ある日、森の中

 一寸先すら見えない程に濃い霧が立ち込める空間。その空間の中で、ルゼは先頭をきって歩んでいた。

 イノセの手をしっかりと握りながら、彼を導くように堂々とした足取りで…。


「…姉様。手汗がすごいんだけど…。無理しなくていいんだよ?」

「イノセ大丈夫だからねお姉ちゃんが付いてるからね絶対にこの手は離さないから───」

「…はあ…。」


 否、その足はすくみきっており、全身が恐怖で震え上がっていた。それでも痩せ我慢をして無理やり歩を進める彼女に、イノセはため息をつく。

 想区を渡る旅を初めてまだ間もないルゼは、未だに沈黙の霧に対する恐怖心は振りきれていないようだ。恐れを誤魔化すようにイノセの手を強く握るが、ただでさえ力が強いのにこれ以上力を込められたら、イノセの手など簡単に握り潰されてしまうだろう。

 早いところ、どこかの想区に辿り着いてほしい。イノセは手に伝わる強烈な圧迫感を堪えながらそう念じる。


「…!!」


 突然イノセが真剣な顔つきになり、ピタリと足を止める。


「姉様、ちょっと待って!!」

「大丈夫怖くない大丈夫落ち着いて大丈夫あたしがいる大丈夫───」


 だがルゼはイノセが止まったことすら気づいていないようだ。恐怖を振り払うためか、独り言を呟きながらどんどん歩を進める。


「ちょっ…ちょっと姉様!!止まってったら!!引っ張らないで!!」


 それに伴い、彼女と手をつないでいるイノセはそのまま引きずられてしまう。彼女を引き留めようにも、普段から鍛えている姉の力には到底敵わず、彼女にされるがまま。なんとか止めさせようと彼女の肩を叩いたりしてみるが、それでもなおルゼは気づく様子は見せない。


「…全く…!」


 とうとうしびれを切らした様子でイノセは自分の『空白の書』を取り出し、それを自分の頭上に掲げる。


 ゴッ!!


「あいだっ!?」


 そしてそのままルゼの後頭部に『空白の書』を振り下ろした。いきなり頭に重い衝撃を受け、たまらず彼女はその場にうずくまって悶絶する。それなりに厚めの本で後頭部を叩かれたのだから無理もないであろう。むしろ、ここまでしないと気づかない彼女の鈍感さに脱帽である。


「…もう!!いきなり何すんのよ!!」

「さっきからずっと呼んでるんだけど?いくらなんでも怯えすぎだよ。いつものやかまし…いや、賑やかさはどこにいったのさ。」

「今やかましいって言おうとしたわね!?あたしの耳は誤魔化せないんだからね!?」


 自分に食ってかかるルゼを怒りを受け流し、イノセは要件を伝える。


「カオステラーの気配がする。」

「え!?」


 イノセの言葉に、ルゼも怒りを納めた。


「こっち!」

「あ…ちょっと…!」


 今度はイノセがルゼの手を引き、霧の中を先導して歩きはじめた。何も感じられないルゼは戸惑いつつも、弟の言葉を信じて彼と共に歩を進めていく。

 さっきとは反対に、自分の腕を強く引いていく弟。霧への恐怖感は未だ拭えないが、姉の手を強く握りしめる弟を信じて彼の導くまま小走りでついていく。

 すると今まで真っ白だった景色が、少しずつ鮮明になっていく。


「…着いた!」


 程なくして二人は沈黙の霧から抜け出した。

 霧が晴れてすぐさま日の光が射し、二人の目を刺激する。

 次第に光にも慣れ、目を開くと霧は残らず消え去っていた。


 目の前に広がったのは、広い草原だった。


 晴れ晴れとした青空と、足元に生い茂る緑色の絨毯。そして想区を訪れた二人を歓迎するかのように穏やかな風が吹く。平和という言葉をそのまま体現したかのような場所だった。


「あら!鍛練日和の最高な空じゃない!前の想区はやたらと暑かったけど、ここはとっても過ごしやすいんじゃない?」


 さっきまで恐怖で震えていたのが嘘のように、ルゼはすっかり上機嫌になる。「鍛練」という単語が些か女性らしさに欠ける気がするが、彼女の言う通り、この上なく良い気候と言えるだろう。


 だからこそ、イノセは違和感を感じずにはいられなかった。


 カオステラーに支配された想区なら、空は赤く濁り、おどろおどろしい空気が漂う。このような穏やかな雰囲気にはならない。

 だが、この想区からは確かにカオステラーの気配が感じられる。そしてその気配はひどく微弱なものだ。

 となると考えられるのは…。


(まだカオステラーになりきっていない、か…。)


 混沌の力に目覚めかけているものの、完全なカオステラーになれていないという可能性。もしそうなら『調律』ができない今の自分でも、なんとかなるかもしれない。

 それでも、いつ完全なカオステラーに成り果てるかは分からない。そうなる前に早く手を打たなければ。

 だが肝心の気配があまりに微弱だ。神経を張り詰めなければ気にならないほどには。これ程までに弱いと、想区のどこにいるかがまるで検討がつかない。


(でも、いくら不完全な状態だからって、こんなに気配が弱いことがあるのか…?)


 正直なところ、こんなことは初めてだった。

 父や学院の職員達に付き添ってカオステラーを静める補助をしたことは何度もあった。もちろん、不完全なカオステラーの沈静化も経験している。だがそのいずれも、想区の中では気配がちゃんと分かっていた。今回のようなケースは、今まで遭遇したことがない。

 しかし、不測の事態に驚いている場合ではない。イノセは意識を集中させ、混沌の気配を探る。


(何か…せめて大まかな方角だけでも分かれば…。)


 ほんの僅かな気配を掴めないものか。そんな淡い希望を胸に抱きながら。


 …グ…───


「…え?」


 何かが、イノセの耳を刺激した。

 それはまるで大きな獣が唸り声をあげたかのような、そんな重低音だった。


 …グ…───…ゴ…───


 また聞こえてきた。

 しかも今度はさっきよりも音量は大きく、幾分かはっきりとしていた。


(何の音だ?…まさか、ヴィランが近くに!?)


 腹の底から響かせているような重い音に、イノセは警戒を強めた。

 カオステラーの産み出したヴィランなら、カオステラーと同じ気配がするはず。だが周辺からはそんな気配は感じられない。

 ならば野生動物だろうか?もしこの音が唸り声だとしたら、声の低さと大きさからして相当大きい生き物だろう。ヴィランと戦い慣れた自分達ならなんとかなるかもしれないが、それでもなるべくなら出会いたくないものである。

 イノセはしきりに周囲を見渡すが、音の主となるものは見つからない。気味の悪さだけが彼の心を覆う。


 すると先程の重低音がまたしても鳴り響いた。

 それも、より大きな音になって。






 グォゴゴゴゴゴ…ギュルルルルルルル…!






「…は?」


 だがよく聞いてみると、それはあからさまに唸り声などではなかった。

 むしろ今まで張っていた緊張の糸を一気に緩めるような、かなり間の抜けた音だった。


「…。」


 イノセはこの音の正体に覚えがあるのだろう。彼の顔は瞬く間に呆れ顔に変わる。

 イノセは試しにその場で振り向いてみた。






「お腹空いた。」


 そこには不機嫌な表情を浮かべた、他ならぬルゼの姿があった。






 グギュゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…!


 何度目か分からない例の音がまた聞こえてきた。

 獣の唸り声、否、地響きと間違うほどのとてつもない重低音。それが彼女の体から聞こえてくる。


 音のする場所、不満そうな顔のルゼ。それらの要素から、イノセは音の正体を確信した。


 間違いなくルゼの腹の虫だった。


「…はぁ。」

「な…なによ!!しょうがないでしょこればっかりは!!あの屋敷のヴィラン達の戦闘でめちゃくちゃに体動かしたんだから!!」


 イノセの大きなため息にムキになって弁解するルゼ。だがイノセは頭痛を押さえるように額に手を当てて俯く。生理現象とはいえ、人が真剣に考えてる時に何をしているのか。呆れるなと言う方が無茶な注文である。


(…まあ、まずは休めるところを探してからでも遅くはないかな…。)


 だが今後の方針は決まったようだ。イノセはまず拠点となるところを探すため、再び周囲を見渡してみる。

 見渡す限りの草原。それ以外に何かめぼしいものはないものか。


「おーい!そんなところで何をしている?」


 その時、何処からか人の声が聞こえてきた。二人が声のする方を向くと、遠くから馬車と、乗り手らしき男が手を振っているのが見えた。


 ******


「いやぁ、こんなところに旅人さんがいるなんてな!」

「ありがとうございます。助かりました。」

「ホント!もうこんなだだっ広い草原に出たときはどうしようかと思っちゃった!」


 馬車の荷台から、イノセとルゼは乗り手の男に感謝を述べる。

 イノセとルゼは偶然近くを通った馬車に見つかり、乗せてもらえることになったのだ。二人は馬車の荷台で揺られながら、男と共に整備された一本道を行く。


「なぁに、構いやしねぇよ。ちょうどこの近くの村に用があってな。そのついでに声をかけてみたってだけよ。」

「この近くに村があるの!?」


 男の言葉にルゼが食いぎみに反応する。何よりもすぐに腹ごしらえがしたかったルゼにとっては朗報だろう。村に辿り着いたら、真っ先に腹拵えに取りかかるだろう。


「おう。何でもそこには、『歌姫』って呼ばれるほどのべっぴんさんがいるらしくてな。この辺ではちょっとした有名人らしいぜ?」

「へえ…。」


 イノセもまた、男の世間話に関心を向ける。

 運良く人里へ辿り着けるだけでも幸運だが、今の話で一つ気になることができた。


『歌姫』と呼ばれる存在のことである。


(もしかしたらその『歌姫』が、この想区の主要人物かもしれない。)


 カオステラーは基本的に、『主役』となる人物か、その人物と親密な間柄の人物がなるケースが多い。その『歌姫』がどんな人物か知ることができれば、カオステラーの正体を知る大きな手がかりになるかもしれない。


(歌が鍵となる物語となると、『人魚姫』か?でもここは明らかに海辺ではないし…。『アリとキリギリス』は…。いや、人ですらない…。)


 だが歌が鍵となる物語となると、意外と思い浮かばない。イノセは頭の中で、あれでもないこれでもない…と悩ませる。


「…イノセ。」


 考え事をしているイノセの後ろから、ルゼの声が耳に届いた。

 だが彼女の様子が変だ。

 なぜか分からないが、ドスの効いた低い声で話しかけてきたのだ。恐る恐る振り向いてみると、無表情のルゼが目の前に迫っていた。

 あまりの気迫に思わず変な声が出そうになるイノセ。ルゼは構わずに、おののいた様子のイノセを問い詰める。


「あなた、その『歌姫』のことを考えてたでしょ。」

「え…?そ、そうだけど…?」


 ルゼの問いに、イノセはなんでもないように答える。


「やっぱりかぁぁぁぁぁぁ!!」

「うっ!?」


 急にルゼは狂ったように怒りだし、イノセの胸ぐらを掴んで彼を乱暴に引き寄せる。いきなり何の脈絡もなく怒鳴られて、イノセは戸惑うばかり。


 自分達の目的を考えれば、この想区の主要人物かもしれない人物のことを考えるのは、別におかしくはないだろうに。一体何が気に入らないのか。ルゼがなんでこんなにも怒り狂うのか、イノセには全く分からなかった。


「この前のあのエロ女といい、『歌姫』といい、あんたはいつからそんなに女にだらしなくなったの!!あたしは情けないわよ!!」


 …ああ。そういうことか。彼女の言葉を聞いて、イノセは急に冷静になった。

 ルゼは、イノセが『歌姫』に下心を持っていると思っているんだろう。前の想区でロードピスに告白されたことをまだ根に持っているのだろうか、イノセが女性に関わる事にどうしても抵抗があるのだろう。


「あたしの知らない間にこんな悪い子になっちゃって…!お父様とお母様になんて言えばいいのよ!!」

「勝手に阿保な勘違いしないでくれる!?僕のことそんな不謹慎な人間だと思ってたの!?」


 勘違いで掴みかかるルゼと呆れながら怒りだすイノセの声が、街道中に響き渡った。

 会ったこともない、それもただ『歌が上手い』くらいしか情報がない女性に対して、なんでいきなりそんな邪な気持ちを抱くと思ったのだろうか。さすがに話が飛躍しすぎではないか。


「はっはっは!いきなり叫びだして何かと思えば痴話喧嘩かい?お熱いお二人さんだな!!」


 馬車の乗り手が二人の方を向いて陽気に笑いかける。

 男に話しかけられたことで、今まで騒いでいたイノセも途端に我に返る。


「あ…ご、ごめんなさい!!騒がしくしてしまって…!!」

「なぁに、構わねぇよ。ただお兄ちゃん、火遊びも程ほどにしておきな。あんまり彼女さんに寂しい思いさせるもんじゃないぜ?」

「か、彼女って…。」


 乗り手の寛大さに感謝すると共に、彼の勘違いに思わず苦笑いをしてしまう。女の話でルゼが怒り出したからなのだろうが、まさかそんな風に勘違いをされていたとは。

 誤解を解いておくことも考えたが、騒ぎすぎて変に疲労してしまったイノセはそれ以上訂正を求めずに、また馬車に揺られることを選んだ。


「………。」


 ついさっきとは打って変わってだんまりとなり、顔を紅く染めたルゼと共に。


 ******


 しばらく馬車に揺られていると、目の前に緩やかな円を描く木の塀が目前に広がった。


「じゃあ、俺はそろそろいくよ。良い旅を!」

「送ってくれて、ありがとうございます。」

「ありがとね!おじさん!」


 塀の入り口をくぐり抜けた馬車に二人は別れを告げ、馬車はだんだんと遠くへ消えていく。馬車に手を振るルゼの隣で、イノセは村を見渡してみる。

 静かな村だと、イノセは真っ先に思った。木造の建物がまばらに建ち、それぞれの家に小さな田畑が存在する。外に出てる人もそれほど見受けられない。失礼ではあるが、静か…というよりは、寂しいと言った方が表現としては合うだろうか。


「…………。」


 イノセは試しに、カオステラーの気配を探ってみるが、相も変わらず察知は出来なかった。

 心なしかさっきよりも気配が遠退いた気がする。気のせいかもしれないくらいの僅かな違いだが、恐らくはこちらの方角ではないのだろう。手がかりが殆ど無い今の状況では、それが知れただけでも大きい。

 他に手がかりを探る方法と言えば…。


(やっぱり、『歌姫』を探すしか無いか…。)


 この想区の主要人物に会い、話を聞くこと。それが一番確実であろう。

 そうと決まれば、さっそく『歌姫』を探し出さなければ。村の規模事態は決して大きくはないし、そう時間はかからないだろう。

 誰か村人でも通りかからないか。そう思った矢先、





 グルルルルルゥゥゥ…!!





 隣から大きな獣の唸り声…否、腹の虫が聞こえてきた。誰のものかは、最早言うまでもないだろう。


「お腹空いた。」


 この想区に入りたての時よりも不機嫌そうな顔でルゼは空腹を訴える。

 また頭を抱えたい衝動に駆られるイノセだが、そういえば拠点の確保も視野に入れないといけないのを思い出した。


「はいはい…。とりあえず先に宿を探そう。」

「やった!この村には名物みたいな食べ物はあるのかしら?」

「あのさ姉様…、僕たち観光にきたんじゃ───」


 イノセの注意もろくに聞き入れずに村の中へ駆け出すルゼ。どんどん遠くなる彼女の後ろ姿に向けてため息を吐きながら、イノセは村に足を踏み入れた。


 ******


「はぐはぐはぐはぐ…!」

「姉様…。誰も取ったりしないから、少しくらい落ち着いて食べて…。」


 ルゼはテーブルに出された料理を口一杯に頬張り、咀嚼し、どんどん飲み込んでいく。そして忙しそうな彼女を、イノセは困ったように隣で見つめる。


 村を歩き回った末に小さな宿を見つけた二人は、すぐにチェックインを済ませた。その瞬間、ルゼはさっそく宿の食堂へ駆け出したのだ。

 ルゼは食堂の席に着くや否や、メニューを片っ端から頼みまくっては勢い良く食いつき、空っぽの胃袋を満たすことに精を出す。


「むぐむぐむぐむぐ…!」

「いやぁ、良い食いっぷりのお嬢ちゃんだな!見てて気持ちがいいぜ!」


 奥から宿の主人が、豪快に笑いながら新しい料理をもって出てくる。料理がテーブルに置かれると、ルゼは目にも留まらぬ速さでそれを口に含み、咀嚼し、飲み込んでいく。彼女の両隣に、食べ尽くした後の皿がどんどん積み上がっていく。


「全く…食欲に正直なのは相変わらずか…。」

「そういう兄ちゃんはたいして食っていねえな!遠慮はいらねえぞ?久しぶりのお客さんだから、サービスしてやるぜ!」

「いえ、僕は小食なんで…。」

「おいおい!食べ盛りの男なんだから、もっと食わねぇと!!ほれ!!」

「いや…ほんとに、無理…う…。」


 イノセはやんわりと断るが、主人は彼の前にも料理をどんどん置いていく。

 ルゼは昔からよく食べる方ではあるが、クロヴィスに格闘技を習うようになってからはますます大食いになった。『調律の巫女一行』のメンバーからは母親譲り…否、母以上の食欲なんて言われることもしばしばだ。

 比べてイノセは、母や姉どころか常人と比べても食べる量が随分と少ない。その食の細さから、本当にレイナの子供なのか疑われたほどだ。目の前の料理と、隣でルゼが積み重ねていく皿を眺めているだけで、腹が破裂しそうな感覚に襲われる。


「そういえば、まだ日が高い内にこの村についたんですけど、この村は何だか、その…静か、ですね?」


 イノセは少し済まなそうな様子で主人に尋ねた。

 実際村を歩いてみると、不自然な程に人影を見なかった。

 村に入ってずっと辺りを見渡しているが、村人らしき人影が殆ど無いのだ。まだ日は高い故畑仕事くらいはしていると思っていたが、人を探せば探す程寂しさがより際立つようだった。


「あぁ…。もとより何もない村ではあるんだがな…。うちの村の人気者が、姿を消しちまってな…。みんな探しに行ってるんだよ…。」

「人気者…?それって、『歌姫』のことですか?」

「おぉ!その通りだ!あんたらも彼女の歌を聞きに来た口かい?」

「えっと…まあ、そんなところです。」


『歌姫』の名を出したことで、宿の主人が途端に明るくなる。『歌姫』に興味を持たれたのが嬉しいのか、主人は嬉々として語り始める。


「この村は子供の少ないんだ。成長したらみんな都会に出ちまうんでね。だからこそこの村に残ってくれたあの子はみんな可愛がってるんだよ。しかもあの子はこの辺では右に出るものはいないほど歌が上手くてねぇ。毎朝村に響く歌を聴いて、村人達は元気付けられたものだ。」


 上機嫌で主人は語り続ける。この様子からして、彼も『歌姫』を可愛がっていた一人なのだろう。だが話す内に主人の様子が変わり始めた。急激に声のトーンが落ち、目に見えて暗くなりだす。


「だがある日、彼女が村の近くの森へ一人で入っちまったんだよ。「落とし物をした」って言ってな。だけど日をまたいでも戻らなくて、村人総出で探しに行ってるんだよ。」

「むぐっ…!村人みんなで!?すごい人気ね…。」

「そりゃあ、あの子はこの村の誇りだからな!みんなほっとけないのさ!」


 驚くルゼに主人は誇らしげに胸を張る。だが話の本題を思い出したのか、すぐに張った胸を戻し、重苦しそうに口を開く。


「そこまでは良かったんだが…他の奴らも探しに行ったきり、戻ってこなくてな。2~3日前のことなんだが、あいつらも一体なにしてるんだか…。だから、俺も用意ができたら探しに出ようと思っててね。」

「…。」


 主人の回答に、イノセは嫌な予感を感じた。

 小さな村とは言っても、総出で探しに出るくらいなのだから、それなりの人数はいるはず。それなのに未だ『歌姫』は見つからず、更には誰も戻ってきていない。村人達はどうなったのか。

 イノセは、意を決して尋ねた。


「…この出来事は、あなたの『運命の書』に記されているんですか?」


 問いかけたイノセに、主人は頭を捻りながら答えた。


「…書かれてないな。多分だけど、他の村人達の『運命の書』にも、書かれてないんじゃないか?」


 ******


 翌日、まだ夜が明けて間もない頃。宿の主人に見送られながら、二人は宿を後にした。欠伸と背伸びを同時に行いながら、ルゼが尋ねる。


「んで、これからどうするの?」

「まずは例の森に向かって『歌姫』を探してみよう。無事であればいいんだけど…。」

「むぅ…。」


 イノセが『歌姫』の名を口にした途端に、ルゼの機嫌が悪くなる。どこの馬の骨とも知れない女を大切な弟が心配する様は、彼女にとっては面白くないようだ。


(でも、想区を救うために必要なことだもんね…。ここで反対しても、喧嘩になるだけ。我慢我慢…。)


 ルゼはそう自分に言い聞かせ、それ以上は文句を言わずに押し黙った。


 宿屋の主人の話から、『歌姫』が森にいる可能性は高い。想区の主要人物かもしれない『歌姫』に会えれば、カオステラーの手がかりが掴めるかもしれない。

 それに、『歌姫』を探しに森に入った村人達の安否も気になる。どれ程の規模かは分からないが、探しに行った全員が誰一人として戻らないのはどう考えてもおかしい。


 考えられるのはヴィランにやられたか、変えられたか。


 いずれにしても、森に入らなければ何も分からない。イノセは村の外へ向けて歩を進め、ルゼも彼に続いて歩きだした。


 ******


「薄暗いな…。」


 森の中に侵入した二人を待ち構えていたのは、鬱蒼と生い茂った無数の草木。密集した木々はどれも背丈が高く、枝葉を所狭しと伸ばしていた。あまりにも集まりすぎて、まだ日中にも関わらず日の光が全く入ってこないほどである。

 二人はそんな暗闇の中を、茂る草木を払いながら進んでいた。


「もう!薄暗くて見えづらいし、草が邪魔だし、歩きづらいったらありゃしないわ!」

「森なんだから当たり前…と言いたいところだけど、これは想像以上だね…。村の人達の出入りもあるだろうし、道の整備くらいはしてるかなと思ったんだけど…。」


 森はイノセが思ってたよりも人の手が入っておらず、まともな道が見つからない。獣道を見つけるのも一苦労するほどだ。イノセは勿論、意気揚々としていたルゼも、愚痴を溢しながら茂みをかき分けて進む。

 自然そのままの道無き道に行く手を阻まれて、探索が思うように進まない。二人は歯痒い思いをさせられることになった。

 だが、ルゼはどうにも耐えられないようだった。


「あーもう!!その辺の木がみんな邪魔ったらありゃしないわ!!いっその事全部へし折っていけないかしら!!」

「姉様、気持ちはわかるけど今は黙って歩いて。騒ぐと余計に疲れるよ。」

「うー…。」


 ルゼの愚痴が森中に響きわたるが、イノセは彼女をたしなめてその声を鎮める。ルゼはぶつぶつと文句を言いながらも、比較的静かに進んでいた。


 …しばらくの間は。


「…ねえ、イノセ。」


 ルゼはいつになく覇気のない声でイノセを呼びながらゆっくりと彼に向き直る。ただならぬ雰囲気でおもむろに話しかける姉の姿に、イノセは嫌な予感を覚えた。


「ヒーローの力で…この木、全部吹っ飛ばせないかしら…。」


 嫌な予感が、的中した。


「いや、何言ってるの姉様!?そんな勝手な理由でヒーローの力なんて使えないし、それ以前にやること事態が環境破壊甚だしいよ!?」


 ルゼのぶっ飛んだ提案に、イノセも思わず声を荒げる。さすがに冗談かと思いたかったが、ルゼの据わった目を見るに、冗談ではないことが窺えた。

 対するルゼも半ばやけくそ気味に反論する。


「だってさっきから碌に歩くことすらできないじゃないの!!いくらあたしでもこんなめちゃくちゃに生えまくった木をへし折るなんてできないし、ヒーローの力ならその辺の木をまとめて吹っ飛ばすくらい───」


 互いの口論に熱が入り、森の中はだんだんと騒がしさを増していく。


「!」


 突然ルゼが口を閉じ、仕切りに周囲を見渡し始める。姉の急な様子の変化に、イノセは呆気に取られてしまう。


「…足音がする。」

「…え?」

「多分、人間の。それも、一人じゃない。」


 イノセには聞き取れなかったが、冗談を言っているような雰囲気ではない。断言するルゼを信じて、耳を澄ましながら周りの様子を窺う。


 ガサガサッ───


 茂みをかき分ける音が聞こえてきた。人かどうかは分からないが、近くに何かがいるのは間違いなさそうだ。

 その音はどんどん大きくなっていく。音の主は、確実にこちらに近づいている。


 間もなく、茂みから何かが飛び出してきた。


「はぁっ…!はぁっ…!」


 茂みから飛び出してきたのは、二人と同じくらいの若さの女性だった。

 サラサラとなびく栗色の長髪、真っ白なワンピースの上から色ポンチョを羽織っている。

 だがその衣服は土埃や細かい枝葉があちこちにまとわりつき、鋭い刃物で切られたような裂け目ができている。裂け目から除く肌や顔にも切り傷ができており、息も絶え絶えで体はふらふら。今にも倒れてしまいそうだった。


「はあっ、はあっ…うっ!」

「危ないっ!」


 案の定、女性は足を躓かせてしまった。そのまま倒れそうになったところを、ルゼが寸でのところで抱き止める。


「ちょっとあなた!大丈夫!?」

「え…?な…?」


 心配そうに声をかけるイノセを、女性は目を白黒させながら見上げる。いきなり抱えられたことで驚いたのか、それとも余程追い詰められたのか、女性は咄嗟に話すことが出来ずにいた。

 イノセも一緒になって女性の容態を診ようと、彼女のそばで屈む。


 また同じ方向から茂みを掻き分ける音が聞こえたのは、その直後。


「───姉様!危ない!!」


 いきなりイノセが叫ぶと同時に、女性が飛び出した草むらから強烈な殺気が迸った。

 イノセが叫ぶとルゼは、女性を庇うように抱きかかえたまま地面を思い切り蹴り、倒れこむ。


 彼女がその場から離れたのとほぼ同じタイミングで、『何か』が地面を穿った。


 土煙をあげながら穿たれた地面を見てみると、まるで弾丸に撃ち抜かれたかのように小さくて丸い穴ができており、周りには余計な亀裂は一切ない。

 イノセとルゼは、二人同時に殺気を感じた草むらへと目を向ける。そこには先ほどと変わらない、鋭い殺気が感じられた。


「いきなりなんなのよ!!隠れてないで出てきなさい!!」


 ルゼがしびれを切らし、草むらに向けて怒鳴り付ける。

 すると草むらがガサガサと揺れ、奥から殺気の主と思われる者が現れた。


 金色の長髪を首の辺りで纏めている、細身で端整な顔立ちの男だ。手に細身のレイピアを握り、腰にも同じものをもう一本携えている。金色の肩飾りや胸の勲章などを拵えた青い礼装軍服を着ており、高貴な身分であろうことが窺える。

 だがせっかくの髪や服装はボロボロに乱れており、ギラギラと怪しく光る目は彼が冷静でないことを主張するようだった。


 その男は女性を庇うように抱き締めるルゼに、手に構えたレイピアを向ける。


「その女をよこせ。」


 男が命令するように、ルゼに向かってそれだけ告げた。

 ふとルゼの腕の中の女性を見てみると、女性の体が震えているのが分かる。男に怯えているのだろう。

 ルゼは怯える女性をそっと放し、その男を鋭い目で睨み返す。


「この子、傷だらけなんだけど。あんたがやったの?」


 ルゼが目の前の男に問いかける。

 明らかに男に怯える女性、彼女の体の切り傷、さらに武器を構えた目の前の男。状況からして、この男が女性を傷つけたとみて間違いないだろう。


「…貴様にいう筋合いはない!さっさとその女をよこせ!!」


 しびれを切らして激高した男が、ルゼに向かって切りかかる。


「姉様!!」


 森に響き渡るほどの叫び声をあげながら、イノセは『導きの栞』を取り出す。

 しかし男の身のこなしと剣筋が恐ろしく早い。コネクトしてから駆け出すのは、とてもじゃないが間に合いそうにもなかった。


 パシッ!!


「なっ…!?」


 だがルゼは、男の刃を両手で受け止めて見せた。

 まさか女に受け止められるとは思わなかったのだろう。剣を振りかざした男が、信じられないといった様子で目を見開く。

 男は力を込めてルゼを振り払おうとするも、彼女も頑として剣を放そうとしない。

 目の前の男が何者なのか、なぜこんなことをしているのか、なぜこの女性を求めるのか。たった今出会ったばかりのルゼには全く事情が分からない。

 だがそれでも、一つだけ言えることがある。


「女に武器を向けて痛めつけるような人でなしの言うことなんて、聞くわけないでしょうが!!!」


 ルゼが啖呵を切り、男の横腹に向けて回し蹴りを食らわせた。


「がっ!?」


 男はなすすべもなく蹴り飛ばされ、木の幹に背中から激突。力なく倒れこんでしまう。

 しかしそれも束の間のこと。すぐに起き上がり、腰に携えたもう一振りのレイピアを抜く。


「おのれっ!」


 レイピアを構え、再びルゼに切りかかる。

 しかしその男に目掛けて、横から目映い何かが飛んできた。


「ぐあぁぁっ!?」


 男を襲ったのは人の背丈ほどの巨大な炎の玉。その炎は男を瞬く間に包み、その体を焼いていく。男が熱さにもがき苦しむも、すぐさま炎を振り払って背後の木に背中を預ける。

 炎が飛んできた方向に目を向けると、さっきまでいなかったはずの人物が男の目に映った。


 白と黒の装束の上から赤い外套を羽織り、戦士としては似つかわしくない優し気な顔の少年。その手には少年の背丈ほどの金色の杖が握られている。その杖の先端は、仄かに燃える炎を宿している。時空の魔女と呼ばれた大魔導士の血を引く、見習い魔導士。


「これ以上は、させません!!」


 両手杖を男に向けて、魔導士───アラン・ゲルヒチ───は告げた。その杖に灯る火を見る限り、男を襲った炎は彼の放ったものだろう。


「くっ…!邪魔を…!!」


 男は突如現れた魔導士を睨み返し、今一度剣を構える。

 だが相手は二人がかり。加えてルゼの蹴りと魔導士の炎をまともにくらったことで、体が悲鳴をあげている。これ以上戦っても勝ち目は薄いことは、男も理解していたようだ。

 苦々しい表情を浮かべながら、男は二人に背を向ける。


「…イヤリングは、必ず渡してもらう…!」


 それだけ言って、男は走り去っていった。


「ふん!一昨日来なさいっての!!」


 ルゼが逃げる男の背中に向かって勝鬨を上げる。男は歯を食い縛りながらも森の茂みの中に紛れ、姿を消した。


 男の姿が見えなくなったのを確認すると、二人はボロボロの女性に寄り添った。


「大丈夫ですか?」

「あ…あなた達は…?」

「私はルゼ。彼はイノセ。二人で旅をしているの。あなたは?」


 ルゼが簡潔に自己紹介を済ませ、相手の名前を求める。ルゼの勢いに気圧されたのか、女性は固まったまま口をパクパクさせるばかりだった。


「ちょっと。こっちは名前を聞いてるんだけど?」

「え…あ…。」


 何も言い出さない女性に、ルゼは若干苛立ちを見せながら自己紹介を催促をする。

 だが女性に詰め寄るルゼを、苦い顔で見つめる人物が隣にいた。


「…姉様、言い方ってものがあるでしょ。あんな怖い人に追いかけられて、挙げ句こんなに傷もつけられてるんだよ?精神的にも参ってるだろうし、もう少し優しくしてあげて。」

「…でも、名乗るくらいできるでしょ?せっかく助けてあげたんだし、そのくらいしてくれたって…。」

「それでも、無理やり聞きだしていいわけじゃないでしょ。見返りなんて僕は求めてないからね。」

「むー…。」


 険しい顔のイノセに窘められてしまう。ルゼはバツの悪そうな顔を浮かべる。

 目の前の女性そっちのけで言い合いを続ける二人。喧嘩をする目の前の二人を見てバツの悪そうな顔をした女性だが、恐る恐る口を開ける。


「イリス…です。」


 まだ戸惑いを見せつつもそう名乗った女性の顔は、先ほどより多少柔らかくなっていた。二人の気安いやり取りを見て、緊張がほぐれたのだろう。

 彼女の声に反応した二人、特にルゼはようやく名乗ってくれたことで満足そうな笑顔になる。


「イリスね。よろしく。でも一体どうして追われていたの?」

「わかりません…。いきなり現れたと思ったら、いきなり剣を向けて追いかけてきて…。」

「さっきの男、イヤリングがどうって言ってましたけど…。」


 ルゼに続いてイノセも心配そうに尋ねる。

 先ほどの恐ろしいほどの剣幕の男、どうやら彼女の持ち物に用があるようだった。ただの野党かとも思ったが、それにしてはかなり高級そうな服装だった。ちゃんと身なりを直せば、どこかの王族と名乗っても違和感が無い。事情はよく分からないが、只事ではないのは感じ取れた。


「…多分、私が大切にしていたイヤリングのことだと思います。ですが、なんでイヤリングを欲しがっているのかは…。」

「そうだったんですか…ん?」


 どうやら襲われた彼女自身も、心当たりはなさそうだ。イリスは困ったように眉尻を下げる。

 しかしイノセは、その視線の先の光景に少しばかり違和感を感じた。

 彼女の耳には、イヤリングどころか装飾品の一つも見当たらなかったのだ。


「そのイヤリングって、今は手元にないんですか?」


 イノセが疑問を投げかける。

 するとイリスは、ますます表情を暗くしてつぶやいた。


「数日前にこの森でなくしてしまって…。私も探している最中なんです…。あれは私の家に代々伝わるもので、とても大切なものだったんですが…。」


 自分の状況を口にしたことで、ますます気分が沈んだのだろうか。イリスはその場で、頭を抱えながらしゃがみ込んでしまった。


「ああ、もう…。本当になんでこんなことに…。私の『運命の書』には、こんなこと記されていなかったのに…。ぐすっ…。」


 よほど大切なものだったのだろう。俯くだけでは飽き足らず、しまいには泣き出してしまった。


「ちょ…ちょっと!そんなに落ち込まないでってば!」

「そ…そうだ!あなたの『運命の書』には、どんな運命が記されていたんですか!?」


 涙を流すイリスの姿を見ていられなかったのか、ルゼがなんとか元気づけようと声をかける。イノセも姉につられる形で、イリスを慰めるように慌てながら話題を振る。

 しばらく声をかけ続けたのが功を奏したのか、ようやくイリスは伏せていた顔を上げて二人の顔を見る。以前として暗い表情のままではあったが、姉弟が必死に慰めたことで幾分か落ち着いたのか、頬を伝う涙は治まっていた。


「…私なんかの『運命』なんて、そんなに大層なものではありません…。」

「…もしかしたら、探すためのヒントになるかもしれません。話したくないのであれば、無理にとは言いませんが…。」


 気休めかもしれないが、何もしないよりはマシだろう。イノセは言い聞かせるようにイリスを諭す。


「…わかりました…。」


 イリスはようやく立ち直ったのか、それだけつぶやいて立ち上がる。

 そして自身に定められた『運命』の内容を、ゆっくりと語り始めた。

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