。彼女はもうすぐ卒業し、そしてその後、僕と結婚する予定なんだ。二年間、我慢したんだよ。物理的な距離は遠くても、いつも支えあいながら。


 そうだよ。こんなことしている場合じゃない。今日だって、式の打ち合わせをしようって……早く、彼女に会わなきゃ。

 僕は間違えたんだ。彼女の家じゃない違う場所に来ちゃったんだ。おかしいな。ずっと住んでいたから間違えたりなんてしないはずなのに。


 自分の中に、すぐには向き合えない現実との緩衝材を必死に敷き詰めている僕の耳に、また現実が響いた。大きな声が耳に入ったんだ。僕の中の思考はほとんど止まっていたから、ただ大きな音ってことだけに反射的に反応してそちらを向く。現場検証を行っている警官を激しく問い詰めている人……あれは彼女のお母さんだ。夏休みに彼女の実家に遊びに行った時、優しくしてくれた上品なお母さん。その人が涙をボロボロ流しながら警官に何かを言っている。


 ねぇ、マユリ。君のお母さん、泣いてるよ。悪ふざけはやめて出ておいでよ。ひょっとしてどこかに隠れているんだよね。僕が呼んだら、出てきてくれるよね?


 でも、呼んでも出てこなかったら。

 それが怖くて彼女の名前を声に出せないで居た。それと同時に、呼ばないでいたらどんどん彼女が遠くに歩いていってしまうんじゃないかって恐怖も膨らんで。気がついたら叫んでいた。


「……マ……ユリ……」


 叫んだつもりだったけど声はほとんど出ていなかった。乾ききった咽からなんとかしぼりだした声はカサカサとかすれ、すぐ近くにでも居なければ聞こえないくらいにしぼんだ声。

 でもその声に君のお母さんは気付いてくれた。信じられないという目。きっと僕も同じ目。

 そしてお母さんと僕は、マユリがいま寝ている場所に連れて行かれたんだ。仕事を切り上げて駆けつけてきたお父さんも合流した。


「遺体の損傷はかなり激しいですので……」


 そう言われてまずマユリのご両親だけで対面することになった。しばらくして霊安室の中から泣き声が聞こえる。その泣き声がだんだん近づいてきて、扉が開く。マユリのお父さんは目を真っ赤にしながらお母さんを抱きしめていた。

 僕が思わず立ち上がると、お母さんが僕の手を握りしめる。


「あの子、いまの顔を見られたくないと思うの。わかってあげて」


 その言葉は、すごくすっと入ってきた。マユリはとてもお洒落な子だったから。髪型がうまくキメられないだけで僕に「あんまり見ないでよ」なんて言う子だったから。その言葉をマユリ自身が言ったみたいで……僕はどうしようもなく受け入れるしかなかった。


 受け入れた途端、僕の中から声と涙と鼻水があふれた。

 止まらなかった。ぐちゃぐちゃだった。

 僕とマユリのお母さんとお父さんと、互いにしがみつくことでなんとかこの場に立っているみたいな状況だった。


 気がついたら時間が過ぎていたみたい。

 葬儀も通夜も終え、火事の原因もわかった。

 一階に住んでいたお年寄りの大家さんが持病の発作で倒れた時に、火がつきっぱなしだったコンロから出火したとのこと。マユリはその時寝ていて、死因は一酸化炭素中毒だと聞かされた。痛くないまま熱くないまま眠れたのがせめてもの……と、お父さんが言っていた。


 どのくらい時間が経ったのだろう。

 地元の友達が僕のアパートに来た。

 食べ物や飲み物を持ってきた。

 僕がボロボロ泣き始めたら、みんなも泣き始めちゃって。急にみんな謝りはじめて帰ってった。悪いのは僕なのに。

 上司や同僚も来た。仕事のことはまだ大丈夫だから休みなさいなんて言ってくれた。すみませんと言いたかったのにまた涙だけが出てきた。悪いことしたねとみんな謝って帰っていった。悪いのは僕なのに。


 そんな風にしてまた時間が過ぎていたみたい。

 時間がもし目に見えたら、僕をすり抜けて流れていってるんじゃないかって感じる。


 毎日のように連絡を取り合っていた僕ら。

 マユリの声を聞かないと夜が終わる気がしない。

 マユリの声を聞かないと朝が始まる気がしない。彼女は僕の時計だった。

 彼女が僕の前から消えて、僕は時間を失った。僕はどこまでも落ち続ける砂時計の砂みたいだった。だからどのくらい経ってからなのかは分からない。とにかく真っ暗だったから夜だったと思う。気がついた時、それはすぐそばに来ていた。


 何か黒いものが僕の部屋の入り口にうずくまっていたんだ。


 僕はベッドに寝ていたのにそこに居るのがわかる。ぼんやりと感じていたんだと思う。そしてその黒いものがじわじわと近づいてくる気配がする。

 みしり、みしり、と。

 這いずっているような音まで。その音がとてもリアルだったから、僕は起き上がってそれをちゃんと見ようと思った……けど、体が動かない。


 金縛り?


 そうか、これが金縛りというものなのか。だからどうなるっていうものでもない。僕に何かしたいなら好きにすればいい。それに身を投げ出したまましばらくして、部屋が明るくなっていたことに気づく。

 それでもマユリの声がないから、この明るさが朝というものなのか、それとも違う何かなのか、分からないまま考えているうちに暗くなっていることに気づく。さっき明るくなったのは気のせいだったのかなとも思う。マユリに置いて行かれた僕には、何もかも信じることが出来なくて。


 みしり、みしり。


 また音が聞こえる。

 いや、またなのか、それともさっきした音が今もしているだけなのかはわからない。

 部屋の入り口に何かが居る気配も戻ってくる。僕はいつの間にか金縛りのまま、直接見えているわけじゃないけれど。


 みしり、みしり。


 その音の中に、何かを引きずるような音も混ざっている。そしてだんだん近づいてくる。だんだん?

 その時僕は、久しぶりに時間の流れというものを感じた。

 ひょっとしたら死神みたいなものが僕に終わりの時を知らせに来ているのかもな……それでもいい。マユリに逢えるかもしれないんだ。マユリに逢いたい。

 ああ、なんで気づかなかったんだろう。こんな簡単なことに。マユリに逢う方法があるじゃないか。すぐにでもその考えを実行したい衝動にもかられる。ただ僕の体はまだ金縛り状態のままだから……。


 急に、全身に電気が走るみたいな衝撃があった。

 背中から全身へ冷たいものがぶわっと広がる。僕の足に何かが触れたのだ。

 ガサガサとしているのに、ぬるりともしている。死神に触れられた感想なんて聞いたこともないから、それがそうなのかはわからない。けれど、動けないでいる僕の足を少しずつ這い上がってきている様子から、おぼろげながらそこに人の形を感じたりもする。動物の死神はやっぱりその動物の形をしているんだろうか。そんな、馬鹿げたことをふと思う自分を見つけ可笑しくなる。そういう突拍子もないことは、よくマユリが言い出したっけ。僕はその時、一瞬だけ、自分の中にマユリが居るような気がして、幸せな気持ちになった。


 死神のようなものが僕に触れた箇所は次々にヒリヒリと痛み出す。それでも、ほんの少しだけ感じたあの幸せな気持ちを長続きさせたくて、僕は自分の中にあるマユリの想い出にしがみつく。


 熱い。

 痛みの中から熱さが次々と僕の中に刺し込まれるようで。

 それでも僕はマユリを心の中に抱きしめながら最期の時を静かに待つだけだ。


 痛みと熱が僕の胸くらいまで這い上がってきたとき、嫌な匂いが鼻をついた。肉が焼け焦げた匂いに近いけれど……痛み……熱……焼焦げた……そんないくつかのキーワードが不意に僕の中でまとまり始める。

 あの日からずっと目を背けてきたあの言葉に収束してゆく……「火事」。

 思考がそこにたどりついた瞬間だった。僕の口から自然に声がこぼれた。


「……マユリ?」


 声が出たと同時に体が動くようになる。僕は肩と首だけをなんとか起こし、自分の上に乗っている影のようなものを見つめた。

 そこに居たカタチは、かろうじて人の姿をしていた。

 ただ、焼けた皮膚が黒く焦げてめくりあがり、その下から赤く見える部分が痛々しく潤んでいる。片方の目は開けられないでいるようだし、髪なんかちりちりで……マユリはとても髪を大事にしていたのに。言葉だけじゃなく涙までこぼれてくる。もしもここに居るのがマユリなのだとしたら、ずいぶんとつらかっただろう。

 ごめんね、ひとりにしてしまって。

 ごめんね、マユリ。


 僕は一つしか開いてないマユリの目を見つめた。そして両手でマユリを抱きしめた。指先にはガサリとした固いものや、不自然な湿度の感触。

 ごめんねマユリ。

 ごめんね……ああ、そうか、マユリが僕を迎えに来てくれたのかな。待たせちゃってごめんね。さっきね、ようやく気づいたんだよ。僕も、マユリのとこに行けばいいんだって。ごめんね、そんな簡単なことに気づかなくって。

 その直後、僕は頬に痛みを感じた。


 ……え? ひっぱたかれた?


 驚いて見つめた顔は気合が入ったメイクをしたときのマユリだった。髪型もうまくキメられている……「うまく」かどうか僕には見分けがつかないんだけれど。

 目がちょっと怒っている。

 でも、やっぱりマユリだった。マユリ……僕は嬉しくなってマユリの頬に触れる。いつもこのあとに言われる「メイク崩れちゃうじゃない」を期待して。

 でもマユリは予想に反して笑って、それから泣いた。


「ありがと……でもね」


 そう、聞こえた。

 それからふわりと体が一瞬軽くなって、まぶしくなって、マユリのいつもの香りが僕を包んで、満ち足りた気持ちの中、僕は目を閉じた。


 どのくらい経っただろうか、とても長い時間だったような気もしたし、わずかな時間のようにも感じられた。ただ、目を開けた僕の前にはもうマユリは居なかった。余韻のように、鼻の近くに残っている香りは、マユリのお気に入りのリップの。


「……マユリ?」


「ねえ、マユリ?」


 何度か声をかけてみるが反応はない。気配そのものが消えていた。


「マユリ……」


 でも、じんじんと頬の痛みは残っていた。叩かれたんだっけ。ああ、そうだ。マユリは怒っていた。どうして怒っていたんだろう……そのとき、マユリの言葉をひとつ、思い出した。


『なんでそうやってすぐあきらめるの? そうやってあきらめることが今までの人生であと一つでも多かったら、私はこうして今あなたと逢えていなかったかもなんだよ?』


 ……そういうことなのかな。

 今、僕の頭にこの言葉が浮かんだってことは、そういうことなのかな……僕はその痛みに自らのてのひらを添えて、久々にぐっすりと眠った。


 あたりまえにあると思っていたものがなくなることってあるんだ、ということ。それが現実なんだよと僕に言う人も居たけれど、僕はそれを受け入れることが出来なかった。でも僕は間違っていなかった。

 僕はなくしてなんかいなかったから。

 あたりまえにあったもの。それを大切にしていたならば、それはなくなるんじゃないって僕は感じたんだ。なくなったわけじゃない。いなくなったわけじゃない。ただ、かかわりあい方が変わっただけ。


 マユリは居る。


 僕の中にだけじゃなく、ちゃんと居る。声を聞いたり、抱きしめたり、そういうことは確かに出来なくなったけれど、僕はマユリに逢うことが出来た。

 だから、僕はちゃんと生きることにした。マユリにもうこれ以上、一つだって心配かけたくなかったから。

 仕事にもちゃんと行くようになった。ゴハンも食べるし、健康にも気をつけた。そういう毎日のささいなことだって、僕がなげやりになったらマユリはきっとああ言うはず……僕にはそれが分かる。

 マユリがいつも笑顔でいられるには、僕はどうしたらいいのかが分かるんだ。


 僕は遠距離恋愛をしているだけ。普段は手紙も電話もSNSもどんな方法でもやりとりなんて出来ない距離だけど、お盆にはきっとまた逢える。

 逢った時に怒られないように、笑顔を見せてもらえるように、僕はちゃんと生きるんだ。




<終>

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