第5話 王子に黒い薔薇が咲く
突然の登場に膝をぶつけながら立ち上がり、わたしはクリード殿下に一礼した。
痛い。
恐る恐る向かい側に視線を動かせば、たまたまラジアン殿下の紅茶は手元に持ったままだった。
小さく謝ると、ふふと愉快そうに笑われたので安堵する。
きらり、と、視界の隅に光を感じた。
それが癖のある金色の髪であることに気がついて、もういちどクリード殿下に顔を向ければ、
「ぐっ」
胸板と熱い顔面衝突をした。
「メイシィ!大丈夫かい!?」
「お熱いねえ~」
「だい、じょ、ぶ、です」
今日は紺色のお召し物のようだ。最上級の糸で作られているからこそ額の衝撃は弱く、思わぬところで高級品の肌触りを堪能させられている。
押し返せないのはわたしが両手を上げているからだ。
ハグ、返してないよ、この通り!
「驚かせてしまったね。本当にすまない!膝は痛いかい?動かせるかい?ああああ、折れてしまったら責任を取るから安心してほしい!」
流れるようにわたしをすとんと席に座らせて、ちゃっかりしっかり隣に腰掛けるクリード殿下。
その左手は怪しい動きをしている。わたしがぶつけた膝に触れていた。
「大丈夫です、殿下!ご心配をおかけして申し訳ありません」
「本当に?」
わたしは王族の手すら振り払えない。ましてやにやにやしているラジアン殿下の前では!
手は動いているわけではなく、わたしの膝が片手ですっぽりと覆われているだけだった。
弱い治癒魔法をかけてくださっているようだ。ほのかに暖かい。
治癒魔法を使える魔術師は多くない、思わぬところでクリード殿下の才能が垣間見えた。
「はい、もうすっかりです。申し訳ありません」
「それならいいが……」
まだ何か言いたそうなクリード殿下。いつもは長文が並びかねないけれど、流石に今回は違う動きを見せた。
ラジアン殿下に向き直り、硬い表情で口を開く。
「面会中に申し訳ございません。兄上。メイシィと話をしていると伺いいてもたってもいられず参りました」
「構わないよ。君がこの話を聞けばすぐにやってくると予測はついていたしね。
でも、礼儀のない入り方は兄として情けなく思うねえ?」
ぴり、と空気が変わった。
密着していた身体をそっと離している途中だったわたしは、思わずぴたりと動きを止める。
思わずクリード殿下を見上げれば、見開いて緊張の表情を浮かべていた。
お父様である国王陛下が相手でもそんな態度じゃなかったのに。
かしこまった話し方から察するに、兄弟だとしても恐れを抱く関係なのだろう。
王族というのは、王位継承権の争いで兄弟仲が最悪となってしまう場合がある。
歴史が何度もわたしたちに訴えてきた言葉だ。
今回は継承権というより、相手がラジアン殿下だからという気がするけれど。
「申し訳ございません。以後、注意します」
「それになんだい?今のメイシィ嬢への態度は。好きな相手を怯えさせるのはセンスがない」
「申し訳ございません……」
……いろいろと、気になるところは置いておくとして、とんでもない正論である。
ローレンス様に続いて久しぶりに聞いた常識的な言葉にわたしは感動を覚えた。
クリード殿下は隣からひどく悲しい顔を向けてくる。
ここでラジアン殿下に同調するわけにもいかないので、わたしは口角を上げて首を振った。
「気にしないでください、クリード殿下。確かに最初は驚きましたけれど、すぐに落ち着きましたから」
「ふっ」
返事はクリード殿下の安堵の表情と、ラジアン殿下のこぼれた吐息だった。
遠回しの『クリード殿下がこうなのはいつものことなので慣れてます』が伝わったのだろう。
「はは、やっぱり惜しいなあメイシィ嬢は」
「惜しいとは、どういうことしょうか?」
「彼女が名のある貴族だったよかったのにって話をしていたんだよ」
「……兄上、それは彼女に対してあまりにも失礼ではないでしょうか」
「怒らないでくれクリード、ティーカップが揺れてる。カタカタ言ってる。メイシィ嬢、しばらく自分のティーカップは持っていてくれ」
「はい」
「別にそういう意味で言ったわけじゃない。お前もわかっているだろう?」
「理解してはいますが……」
クリード殿下はどこか不満そうに膝から手を離した。
じんじんと滲むように感じていた痛みは和らぎ、自分でも触れて確かめるが何も問題がなさそうだ。
小さくお礼を伝えると、彼は力なくほほ笑んだ。
「さてと。邪魔が入ったことだし僕はそろそろ戻ろう!メイシィ嬢、君と話せてよかった」
「こちらこそです、王太子殿下。貴重な時間を割いていただき感謝申し上げます」
「お礼に今度は僕が招待しよう。薬師として何か作ってもらうのも面白いな~」
「はい、力を尽くします」
「兄上……」
ラジアン殿下はにこにことご機嫌な様子で部屋から去っていった。
一礼から戻るころにはすっかり閉まりきった扉。だだっ広い部屋にわたしとクリード殿下のふたりが直立で取り残されている。
そういえば、完全なふたりきりになることは珍しい。
いつもクレアかアンダンさんか、ミカルガさんたち薬師院の人々が同じ空間にいた。
王太子に対する緊張が残っているのかな、わたしを見下ろしてくるクリード殿下の顔を妙に意識してしまう。
目をそらしたい衝動に駆られていた。
「今日もいらしていただきありがとうございます。クリード殿下。お茶も出さず申し訳ございません」
「気にしないでくれ。急に押し掛けたのはわたしのほうだから」
沈黙。
殿下は目線をずらすことなく、じっとわたしを見つめてくる。
あの王太子がわたしのもとに来たことを心配してくださっているのだろう。と思っていたのだけれど、表情に違和感があるような。
ふと、何も言わないクリード殿下はわたしの方に手を伸ばしてきた。
大きな掌が頬を撫でようとして、止まる。
「ああ……メイシィ」
指が少しだけ動いて、止まる。
耳が赤い。
瞳がうるうると水分を含み始める。
え、何、殿下、泣くの?
どこに泣く要素あった?
わたしに同情したとか?別にチクリとはしたけどラジアン殿下にいじめられたわけではないけれど?
カタカタと下から音が鳴りだした。
ようやく視線を逸らせば、相棒のいないソーサーとスプーンが身を震わせて何かを奏で始めている。
もしや、これは、妖精の仕業?
「メイシィ、なんて愛らしい髪型なんだ!」
キーン、と音を立ててスプーンが跳ねた。
あ、そういえばラジアン殿下がいらしたとき、面会前にせめてもと東方出身の先輩薬師がわたしの髪をまとめてくれたんだっけ。
カンザシと呼ばれる1本の棒で素早くきれいに仕上がった髪を見て、わたしだけではなく周りのみんなが感心していた。
かんざしの先にはピンクの花をモチーフにした飾りが揺れていて、わたしも気に入っている。
「あ、ありがとうございます。殿下」
「それは
「ミロクさんをご存じなんですか?」
「もちろん。彼女の出身である東方に咲く花の話はいつも興味深い。それに、その簪の花が気に入ったから、同じものを作るために彼女の意見を参考にさせてもらった」
「そうだったのですか」
意外な関係性だ。でも簪は長い髪に使うはずだからクリード殿下の髪型にはちょっと……似合うのかな?
いや、素材が良いから何でも似合うかも?
「……言ってしまった以上君に伝えておくが、君にプレゼントするためだよ、メイシィ」
「え?」
「その花はウメという。白やピンク色の花をつけるが、君の白い髪には濃い色がよく似合うだろう。じきに完成するから、待っていて」
「お、恐れ多いです殿下、わたしはいつも殿下からいただきものばかりで……お返しできません」
「お返しなんていらない」
「それではわたしの気が済みません」
今までわたしは殿下のプレゼントに悩まされていた。
頻度が高いのはもちろんだけれど、すべてお手製のデザートなのだ。
物なら断れるのに、放っておけば腐るものを受け取らないわけがない。
ミリスリンゴのパイは何度もご馳走になっているし、メロンやマスカットが収穫できたときはクリームを挟んでパフェに……あれは……おいしかったなあ。
あととれたてイチゴをそのままいただいたときは言葉にできない美味の極みだった、手ずから食べさせようとしてくるクリード殿下を避けるのにどれだけ苦労を……。
はっ
「それならこうしよう。ミロクに簪の使い方を教わって日常的に使ってほしい。それをお返しとするのはどうだろう」
本当は受け取りたくない。
だけれど、この様子だともう作り始めているし、なんならほぼ仕上がっているに違いない。
出来上がってから拒否するのも失礼に当たるし、うーん。
「わかりました。そうします」
「!」
素直に受け取ることにしたわたしに、クリード殿下は目を見開いた。
そんなに驚くことだろうか。思わず首をかしげると、殿下はさらに目を見開いた。
「メイシィが……メイシィが……」
「なんでしょう……?」
カタカタカタカタ
ソーサーたちは踊りだす。
「ついにデザート以外のものを受け取ってくれる……っ!」
……まんまとしてやられた気がするのはわたしだけだろうか!
すっと冷めていく気持ちを抱きながら、わたしは幸せそうに瞳を濡らす殿下を眺めた。
ふと手元のティーカップに目が入った。
クリード殿下の妖精によって起こる事象のひとつ、『振動』は自身が震えるほどの感情に苛まれたときに起きる。
人は緊張したり焦ったり、嬉しかったり悲しかったり、多くの感情が『震え』となって現れることがある。
クリード殿下も同じ。
つまり、公の場では最も多くの人々が感じる妖精たちのいたずらなのだ。
ティーカップの中に入っている紅茶が、振動によって大きく波打っていた。
内側から外側へ、外側から内側へ。反響していくような動き。
それに魔法の力も備わって、紅茶は波を立たせたまま大きく盛り上がっていく。
その姿はまさに、ティーカップに咲いた一凛の薔薇。
この国にほぼ存在しない花なのに、紅茶の色と相まって、クリード殿下はいつしか『黒薔薇王子』と呼ばれるようになった。
「メイシィ……メイシィ……」
「こ、これ以上近づくのはだめです。いけません、いけませんから!」
わたしにとっては
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