夫より、いい男
月世
第1話
彼はよく、自分は絶対に浮気をしないと言っていた。
理由を聞くと、面倒だとか、仕事が忙しいからそんな暇なんてないとか言って、不倫をする人たちを鼻で笑っていた。
お前を愛しているから不倫はしない、と言われるよりも、なんとなく安心できたし、彼はよく自分は潔癖症だと触れ回っていて、だから浮気の心配は本当にしていなかった。
帰宅が深夜になっても、休日に一人で外出しても、仕事だと言われたらそうなのかと思ったし、疑いなんて一ミリも抱いていなかった。
愛し合っている夫婦だから、不倫を疑わないというわけじゃない。
私は彼を大好きだが、ラブラブとは違う。一方通行というか、愛されているという実感はなかった。
結婚前は確かに愛情を感じていた。だから結婚したのだが、釣った魚に餌をやらないというやつで、結婚後、彼はずいぶん冷めた。というか、雑になった。
いってらっしゃのキスが、あるときからハグに変わり、今は何もなくなった。
愛情表現をするのはもっぱら私のほうで、彼は私にあまり触れない。
セックスはたまにしたが、酔ったときとか、性欲を処理するためだけにされているなという感じはしていた。ぬくもりが欲しくて甘えても、拒絶されるなんてことは数えきれないほどある。
私は人として扱われていない、彼の所有物だと感じたことさえあった。
好きと言っても、好きとは返ってこない。はいはい、と軽くいなされる。
そんなの新婚じゃあるまいし、普通だよ、と既婚の友人はみんな笑ったが、慰めにはならなかった。
私の気持ちはないがしろ。どこまでも自分本位で腹が立ち、寂しさと怒りがマックスになったときには、出社した夫の枕をひたすらに殴りつけた。
そして、帰宅した夫を笑顔で迎える。
結婚して一年で、こんなふうだが、夫婦仲が悪いとは思っていなかった。なぜなら喧嘩らしい喧嘩をしないからだ。
夫が外で働いて、私は同居の義両親の面倒を見ながら、家を完璧な状態に保つ。
これは合理的な役割分担。
煙草もギャンブルも酒もやらない、DVを受けているわけでもなく、休日はほとんどゲームばかりだが、話しかければ返事はあるし、ただ、この人は私に興味がないのだなと強く感じていた。
結婚しながら、片想いをしているようだった。
自分でも呆れるほどに、健気に、一途に、夫を好きだった。
だから、夫が浮気をしていると知って動揺したし、絶望もした。
そして、どこか、「やはり」と諦めにも似た感情があった。
やはり夫は、私を愛してはいなかったのだ。
「ごめん」
彼は土下座をした。
「ごめん、許してくれ」
「離婚する?」
訊いてみた。夫は硬直している。まさか私の口からその単語が出るとは思っていなかったらしい。
「子どももいないんだし、離婚するなら今だよ」
「いや、離婚は……、考えられない、勘弁してくれ」
「それって、私が好きだからじゃないよね? 世間体? 離婚したら出世に響くとか、体裁が悪いとか、そういうのでしょ?」
彼はうつむいて体を小さくしている。
「そうじゃないかと思ってた。あなたは私のことなんて、とっくに好きじゃなかったんだよね。もしかして最初から好きじゃなかった?」
「なんだよそれ、なんでそんなこと言うんだよ……」
「どんな人?」
顔を上げた彼は、怯えた目をしていた。私は自分が優位に立っていると気づいてゾクゾクした。今なら蹴り飛ばしたって、怒らないかもしれない。顔面をグーで殴りつけたって、許されるはずだ。
拳を握り締め、付け加えた。
「相手の女、どんな人? あ、女だよね?」
「お、女だよ」
チッと小さく舌打ちしたのを聞き逃さない。
「どんな女か言ってよ」
チッと舌打ちし返して、吐き捨てた。
「得意先の、事務の子で」
「子? 若いんだ」
「二十三」
「馬鹿じゃん」
我々は三十五だ。一回りも違う女と不倫とか。しかも仕事がらみで? この堅物が?
「もういいよ。私と別れてその女と再婚したら」
「いや、それは……、気の迷いっていうか、とにかく、そんなんじゃないんだよ」
「してもいいよ」
頭に上った血が、沸騰して、湯気が出てきそうだ。
私は、怒っている。裏切られて、腹が立ち、冷静になんてなれない。
家庭内片想いは、今日で終了だ。
「離婚したら世間体も悪いし、浮気が原因って知れたら職場の評価も下がるかもね。でもそれが不倫の代償じゃない?」
「……本当に、許してくれ。もうしない、絶対にもう二度と」
「一回不倫した男はやめられないんだって」
「俺はそんなのと違う」
「へえ」
「向こうから言い寄ってきて。二十三の可愛い子にだぞ? 無理だろ」
私は腹を抱えて笑った。もう何か、笑うしかない。
夫への愛は冷めてしまったが、何かで仕返ししたくて堪らない。苦しめたくてしょうがなかった。
「ご両親に言うね」
「おい、ちょっと、待て、頼む」
「専業主婦だから、どうせ一日暇してるとでも思ってたんじゃない? そうだよ、大したことしてないよ。明日から浮気相手がこの家の家事、すればいいんじゃない? ご両親の三食と、家の掃除と洗濯と。お任せするわ。私はもう、辞める。だって、なんかずるいじゃない。いいとこどりで。私もあなたに愛されたかった」
語尾が震えて、泣いてしまったと気付いた。頬を伝う涙が止まらない。嗚咽が漏れる。肩に、夫の手が触れた。抱き寄せられる気配を察知して、急いで振り払った。
「私も若い子とセックスする」
「……は?」
「それで許すつもりはないし、チャラにもしない。でも、私も若い男の子とセックスする。あんたが若い女とセックスしたんだから、おあいこでしょ。いいよね? 文句ないよね?」
「お前、三十五の既婚女を抱きたがる男なんて……」
ハッとして口をつぐんだが、彼がどれほど私のことを下に見ているかがよくわかるセリフだった。
嫉妬心を煽れるかと思ったが、なんのことはない。私にそんなことをする度胸がないと高をくくっているのか、それとも、ただひたすらに愛がないのか。
私は三十路を過ぎて処女のまま彼と付き合い、結婚した。
つまり、彼以外との経験がない。思わないでもなかった。他の男に抱かれたら、どんなだろうと。具体的な相手を妄想したことはなかったが、興味はあった。
これはいい機会なのだ。
「見てなさい。あんたよりいい男、見つけるから」
夫は無言でうなだれた。
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