空白がもたらす結末

「な…なんなのあなたは!今すぐイノセから離れて!!」


 イノセを抱き締めるルゼを見かねて、ロードピスが二人の間に割って入ろうとする。だがルゼの力が想像以上に強く、ロードピスの力ではびくともしない。

 それでも必死に二人を引き剥がそうとすると、ようやく彼女に気づいたのか、眉間にシワを寄せたルゼがロードピスの方へ向く。


「…なんなのよ、あんたは。」

「それはこっちのセリフよ!何の前触れもなく、いきなり彼に抱きついて!イノセも困ってるじゃないの!!名前くらい名乗ったらどうなの!!」


 不機嫌そうなルゼに対して怒り心頭なロードピス。見ず知らずの女が思い人に抱きつく光景など、とてもじゃないが許せるはずがない。

 それでもルゼはイノセへの抱擁を続けながら、ロードピスに怒った顔を向ける。


「あたしはルゼ!イノセの姉!!そういうあんたこそ誰なのよ!!」

「え…!?お…お姉さん!?」


 ルゼが姉と名乗った瞬間、ロードピスは怒りを忘れて驚きを露にした。

 そういえばイノセも確かに「姉様」と呼んでいたな…と、頭の中でうっすらと思いながら、ロードピスも要求に応えて名乗る。


「わ…私はロードピス!彼にはお世話になって…ってそんなことより、早く彼から離れて!!」

「なんでよ!あんたに言われる筋合いは───」


 見ず知らずの誰かに再会を邪魔されて不機嫌なルゼ。すぐに言い返そうとしたが、相手の女性の名前に引っ掛かりを感じた。


(ん?ロードピス…?どこかで聞いたような…?)


「あの…姉様…。そろそろ離してくれないと、背中が…。」


 弟を強く抱き締めたまま考え込むルゼだが、とうとうイノセの我慢が限界まで達した。あまりの痛みに声も絶え絶えになりながら、力を振り絞ってSOSを訴える。


「背中?背中がどうしたって───」


 イノセの言葉に気づいたルゼが、ようやく腕の力を緩める。

 腕を離した瞬間に、イノセは膝から崩れ落ちた。そのまま頭から倒れそうになるところを、イノセは地に手をついて何とか堪える。

 玉の汗をかき、肩で息をしながら体を支えるイノセ。

 その背中を見たルゼは、頭が真っ白になった。


「…なにこれ。」


 何重にも包帯が巻かれ、それでもなお赤い血がにじみ出ていたイノセの背中。

 メチャクチャになった弟の姿に、思わず呆然としてしまう。


 その背後から、ルゼの知らない男の声が彼女へ投げかけられる。


「お…おいお前!私の許可なくそいつに触れるな!そいつは私の奴隷だ!私の物に勝手なことするな!」


 ロードピスにとってはもはや聞きあきた声。旦那様のものだった。彼は突然のハプニングに混乱しながらも、ルゼに向かって懸命に怒鳴る。


 ルゼにとって聞き捨てならない言葉を、懸命に。


「イノセが、あんたの『奴隷』…?」

「そうだ!何者かは知らんが、私の屋敷で勝手はさせんぞ!そいつにはこれから私に逆らった罰を与えなければならんのだ!今すぐに───」


 その言葉が、彼の運命を決めることになった。


「ごばっっっ!!?」


 ルゼの拳が目にも止まらぬ早さで旦那様の顔面を捉え、彼を蹴り飛ばした。

 蹴り飛ばされた旦那様はそのまま屋敷の壁に激突。ルゼの足がめり込んだことで、その顔はぐしゃぐしゃに潰れてしまっていた。


「あ…が…?」


 顔が変形し、前歯も折れてしまっているが、辛うじて意識は保っていた。

 ルゼはすでに満身創痍の旦那様に歩みより、彼の腹に自身の足をめり込ませる。


「うぐっ!?」

「うちの弟を、よくもこんな姿にしてくれたわね。一体どう落とし前つけてくれるの。」


 ルゼは旦那様を見下ろしてただ淡々と告げる。物静かな声で、その顔も感情がなくなったかのような無表情になっていた。

 だが表情とは裏腹に、旦那様を踏みつける足にどんどん体重を掛けて、容赦なく彼の体を圧迫していく。脂の乗った腹がどんどん沈み、旦那様の呼吸が弱々しくなる。


「や…やめ…。私を…誰だと───」

「あんたが誰かなんて知ったことじゃないわよデブ。誰であろうとも、家族を傷つけるようなやつは、あたしが絶対許さない。」

「小…娘…が…!身を…わきまえ───」

「あ?」


 グリグリグリッ!


「がっ…っぎゃ…!」


 謝罪もなく、尚も威張り散らす旦那様に、ルゼの怒りは最高潮に達した。旦那様を踏みつける足に全体重をかけ、踏み潰す。


「お…お前達…!早く…助けんか…!」


 腹を踏み潰された状態の旦那様が、力を振り絞って奴隷達に助けを求める。見かねた奴隷長がルゼに向かって甲高い声で叱りつける。


「ちょっとあんた!突然あたしらの話に割り込んだかと思えば!あたしらのご主人に無礼にも程があるわよ!さっさとその汚い足をどかしなさい!!」

「…。」


 自分に向けて放たれた甲高い声に反応して、声の聞こえる方に視線を向けるルゼ。

 ルゼと目が合ったところで、奴隷長はいつもの調子で威張りながら怒鳴る。


「その坊やの姉だかなんだか知らないけど、よそ者があたしらの問題に首突っ込むんじゃないよ!!これからあたしらがそいつに罰を与えるんだからね!!」

「…罰?…なんでよ。」

「はんっ!!そいつがあの化け物を呼び寄せたからに決まってるじゃないか!!そいつがあたしらの、世界の『運命』をおかしくしちまったから、あんな連中が現れた!!だから、その坊やを殺せば全てが丸く収まるんだよ!!」


 奴隷長はルゼをバカにしてるかのように尚も怒鳴り続ける。怒鳴れば怒鳴るほどに奴隷長の頭に血が上り、ますます手がつけられなくなっていく。


「…は?」


 その奴隷長の言葉が、ルゼの怒りに火をつけることなど

 、知るよしもなく。


「ほら!さっさとその坊やをこっちに渡しな!!そいつを縛り上げて、海へ突き落としてやるんだ!!あたしのことを小馬鹿にしやがったらどうなるか思い知らせてやるんだ!!」


 それでもなお奴隷長は喚くのを止めることはない。自分が優位に立っていると信じ、欠片も疑っていないようだ。


「なにしてんだい!このグズ!!こっちに渡せって何度言わせ───」

「うっさい。」


 奴隷長の言葉を待たずにルゼは彼女へ迫り、その胸ぐらを掴んで体を持ち上げてみせる。


「ひ…ひぃっ!?」


 あまりにも予想外な出来事に、奴隷長はすっとんきょうな悲鳴をあげる。

 ルゼは奴隷長を持ち上げたまま、彼女を睨み付ける。


「あんたがどこの誰かなんてどうでもいいわよ。そんなこと知ったことじゃないし、興味もない。」

「な…な…!?」


 相手が誰だろうと自分が怒鳴りつけてやれば、縮こまって黙り込むと思っていた。いつもそうやって周りを従えてきたのだから。

 だが目の前の女は萎縮するどころか、自分に明確に敵意を向けて掴みかかってきた。それだけの事実が受け止められず、奴隷長はただ困惑するしかなかった。


「それより、イノセを殺す…ですって?」


 奴隷長の口からこぼれた言葉を聞き逃さなかったルゼが、その腕にますます力を込める。ルゼに胸ぐらを掴まれたことで襟周りの布が首に食い込み、息苦しさを訴える。


「ま…待って…誰か…。」


 締まる首から声を絞り出して助けを乞う奴隷長。それでもなおルゼは力を緩めようとしない。


「大切な家族を、誰があんたみたいな女に殺させるもんか。あんたもそこのデブみたいに───」


 クルルルルァァ!!


「うわ!!また出た!!」


 またしても紫色の霧が吹き出し、何体ものヴィランが産声をあげ、次第に暴れだす。それを見た他の奴隷達が騒ぎだし、再び屋敷は阿鼻叫喚の地獄絵図となった。


「姉様…!そんなことしてる場合じゃない…!!」


 イノセは焦った様子でルゼに静止を呼び掛ける。

 振り返ったルゼの目の前には、ロードピスの肩を借り、ふらつきながら立ち上がるイノセの姿。


「…!イノセ!無理しないで!!」

「あだっ!!」


 ルゼはすぐに奴隷長から手を離し、足元がおぼつかない彼に寄り添う。急に手を離されたことで奴隷長が床に落ちて悲鳴をあげるが、ルゼは全く気にも留めない。


「ちょっと待ってね!今、治療できるヒーローにコネクトするから!ええっと、誰がいいのかしら…?」


 ルゼは『導きの栞』を取り出し、自らの『空白の書』に挟もうとする。

 だがイノセは、コネクトしようとするルゼの手を遮った。


「今は、僕のことはいい…。それより、あの人たちを…。」


 イノセは、ヴィラン達に混乱している屋敷の住人達を指差した。皆は錯乱しながら生存本能のままに駆け出すが、周りの人間にぶつかったり、ヴィランに阻まれたりして、思うように動けないようだ。


「や…やめろ…ぎゃぁぁぁ!!」

「おい!しっかりし…ぐぎゃっ!?」

「いやぁ!!私こんなところで死にたくない!!誰かぁ!!」


 すでに何名かはヴィランによって怪我をしているようだ。このままでは、犠牲者が出るのも時間の問題だろう。


「とにかくまずは、皆を安全な場所へ…!僕のことは、その後でもいいから!」

「で…でも!そんな大怪我してるのに…!!」


 あくまでも弟の容態が心配なのだろう。なおもイノセの治療を後回しにすることを渋るルゼ。


「どちらにせよ、今は治療なんかできる状況じゃない…!まずは、とにかくみんなで逃げないと!」


 しかし、他ならぬイノセが彼女の心配を抑える。家族の身を案ずるのはいいが、それどころではないとルゼを諭す。

 今、この屋敷の中に安全な場所など存在するとは思えない。ここにいては、皆がヴィランにやられるのも時間の問題だろう。とにかく、早く外へ逃げ出さなければ。


「…分かったわ。お姉ちゃんに任せて!」


 まだ迷いは拭えてないようだが、弟の頼みということもあり、ちゃんと聞き入れてもらえたようだ。

 ルゼはすぐさま奴隷達の方へ向き直り、彼らに駆け寄ろうとする。


「ま…待て…!」

「え?…きゃあっ!」


 だが、それを快く思わない者がいた。

 その者はイノセに肩を貸したロードピスを引き剥がし、イノセの背後に周りこむと、彼の首に腕を回して乱暴に抱え込む。

 そして周りの逃げ惑う奴隷達に向かって、腹から大声をあげて怒鳴り付ける。


「お前達!!いつ私が逃げてもいいなんて言った!?私の許可も無しに屋敷を出るなど、絶対に許さんぞ!!」


 イノセを押さえつけた、旦那様の声を聞いた瞬間、奴隷達が体を震わせて旦那様の方へ振り返る。

 奴隷達を助けようとしたルゼも、拘束されたイノセを見るや否や、旦那様に怒りの形相で駆け出そうとする。


「…あんたぁ!!」

「貴様もだ!小娘!大人しく私の言うことを聞け!この奴隷の命が惜しければなぁ!!」


 だが旦那様はイノセの首を腕で締め上げながらルゼを脅す。弟を人質に取られてしまっては、ルゼも手を出すことが出来ない。握りしめた拳を振るうこともできず、その場で立ち止まるしかなかった。


「こんなときに何を考えてるんだ!!あなたは今どんな状況か分かっているのか!!」

「うるさい!!奴隷風情が私に指図するなぁ!!」


 旦那様の寄行に、さすがのイノセも我慢の限界に達して彼を咎めるが、旦那様は聞き入れない。それどころか、未だにただを捏ねるようにわめき散らし、彼の言葉を遮る。


 クルルァァァ!!


「え…うわぁぁぁ!!」

「や、やめろ!!やめて…ぎゃぁぁ!!」


 奴隷達が旦那様の声に怯えている隙に、ヴィラン達が奴隷達にその太い爪を次々に振り下ろす。その凶刃にかかり、奴隷達はますます傷ついていく。


「…見ろ!あなたが呼び止めたせいで、彼らがヴィランに襲われている!!何を考えているか知らないけど、早く屋敷を出ないと───」

「うるさいと言っているだろうが!!私はお前達を…奴隷達を絶望の『運命』から救ってやったのだ!!恩人である私に従うのは当然であろうが!!」


 ただを捏ねる子供のように、イノセにわめく旦那様。その時に彼が吐き捨てた言い分に、イノセは聞き覚えがあった。

 ロードピスとの庭掃除をしていたあの夜、二人を高みから見物していた旦那様。その時に旦那様が高らかに自慢していた、彼の所業だ。


「まだそんなことを言っているのか!その独りよがりな行動が、どんな結末を招くのか分からないのか!!」

「お前のような頭の足りない奴隷には分かるまい!私の勇気ある行動の素晴らしさが!」


 そう吐き捨てると、旦那様はイノセに自身の身の上を話す。


「私は、裕福で優しい『旦那様』の役を与えられた。だが、それだけだ。ただ自分の領地である島で過ごす以外に、役割などなかった。私は、そのような小さなで終わる男ではない!」


 忌々しそうに自身の身の上を語り始める旦那様。その間にもヴィランは暴れ続けていると言うのに、まるで分かってないかのように昔語りを続ける。


「ある日私は、奴隷市場で死んだ目をしている奴隷を見つけた。本来なら其奴に関することなど、私の『運命の書』にはなかった。恐らくはそのまま放置していれば、どこかの富豪の家で使い潰され、惨めに死んでいく運命だっただろう。」


 旦那様は、その場にいた奴隷達の中にいた、一人の少女に目を付けた。今の話の流れからして、その人物こそが、その『死んだ目をしている奴隷』なのだろう。

 旦那様から険しい目で睨まれ、ビクっと体を振るえさせたその女の子を、イノセは知っている。


 客人のもてなしが間に合わず、罰を受けるはめになった、あの少女だ。

 あの女の子も、本来ならここへ来るはずではなかった一人だったのか。


「その絶望に染まりきった目を見た瞬間、私は気づいたのだ!こやつのような不憫な奴隷に手を差しのべ、憐れな末路から救うことこそ、私のなすべきことだと!早速私は其奴を買い取り、屋敷へと招き入れ、役目を与えてやった。その後も同じような目をした奴隷を集め、救ってやった!貴族の中でも、私ほど裕福な人間はファラオを除けば他にいない。奴隷の数を余分に増やすなど、造作もないことだった!」


 語っていく内に気分が昂ったのか、旦那様は悦に入るように高らかに宣言する。


「私はこやつらをストーリーテラーから救い、自分の運命を切り開いたのだ!憐れな奴隷共を私のもとで囲い、理不尽な運命から守ってやっているのだ!この救済こそがわたしの───」




「だからそれが独りよがりだと言っているんだ!!!」




「ひぇっ!?」


 旦那様の勝手な言い分に、イノセはとうとう我慢の限界を迎えた。大人しいイノセが、主人である自分を怒鳴り付けるとは夢にも思わなかったのか、旦那様は驚いて声が裏返る。


「あなたは彼らの望みを聞いてあげたのか?どんな『運命』を辿るか理解しようとしたのか?ただの思い込みで勝手に憐れんで、勝手に連れ出しただけだろう!その場の思いつきで彼らの『運命』を台無しにしておきながら、『彼らを救う』なんて笑わせるな!!」


 他人の運命に不用意に干渉することがどれ程危ないことなのか、この男はまるで分かっていない。イノセは、旦那様の身勝手な行動に怒りをあらわにする。

 激昂したイノセに驚き、しばらく呆けていた旦那様。だが突然、我に返ったように顔を真っ赤にして立腹する。


「き…貴様ぁ!!私の救済に異議を唱えるというのか!この身の程知らずがぁ!!」


 旦那様は怒りにワナワナと体を震えさせ、拳を振り上げる。恐らくは、そのままイノセに振り下ろそうとしているのだろう。

 拳は予想通りそのまま振り下ろされ、イノセは襲いかかる痛みに備え、歯を食い縛り、目をぎゅっと瞑る。


 クルルルァァ!!


「ひぃっ!?」


 だが振り下ろされる寸前のところで、ヴィランの一体が旦那様を襲ってきた。ヴィランの振り下ろされる太い腕に驚いた旦那様は、思わずイノセを手放し、ヴィランから逃げおおせる。


 クルルアァァ!!


「やめろぉ!私を誰だと思ってるんだぁ!!」


 ボロボロの体を必死に動かしてヴィランから逃げおおせる旦那様。

 その一瞬の隙をついてイノセは旦那様から離れることが出来た。


「イノセ!!大丈夫───」

「姉様!そんなことより、僕に栞を…!!」


 ルゼが安堵してイノセに駆け寄るが、イノセは彼女を遮り、彼女が預かっている栞を要求する。


「え!?まさかあなたも戦うつもり!?駄目よ!そんなに無理したら傷が開いちゃうわ!!」

「痛がってる場合じゃない!早くしないとこの人たちがどんどんヴィランに…つっ…!!」


 ルゼの心配をよそに、イノセは栞を催促する。だが背中の傷の痛みが響き、思わずその場で膝をついてしまう。


「言わんこっちゃないわ!そんな傷で戦うなんて無茶よ!!」

「でも…このままじゃ、みんなが…!」


 イノセの視線の先には、逃げ惑う奴隷達と、次々に数を増やすヴィランの群れ。

 ヴィランの数はますます増え、旦那様の怒鳴り声に驚き、隙をさらした奴隷達が次々とヴィランに襲われていく。

 このままでは死人が出るのも時間の問題だろう。


 だが、イノセは背中の傷が痛み、とても戦える状態ではない。かといってルゼだけでは、ヴィランの群れを相手取るには手が足りない。一体どうすればいいのだろうか。




 シャン…。シャン…。




「…ん?」

「え?何?」


 鈴の音色だろうか。突如屋敷に響いた高い音色に、姉弟は思わず耳を澄ます。

 二人だけではない。その場にいた誰もがその音色に耳を傾けた。


 シャン…シャン…シャンシャン…!


 屋敷中に反響するその音を辿ると、とある場所に視線が集まる。

 阿鼻叫喚となった屋敷の中心。そこに位置する、屋敷の住人の一人。そしてこの想区において、知らぬものはいないであろう人物。


「ロードピス…?」


 イノセが、舞台の中心にいた者の名を口にした。


 踊り子の服装に身を包み、鈴付きの腕輪を身につけたロードピス。その彼女が舞台の真ん中で踊っていた。


 腕を振り回し、掲げて、ステップを踏み、腰をくねらせ、体をターンさせ、一心不乱に踊り狂う。

 更に体を揺らす度に腕の鈴からキレイな音が鳴り響く。


「あの踊り子…。ロードピスなのか…?」

「話には聞いてたけど、なんて美しいの…。」

「すげぇ…。でも、なんでこんなときに…?」


 その激しくも美しい舞に、周囲の人間達は思わず見とれてしまう。

 イノセも、ルゼも、奴隷達も。


「お…おい!ロードピス!!すぐ舞を止めろ!!このような下賎な者共に、お前の踊りを見せるなど勿体ない!!私の許可なく踊るなと、あれほど言ったではないか!!」


 ただ一人、旦那様だけはロードピスの踊りに異議を唱えるが、彼女はそれでも止まらない。ただひたすらに、狂ったように踊り続ける。

 次第に彼女の体からは玉のような汗が滲み出し、踊りに合わせて飛び散るが、その一粒一粒すらも彼女の美しさを際立たせた。


 しばらく見惚れていたイノセだが、不意に周囲の状況に気付く。


 クルルルル…。


「これは…!」


 周囲のヴィラン達がロードピスの舞に目を奪われ、動きを停止させていたのだ。さっきまで手当たり次第に暴れていたのが嘘のように、ロードピスに魅了されたように釘付けになっている。


「皆さん!今のうちに早く外へ!!」


 すかさずイノセが周囲の人間達に呼び掛け、脱出するように促す。

 その言葉で奴隷達は我に返ったようだ。周りのヴィラン達がまた暴れださない内に、急いでその場から逃げ出す。

 彼女が踊りを始めたのは、おそらくこれが狙いなのだろう。自分の舞でヴィラン達を惹き付け、みんなが逃げる時間を稼ぐために。

 結果、見事にロードピスの思惑通りとなった。

 怯えながら走る者、怪我人を抱える者、皆がそれぞれ己の考え得る最善を尽くして動く。


「お…おい!!私の言ったことをもう忘れたのか!?勝手に屋敷から出るなとあれほど言っただろうが!!」


 それでもなお旦那様は逃げる奴隷達を怒鳴り付けて呼び止める。


「さっさとこの黒い奴らをどうにかしろ!!命を賭して私を助けんか!!誰が身よりのないお前達を助けてやったと思ってるんだ!!」


 ルゼに痛め付けられて、ヴィランに追い回されてボロボロのはずなのに、どこにそんな体力が残っているのか。彼の怒号は未だ衰えを見せずに奴隷達の心を拘束し、その足を鈍らせる。


「…本気でそう思ってるんですか?」

「何?」


 狼狽える旦那様に、ルゼの肩を借りながら立ち上がったイノセは問う。


「さっきも言ったはず。あなたのその言動こそが、独りよがりだと。それで本当に彼らが救われたと思いますか?」

「き…貴様…!まだそんな戯言を!!」


 青筋を立てる旦那様をよそに、イノセは視線を別の人物に移す。


 さっき旦那様から名指しされた、あの女の子に。


「君は元々、どんな『運命』を持っていたんだい?」

「え…。」


 まさか自分が話しかけられるとは思わなかったのだろう。女の子は、イノセの問いに戸惑いを隠せなかった。

 目を白黒させて驚く女の子だか、


「貴様よもや私のことを裏切るつもりではあるまいな?行き場のない貴様を広いあげて面倒を見てやったのは一体誰だと───」

「僕は彼女の『運命』を聞いているだけだ!あなたは黙っていろ!」


 女の子を睨み付け、脅すように咎める旦那様。だがイノセは彼を一喝し、その理不尽な口を遮る。旦那様は今度はイノセを睨み付けるが、彼は一切動じない。

 旦那様がイノセに気を取られてる隙を見計らうかのように、女の子は恐る恐る口を開く。


「…私は…ここではない、貴族のお屋敷で…奴隷として、こき使われて…。毎日、理不尽にお仕置きを受ける『運命』で…。」

「…。」


 女の子が気まずそうに俯きながら語る『運命』の内容は、お世辞にもいいものではなかった。旦那様は勝ち誇ったようにイノセを睨み、口角をあげる。


「ふん!どうだ?これで私のしたことが正しいと───」

「でも…その屋敷で、生き別れた家族と出会えるはずだった!私と同じ…奴隷として売り飛ばされた、たった一人の妹…。あの子と、その屋敷で再会できるはずだった…!」

「…ん?」


 だが女の子は意を決したように顔を上げて、勇気を振り絞って告白する。

 旦那様は、彼女の言ってることが分からなかったのか、間の抜けた声で唸り、女の子を見る。


「どんなに辛いことがあっても、その子さえそばにいれば、乗り越えられるはずだった!笑顔で生きていけるはずだった!なのに、それすらも叶わなくなってしまった!!あなたに無理やり連れてこられたせいで!!あなたが余計なことをしたせいで!!」

「な…な…?」


 告白するうちに気持ちが昂ったのか、どんどん女の子の口調が強くなっていく。そして今までの鬱憤を晴らすかのように、内に燻っていた怒りを旦那様に向けてぶちまける。

 大人しかった少女の荒ぶり様に、一瞬呆けた顔を見せた旦那様。だがすぐに気を取り戻し、顔を真っ赤にして怒りだす。


「…貴様ぁ!あの時の貴様の死んだような目を、この世に絶望したあの顔を見たからこそ貴様を助けてやったのだぞ!なのにその恩を仇で返すというのか!この恩知らずがぁ!!」

「奴隷なんかにされて絶望しない人間なんてそうそういない!!未来に救いがあることが分かっていても、一人ぼっちで地獄のような空間に閉じ込められて、なんとも思わない訳がない!!それを勝手に勘違いして『助けてやった』なんて、傲慢にも程がある!!!」


 主人である男の怒号にも全く怯まずに、逆に彼に向けて怒鳴る少女。怨嗟ともとれるほどの強い非難の言葉に、旦那様は戸惑いながらもますます怒りを露にする。


「…もうよい!これほどまでに無礼なやつとは思わなかったぞ!!貴様なぞ助けるべきではなかった!!お前達!!早く私を───」


 反抗した少女に軽蔑した眼差しを向けながら決別の言葉を勝手に吐き捨てる旦那様。そしてすぐさま他の奴隷達を適当に呼んだ。


 だが、他の奴隷達も様子が何か変だ。


「俺は…本来なら、売られた先の屋敷の主人に取り入って、一旗上げることができたはずだ…。」

「私は、買われた先でひどい扱いを受けるけど、運良く逃げ出して自由になれたはず…。なのにこんな島の真ん中じゃあ、逃げることなんて出来やしない…!」

「ボクは、とある貴族の令嬢と、恋仲になれたはず…。結局ばれて罰される『運命』らしいけど、そんな素敵な恋ができるなら、それでもいいと思っていた…!」

「私の『運命の書』には、優しい貴族の方に仕えると…!こんなところで、あんな奴に振り回されてこき使われるなんて聞いていない!」

「お…おい…お前達?」


 あの少女の吐露に感化されたのか、他の奴隷達も次々と本音を漏らしていく。いずれも不当に運命をねじ曲げられたことへの不満や今の境遇への悲観で、旦那様を擁護する者は皆無であった。


「何が救世主だ…なにが『救ってやった』だ…!」

「私たちが不幸になったのも、こんなことになったのも…全部あんたのせいじゃないの…!」

「俺たちの『運命』を、勝手に変えやがって…!」


 旦那様を見る奴隷達の目に宿すのは、彼に対する恨みや悲壮。口にするのは、理不尽な旦那様の所業への怒り。

 今まで従順だった奴隷達が、次々と自分から離れていく。今の旦那様でも、そのくらいのことは理解できた。


「や…止めろ!!そんな目で私を見るなぁ!!」


 旦那様が苦し紛れに奴隷達へ叫ぶが、もはや奴隷達の耳には届かなかった。

 皆で掴みかかるつもりなのか、奴隷達が怒りを蓄えながら旦那様に迫る。


 ゴゴゴゴゴゴ…!!


 その時、屋敷が激しく振動する。

 突然の異変に驚いた皆が、怒りを沈めて周囲を見渡す。

 すると、周りの壁や天井に亀裂が入り始め、そこから少しずつ崩れ始めたのだ。

 あまりにも急な事態に、屋敷の住人達が狼狽えだす。

 それは、イノセとルゼも同様だった。


「ちょ…ちょっと!!どうなってんのよ!?」

「多分、あちこちでヴィランが暴れたせいだ!!壁や柱を壊しすぎて、屋敷がもたなくなったんだ!!もうすぐ崩れるよ!!」


 慌てふためくルゼに対し、イノセは現状を冷静に分析して彼女に伝えた。


「な…なんだと!?」

「危ない!早く逃げないと!」

「待ってー!置いてかないでー!」


 彼の言葉が聞こえたのか、奴隷達も旦那様に背を向けて屋敷の外を目指す。


「ま…待て!!勝手に出るなと言ったであろうがぁ!!」


 旦那様が必死に叫ぶが、もう奴隷達の耳には届かない。奴隷達は旦那様には目もくれず、一目散に逃げ出した。


 クルルル!?クルル───


 屋敷の崩壊はどんどん進み、上から大きな瓦礫が落ちて、ヴィラン達を下敷きにしていく。もう一刻の猶予もなかった。


「イノセ!早く出るわよ!」

「待って姉様!」


 イノセを肩に抱えて走り出そうとするルゼを留め、屋敷の中心に向かって声をかける。


「ロードピス!早く外へ!!」


 屋敷の中心で華やかに踊っていた、彼女に向けて。


「はぁっ…!はぁっ…!」


 皆が逃げきるまで、一人でヴィラン達を引き付けていたロードピス。今までずっと踊り続けた彼女は疲れ果て、肩で息をしながらその場に座り込んでいた。今の彼女は動くどころか、イノセの言葉が聞きとれているのかすら怪しかった。


「…あぁ、もう!!」

「え?あ!ちょっとイノセ!!」


 イノセは何とか自力で歩き、ロードピスの元へ駆けつける。そして彼女に寄り添って、その手を取る。


「ロードピス。立てますか?」

「…っ。ええ…何とか…。」

「少し引っ張ります!ついてきて下さい!」


 イノセは宣言通り彼女の手を優しく引っ張り、屋敷の出口へと誘導していく。ロードピスも、ふらふらになりながらも何とか彼についていく。


(暖かい…。)


 固く繋がれたイノセの手のひらから伝わる温もりに、思わず顔が綻ぶロードピス。こんなときに不謹慎な感情だと頭では分かっていても、意中の相手と手を繋ぐことへの嬉しさが押さえられなかった。

 それに、彼の温もりを受け取ったことで、さっきまでの疲れが少しだけ吹き飛んだような気がした。


「…全くもう!!」


 笑顔になったロードピスとは裏腹に、弟と睦まじそうに手を繋ぎ合う彼女を面白くなさそうに見つめるルゼ。だが、何にしても今はここから逃げなければ。思い直したルゼはすぐに二人と並行して出口を目指す。


「ま…待て!ロードピス!!私を置いていくのか!?」


 走り出す三人に───正しくはロードピスの背中に───向かって叫ぶ旦那様。腰でも抜けてしまったのだろうか、彼はただその場にへたり込んだまま、すがるようにロードピスの名を呼ぶ。


「あなたも早く逃げて!このままだと生き埋めになるぞ!!」

「う…うるさいうるさいうるさい!!私の一番の宝を奪ったコソ泥風情が!!私に指図するなど百年早いわぁ!!!」


 イノセが逃げるように促すが、旦那様はその場で喚くばかりで動こうとしない。


「なぁロードピスよ!お前のことは奴隷達の中でも特に可愛がった!お前を誰よりも優遇し、誰よりも褒め称えた!美しく、気立てが良いお前だからこそ、私の側に置いたのだ!!」


 旦那様は、ロードピスを繋ぎ止めようと、彼女への賛美を並べる。まるで芝居の主役になったかのように、高らかに叫んでは自分自身に酔いしれる。


「ああロードピスよ!これ程までにお前を手厚く迎える者は私だけだ!かのファラオとて、ここまでお前に構うことはあるまい!!だからこれからも、私の側にいておくれ!私の宝よ!!」


 縋るように、繋ぎ止めるように、なりふり構わずに彼女を引き留める。ロードピスを手放すまいと必死になるその様は、もはやある種の狂気すら感じられた。


 ロードピスは旦那様へと振り返り、ただ一言告げる。




「愛の押し売りなんて、迷惑でしかない。」




 それだけ言って、すぐに姉弟と共に屋敷を出た。

 後に残されたのは、その場にへたり込む旦那様のみ。


 ロードピスから突き放され、全ての感情が消え失せたように無気力な顔を晒す。だがもう誰も、彼の顔を見るものは屋敷にはいない。


 残された旦那様は、ただ一人瓦礫と共に埋もれていった。


 ******


 ヴィランによって跡形もなく崩れた屋敷を見て、ようやく間違った『運命』から逃れられたことを再認識する奴隷達。

 だが、彼らの顔に笑みは無く、ただ呆然と立ち尽くしていた。


「勢いで逃げ出しちまったけれど…。俺たち、これからどうなるんだ…?」

「こんな島の真ん中で、どうやって生きていけば…。」

「…そうだ!旦那様の客人!!あの人の船に乗せてもらえば───」

「ダメだ。『あやつがいなくなったなら、ここにはもう用はない』って、さっき出ていっちまったよ。」

「なによ…!自分だけ助かればそれでいいわけ!?」


 奴隷達は皆、それぞれの不安を吐露している。

 無理やりとは言え、今まで旦那様の計らいで生きてきたのは事実だ。それが突然なくなったとあれば、待っているのは路頭に迷う未来だけ。それだけならまだしも、外界とほぼ完全に隔離されたこの島の真ん中では、別の土地に行くこともままならない。


 奴隷達が打ちひしがれる中、イノセとロードピスは近くの芝生に二人並んで腰を下ろす。


「…彼らの今後のことも、何とかできればいいんだけど…。せめてこの島から出してあげられれば…。」

「あなたがそこまで気負うことはないわ。私たちは私たちでなんとかする。」

「でも…成り行きとは言え、僕たちはあなた達の『運命』に干渉してしまった。その干渉も、こうなった原因の一つなのは事実なんです。その責任は、決して軽くはない…。」

「だとしても、あなたは私たちの恩人でもあるの。本来の『運命』から外されてしまった皆を、あなたは救ってくれたのだから。」

「…そう言ってもらえると、少し…気が楽になります…。」


 奴隷達への罪悪感を隠せないイノセを、ロードピスは優しく諭す。イノセは彼女に笑顔を見せるが、その笑顔はどこか悲しげで、無理をして繕っているのがバレバレだった。


「少なくとも、私はあなたに会えて良かったって、心の底から思っているわ。」


 イノセの笑顔を見たロードピスは何を思ったのか、空を見上げて呟き出す。


「私ね、自分の『運命』が、大っ嫌いなの。」


 突然始まった彼女の独白。彼女が打ち明けた嫌悪感に、イノセは耳を疑った。


「なぜ、ですか?」

「…奴隷から抜け出しても、自由が無いからよ。」

「自由?」


 少し、意外だった。人として扱われない奴隷という立場と同じく、自由がないということがあるのだろうか。

 ロードピスはそのままポツリポツリと、自身の『運命』を打ち明け続ける。


「…奴隷から王妃様になるなんて、他の人からしたら、夢のようでしょうね。でも、私はそうは思わない。王族になっても、色々なしがらみがついてくる。王妃として、人の上に立つに相応しい振る舞いを強いられる。よくない輩に狙われると言って、外にも満足に出られない。好きでもないファラオも政治ばかりで、私に構う余裕なんてない。そんな窮屈な暮らし、まっぴらごめんよ。」


 彼女の口から明かされた将来。それは数多くの束縛に満ちた未来。裕福になっても、結局自由とは無縁な生活。彼女は本当に、己の『運命』に心の底から辟易していたようだった。


「なら…あなたの望みは、何ですか?」


『運命』に納得がいかないならば、ロードピスは何を望むのだろうか。

 イノセはロードピスに問いかける。


「大したことは考えてないわ。人に語れるような立派な夢や目標なんて無い。ただ…。」

「ただ…?」


 ロードピスは何かを決心するように、一呼吸おいてからまた言葉を紡ぐ。


「…世界を、自分の目で見てみたいなって」


 ロードピスが望んだのは、なんてことは無い。自分の意志だけで歩きたい。ただ、それだけ。


「自分の足でいろんな所に行って、色んな物を見て周って…。そんな風に、自分の意志で自由に旅をしてみたいの。それに、踊りは大得意だから、路銀稼ぎにも困らないと思うし。さすらいの踊り子…なんて、カッコ良くない?」


 ロードピスはおどけた顔をイノセに向けて、楽しそうに語る。だがすぐにうつむき、曇った顔と暗い声で続ける。


「でも、私の『運命の書』には、そんなこと書かれていない。所詮私は『幸せ』という名の籠に囚われた鳥。ファラオ…王様との出会いの日が近づくにつれて、ますますそれを思い知らされる。そんな自分の『運命』を、時には呪ったこともあったわ。」


 ロードピスの暗い顔は、少しずつ険しさを帯びていく。よく見ると拳を握りしめていることから、少なからず己の『運命』に対して怒っているようにも見えた。

 だがすぐにイノセの方向に向き直り、穏やかな笑顔で語りかける。


「そんなとき、あなたに出会った。私の『運命の書』に無い、私達の知らないあなたに。「僕がそうしたいから」と言って、自分の意志で誰かを助けるあなた。自由で優しいあなたに、私はだんだん惹かれていったの。」


 語りを続ける間にコロコロと変わる彼女の表情。強かな女性だと思っていたのに、面白いくらいに喜怒哀楽がはっきりとしている。そんな表情豊かな彼女に、イノセはいつの間にか見とれていた。

 そしてロードピスは、イノセの手に自らの手を重ね、天使のような笑みでイノセに懇願する。


「私は、あなたが好きです。どうか、私の手を取っていただけませんか?」


 可憐な、しかし真剣な表情での告白。一点の曇りもなくどこまでも透き通った瞳には、偽りや誤魔化しなど欠片も感じられない。彼女は、本気でイノセを愛しているのだ。

 彼女の全てが堪らなく愛おしくなる。自分達の立場を忘れて、彼女の気持ちに応えてしまいそうになってしまう。





「あたしの目の前で弟を口説くなんて、いい度胸してるじゃないの?」





 イノセの隣、ロードピスの反対側からドスの聞いた声が響き渡る。イノセは腹の底から出たような声に驚き、咄嗟に声の聞こえた方向へ向く。

 カールの利いた緑色の長髪の、美しい女性。カラフルながらも落ち着きのある色合いのドレスを身に纏い、なによりも背中に拵えた羽虫のような羽が一層目を惹きつける。その女性は片手に持っていた小さな杖から淡い光を放ち、イノセの背中を照らしている。

 美しくも優しげな雰囲気を放つ女性。だがロードピスを鬼の形相で睨んでいるため、台無しである。


「あら?他所の国では、意中の男の子への告白に許可が必要なのかしら?」

「あたしの家族を誑かすなって言ってんのよ!!この泥棒猫!!!」

「まあ怖い!イノセ、助けてちょうだい?」


 緑髪の女性に怯まずに、笑顔を浮かべながらイノセの腕に抱きつくロードピス。彼女の柔らかい感触と、鼻をくすぐる甘い香りがイノセの煩悩を激しく揺さぶる。


「ちょ…ちょっと、ロードピス…突然何を…。」

「えへへ。もう少しだけ…ね?」


 さらにロードピスは抱きつくだけでなく、イノセの体にしなだれかかってきた。自分に体を預けるロードピスの大胆な行動に、イノセは困惑するしかない。

 二人の反応を見た瞬間、緑髪の女性の体をまばゆい光が包み、その姿を飲み込んでいく。光が収まると、その中から別の女性が姿を表す。


 長い金髪をコンパクトに纏めた、スタイリッシュな女性の姿。

 ヒーローとコネクトしていたルゼが、コネクトを解いたのだ。


「殺す!!!!」


 ルゼは青筋を浮かべながらロードピスに掴みかかろうと身を乗り出す。しかし、ロードピスがイノセの影に隠れたことで、思うように手が出せない。悔しそうに苦い顔をするルゼに対し、煽るように勝ち誇った笑顔を見せるロードピス。

 火花を散らし合う二人に挟まれたイノセは、辟易したようにため息を漏らす。


「あの…、『フェアリーゴッドマザー』の魔法で傷が治ったとはいえ、病み上がりの僕を巻き込まないでほしいんだけど…。」

「ごめんねイノセ。あなたを誑かすこの破廉恥なクソ女、すぐにぶち殺すから。」

「酷いわぁ。私そんな下品な女じゃないわよ?」

「そんな男誘うような露出しておいて白々しいわ!!今すぐイノセから離れろ痴女!!!」

「あら。ごめんあそばせ?『義姉様』?」

「この…!!」


 殺気を隠さないルゼと、彼女を煽るがごとくイノセの腕を抱きしめるロードピス。二人のにらみ合いは治まる様子が全く見られない。


「ねえ…ロードピスって、あんなやつだったっけ…?」

「あの女…旦那様を蹴り飛ばしたやつだよな?なんでロードピスはあんな怖い女と睨み合ってるんだ?」

「え、嘘…。まさか、女の闘いってやつ?」


 次第には、途方にくれていた奴隷達までもが二人に注目し始めた。

 旦那様の一番のお気に入りでファラオと結ばれる『運命』のロードピスが、よりにもよって奴隷の一人であるイノセに執着しているのである。普段の彼女を知る奴隷達には、とても信じられない光景なのだろう。


「二人とも、せめて他所でやって…。」


 イノセは、せめてもの願いを込めて二人に懇願する。だが二人はまるで聞く耳を持たないようだ。

 互いに牽制し合う二人を止められず、いよいよ考えることを放棄し始めたその時だった。


「お前達!これはどういうことだ!?」


 イノセ達の背後から引き締まるような声が響き渡る。その声に驚いたイノセ達は、咄嗟に後ろを振り向く。


「え…嘘…。」

「あなたは…!」


 その場にいた誰もが、驚きのあまり、目を丸くするしかなかった。それはイノセとロードピスも同じのようで、二人とも金縛りにあったかのようにその場から動くことができなかった。


 なぜなら振り向いた先にいた人間が、他ならぬこの国のファラオであったから。


「あ。あんた来てたんだ。」

「!?姉様!言い方!!」


 唯一ルゼだけが興味無さげな反応を示すルゼに、あわてて注意をするイノセ。王に対して無礼極まりない言い草だが、ファラオは特に気にする様子もなくルゼに話しかける。


「お前が出た後に妙な化け物に襲われてな、駆けつけるのが遅れてしまった。それより、ここで一体何があった?」

「それは───」


 ファラオの問いに答えようとしたルゼ。だが彼の顔を見た瞬間、急にハッとした表情を浮かべた。


(あれ?待って。確かこいつ、あの時…。)


 彼女の頭の中で、とある記憶が甦る。

 ファラオと初めての顔合わせ。そのときに彼がルゼのことを、こう呼んでいたことを。


 ───我が運命に倣い、其方を余の妃として迎えよう。ロードピス嬢。───







「あーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」






 いきなりルゼが叫びだし、周囲は何度目か分からない混乱に包まれる。だが、今のルゼにそんなことは気にする程でもなかった。


「な…なんだというのだ突然───」

「そうだ!!!あんた、ロードピスって言ったわよね!?」

「え…?ええ…。」


 ルゼの大声が耳に障ったのか、自身の耳を塞ぎながら顔を歪ませるファラオ。だがルゼの意識は完全にロードピスに向けられていた。

 なんで気づかなかったんだろう。今そこにいる女が名乗ったロードピスという名前。どこかで聞いたことがあると思っていた。


 本来、ファラオと結ばれるはずの女性の名前だ。


「あんた、ファラオのお嫁になる女よね!?じゃああたしはもうお役御免ってことよね!?イノセとも合流できたし、この国にもう用はないわ!!ほらイノセ!!!さっさと出ていきましょ!!!」

「え!?な、何よいきなり!?あぁ!勝手にイノセを連れていかないで!!」

「待って姉様!出るって言ったって、沈黙の霧が出てこないとどうしようもない!!」

「え!?出れないの!?じゃあ沈黙の霧はどこにあるのよ!?」

「分からない!!いつ出てくるかは完全にランダムなんだ!!それにこの島に必ず出てきてくれるとは限らない!!」

「えー!?もうめんどくさいわね!!」


 突然めちゃくちゃに騒ぎ出すルゼのテンションに、誰もがついていけなかった。それはファラオも同じのようで、騒ぎ立てるルゼをただただ呆然と見守るしかなかった。


「ま…待て!!其方、この国を出ると言ったか!?余の妃ともあろうものが、そんな勝手が許されるはずがなかろうが!!!」


 だが程なくして正気に戻ったようだ。すぐにルゼにかけよって、彼女の腕を強く掴む。まるで大事な人を繋ぎ止めるかのように。


「あたしは本当の婚約者が見つかるまでの代わりだって言ったでしょ!!ほら!そこにいるでしょうが!本物の妃が!!偽物の出番はここで終わり!!離せ!!!」


 だがルゼはその手を受け入れようとはしなかった。自分の腕を激しく振り回し、ファラオの手を無理やり振り払う。そして拒絶するようにすぐにファラオから離れた。


 だが彼の様子がおかしい。他ならぬ妃に拒まれたのに、嘆くでもなく追うでもなく、ただ体を震わせていた。


「…偽物、だと…?」

「そうよ!あんたの奥さんになるのはそこの女!あたしじゃない!あんたは、初めから愛する人間を間違えてるのよ!!分かったら───」




「ならば余のお前への愛も偽りだと言うのか!!」




 ルゼの言葉は、どうやら彼の逆鱗に触れてしまったようだ。

 ファラオから今までに無い怒気が溢れ、辺りの空気を一気に張り詰めさせる。奴隷達はすっかり怯えきり、イノセも思わず身を構える。

 だがファラオはすぐに昂りを抑え、ルゼの目をじっと見つめる。


「確かにお前がロードピスではないことは証明された。だがお前が自身を偽りの妃だと言おうとも、余はお前を本気で愛しているのだ。」


 ルゼを見つめるファラオから告げられた、突然の告白。彼の目に捉えられたルゼは、今はただ黙ってそれを聞く。


「出会って間もなき頃は、なんと身を弁えぬ娘と思った。だがお前は自分の意思で民達に寄り添い、自らの手で民からの信頼を得た。国を変えてみせた。『運命』に定められた故の薄い信頼しかない余とは違う。」


 だんだんと熱を帯びていくファラオの告白。同時に、己自身の内に秘めた劣等感すらもさらけ出す。

 国の長たる者といえど、否、国の長だからこそ抱える苦悩や葛藤があるのだろう。


「僅かな間だが、共に過ごして分かった。君のように『運命』や古いしがらみに囚われない、自由な妃が、余には…僕には必要なんだ。どうかこれからも、僕の傍にいてくれないか。」


 果てには威厳ある口調すら砕け、身分も体裁もかなぐり捨てた、決死の告白。それはこの国の王としてではなく、一人の漢としてのものだった。

 ファラオは本気でルゼを慕っている。それはルゼにも十分に感じ取れた。


 その上でルゼは、ファラオに真正面から言い放つ。


「あたしは、大事な使命がある。何があってもやり抜かなきゃならない、重大な使命だ。あんたの気持ちには応えられない。」


 ルゼは包み隠さずに、ファラオに拒絶を告げる。

 思い人が正面をきって断ったことで、ファラオは思わず目元を自身の手のひらで覆う。恋に破れ、沈んだ顔を見られたくはない、ということだろうか。

 そんな姿を見せたファラオに、ルゼは苛立ったように言い放つ。


「あんたねぇ。甘ったれたこと言ってんじゃないわよ。自由なあたしが必要?なに弱気なこと言ってんのよ。だったらあんた、どうしてここまでわざわざやってきたわけ?」

「それはさっきも言っただろう!!愛するお前を追ってここまで───」


 不意にルゼから問われ、ファラオは荒ぶりながら答えた。

 だが、彼が全て言いきる前にルゼは口を挟む。


「それはあんたの『運命の書』に書かれていたの?」

「え…。いや…。!」


 次に飛び出したのは、彼にとって予想だにしなかった問いだった。彼は戸惑いながらも、その問いに答えてみせる。

 そしてその問答の中で、彼は気づいたのだった。


 自分は今、『運命』に踊らされていない。紛れもない自らの意思で、ここに来たのだと。


「これで分かったでしょ?あたしだけが『運命』に囚われていない?あんただって、自分の意思をちゃんと持って、動けているじゃないの。あたしがいなくったって、あんたは十分立派にやっていけるわ。自分の『運命』を、言い訳にしてんじゃないわよ。」


 ルゼは若干飽きれ気味ではあるが、ファラオから目をそらさずに励ましの言葉を送る。僅かな時間とは言え、ファラオに一番近いところにいた彼女なりの誠意であった。


(『運命』を言い訳にするな…か。)


 彼女の言葉が、ファラオの胸に深く刻み込まれる。

 同時に、彼の顔がなにかを決意したように引き締まった顔になった。

 そして───


「…ありがとう。君に会えて良かった。」


 ただ一言、ファラオはルゼにそう告げた。

 少しだけ晴れたファラオの顔を見て、ルゼも僅かに微笑みを見せる。


「あぁ、それと…。」

「?」


 ファラオが取り出したのは、綺麗な布の包み。彼はそれをルゼへと差し出した。

 ファラオはその包みを開けて、中身を見せる。


「これ、あたしのサンダル…!」


 開けた包みの中には、一組のサンダルが入っていた。

 ルゼが旅に出る時に履いていた、この想区に来て間もなくして失くしたあのサンダルだった。


「ここへ来る道中に、護衛の兵士が見つけたのだ。このようなデザインの履き物は、この国にはない。もしやと思ったが…やはり君の物か。」


 ファラオはその場に膝をつき、サンダルを手に取る。

 そしてルゼの足に優しく手を添え、そのサンダルを履かせる。

 その仕草は、まるで本来のロードピスに履かせるようであった。


「君がロードピスなら、どれほど良かったことか…。」


 ファラオは、悲しげな顔でそう呟いた。

 ルゼはそんな彼の呟きを、なにも言わずただ聞いていた。


 神々しさすら感じる二人のやり取りを、遠目に見守る島の住人達。イノセとロードピスもまた、二人のことを見守っていた。


「まさか、ファラオの求婚を断るなんて。国中の女達が聞いたら、みんな発狂しちゃいそうだわ!」

「…あなたも、その『国中の女達』の一人では?」


 ファラオのキスを受け取るルゼを茶化すように、ロードピスは意地の悪い微笑みを見せた。そんな彼女に、少しだけ呆れながらイノセは問いただす。


「私はしないわよ?もう心に決めた人がいるんだから。ね?」


 屋敷にいた頃の繕うようなものとは違う、心からの満面の笑みを浮かべるロードピス。世界中の男達が夢に見るような絶世の美女の微笑み。それは今、他の誰でもないイノセだけに向けられている。


「…。」


 だがイノセは全く嬉しそうではない。それどころか、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべ、その場で俯いてしまう。


「…やっぱり、あなたも行ってしまうのね。」


 眉毛を垂れさせ、残念そうにロードピスは言う。イノセは彼女へ、ただ謝罪した。


「僕たちの存在は、あなた達の『運命の書』に無い。僕たちのような余所者がいつまでもここにいると、またさっきみたいに、ストーリーテラーの怒りに触れることになる。僕たちは、あなた達といるべきではない。」

「…。」

「それに…。」


 イノセは顔をあげ、ロードピスの目を真っ直ぐに見つめる。


「僕たちには、やらなければいけない使命がある。」


 ただ、それだけを告げる。

 包み隠さずに、正直に。


「…そっか。」


 ロードピスはイノセを見つめ返し、ただそれだけ言った。


「すみません。あなたの気持ちに、応えられなくて…。」


 再びイノセは顔を俯かせ、ロードピスに謝罪する。

 自分を好いてくれている女の子の告白を断るのが、これ程に辛いものだったなんて。仕方ないことではあるが、これ程胸が痛く、苦しいのは今までに経験したことがなかった。


「…本当に、申し訳なく思ってる?」


 ロードピスが、下を向いたイノセの顔を覗き込み、そう呟いた。

 イノセは突然目の前に映った彼女の顔に若干驚きを見せるが、彼女の問いに対して控えめに頷く。


「じゃあひとつだけ、ワガママ…聞いてもらえる?」

「…え?」


 そう言うとロードピスは、イノセの頬に両手を優しく添える。




 そしてそのまま自分の唇を、彼の唇に重ねた。




「……………………!?!?!?」


 イノセは、頭が真っ白になった。

 前触れの無い口付けに理解が追い付かなかったが、すぐに彼の顔が沸騰したように真っ赤に染まる。

 内心大パニックを起こしていたイノセだが、振り払うことも離れることも忘れ、ただ彼女のされるがままになっていた。


 永遠に続くと勘違いしそうなほどに濃密なひとときは、彼女が唇をゆっくりと離すことで終わりを告げた。

 だが彼女との熱い口付けの余韻が、イノセの心を強く支配する。

 心臓の脈がうるさい。顔が熱い。目の前のロードピスから目が離せない。


「このファーストキスは、私からの仕返し。私を振ったこと、一生後悔しなさいな?」


 物騒な言葉を口にしたロードピス。だがその顔は、何かが吹っ切れたように晴れやかな笑顔だった。


 その時、イノセの視界の端に白いもやが僅かに入り込んだ。


「これは…。」


 二人の時間が終わるのを見計らったかのように現れた白いもや。

 ずっと彼が探し求めていた、『沈黙の霧』。その入り口が出現したのだ。


「あっ!あれ、沈黙の霧じゃないの!?」


 ルゼも霧の存在に気がついたようだ。すかさずルゼはイノセの傍まで駆け寄り、彼の腕を掴んで引っ張った。


「よかった!、これでやっと出られるわ!!ほら、イノセ!!早く行きましょ!!」

「え…あっ、ちょっと…。」


 まだロードピスの色香に惑うイノセを無理やり引っ張りながら、ルゼは奥の白いもやを目指して走り出す。


「じゃあね王様!しっかりやんなさいよ!!」


 ルゼはそれだけ言い残し、そのまま二人で霧の中へと飛び込む。


 二人の姿は、霧と共に完全に消えた。


 騒ぎの元凶が去り静かになったその場には、ファラオとロードピス、そして奴隷達が取り残された。

 しばらくその場に立ち尽くしていたファラオ。そんな彼にロードピスが近寄り、声をかける。


「…行ってしまいましたね。」

「ああ。まるで嵐のように激しい女だったよ。」

「まあ!イノセは羽毛のように優しくて暖かな方でしたよ?」

「はっはっは!そうかそうか。姉弟だというのにこうも違うなんてな。」


 想区の主役である二人は、互いに想い人との充実した日々を語り合う。ファラオはルゼとの騒がしい日々を。ロードピスはイノセとの穏やかな時間を。


「彼女はどこまでも奔放で、御しきれない女だった。だが、紛れもない僕の初恋だった。こんなに胸踊ることなど、これっきりだと思う。」

「私も、同じ気持ちです。こんなに胸が高鳴ったことも、こんなに幸せな気持ちになったことも…。」


 未だ幸せそうな表情で語るロードピス。

 だが彼女の瞳には、いつしか潤いが生まれてきた。

 その潤いは大粒の滴となり、彼女の頬を伝う。


「…こんなに、胸が…苦しくなることも、誰かに、恋い焦がれる…ことも、生涯…無い、でしょう…。」

「…僕も、同じ気持ちだ…。」


 鼻をすすりながら目元を拭うロードピス。とめどない大粒の涙が頬から地面へ滴り、地面を湿らせる。

 その傍らのファラオも、震えた声で彼女に応えた。涙を見られたくないのか、その顔は遥か上空へ向いている。それでも溢れる涙は抑えられず、大粒の滴をこぼしていた。


「…本来の『運命』では、私たちは結ばれなければなりません。ならばせめて、思い人にフラレた余り者同士…互いに傷のなめ合いでもしてみませんか?」

「ははっ。情けないことこの上ない提案だ。だが今はその提案に乗るのも、また一興と思えてしまうな。」


 涙を拭い、自分の気持ちを誤魔化すように軽口をたたくロードピス。ファラオも同様に、彼女の提案をを笑いながら受けて見せた。


 気持ちが落ち着いたのか、ロードピスはついさっきとはうってかわって、真面目な顔でファラオと向かい合う。


「我らがファラオ。厚かましいのは承知の上ですが、彼らのことを…。」

「ああ。分かっている。彼らの身柄は、本来彼らのあるべき所へ送ろう。」

「ありがとうございます。きっと彼も、それを望んでいるでしょうから…。」


 ロードピスは深々と頭を下げて感謝の意を伝える。


 そして二人は、あの姉弟がいた空間を再び見つめ、共に呟く。


「…二人の未来に、幸あらんことを。」

「ええ。せめて、それだけでも祈りましょう。」


 ただそれだけを、二人がいた場所へ言い残した。


 *****


 沈黙の霧の中、二人の旅人は互いの手を固く握って進んでいた。


「…もう、とんだ災難だったわね!いきなり離れ離れになるわ、奴隷だの王妃だのにさせられるわ、挙げ句の果てにはカオステラーもいないのにヴィランに襲われて…、ホントに勘弁してほしいわ!!」


 先程の想区での出来事を思い出し、愚痴をこぼすルゼ。だがその体は微かに震え、握られた手のひらは手汗で軽く湿っていた。

 恐らく得体の知れない霧への恐怖に、まだ慣れていないのだろう。恐怖を振り払うかのように、ルゼは必要以上に大きな声で不満を叫ぶ。


「…まあ、悪いことばかりじゃなかったけどね。村の子供達はみんないい子達だったし。これからあの国が、あの子達が笑って暮らせるような良い国になってくれればいいけど。」


 ルゼは見えもしない遥か上空を見上げ、想区での日々を思い出す。

 貧困の差は激しく、民達の間でも大きな格差が生まれていた国。それでも、辛い日々を頑張って生きようとする人々がいるあの国を、ルゼは嫌いにはなれなかった。

 果たしてあの国は、これからいい国になってくれるだろうか。自分達は見届けることがないであろう想区の未来に、思いを馳せる。


「…ところで、適当に歩いちゃってるけど、こっちでいいのかしら?ねえ、イノセ───」


 そういえば想区を出てから、弟の反応がない。ルゼは手を繋いだ先にいるイノセへ向き、道を尋ねる。


「………。」


 視線の先のイノセは返事をしない。それどころか、ルゼが声をかけたことにも気づいていない様子だった。

 イノセの目は何処とも言えない空間へ向けられており、完全に上の空だった。


 よく見ると彼の顔はほんのり紅く染まっている。頬も緩みきって、だらしない顔になっていた。

 彼の顔を見たルゼは眉間にシワを寄せ、渇を入れるように耳元で怒鳴る。


「イノセっ!!!」

「わっ!えっ?はい!?」


 耳元で大声を出されて、たまらずにひっくり返るイノセ。驚きのあまりその場で尻餅をついてしまう。

 何が起こったのかよく理解できていないイノセを、ルゼは見下ろす形で睨む。


「…さっきから呼んでんだけど。」

「ご…ごめん。姉様。どうしたの?」


 イノセがようやくルゼに気がつき、彼女を見上げて返事をする。

 ようやく反応した弟に、姉は改めて問いかける。


 だがその口から飛び出した疑問は、本来聞きたかったこととは別のものだった。


「…あなた、あの女に何かされたでしょ。」


 あの女とは、イノセの隣に寄り添っていた踊り子。即ち、ロードピスのことであった。


「えっ!?な…なんで…?」

「鼻の下、伸びてる。それに、なんか甘い匂いがする。」

「あ…えっと…。」


 ルゼから指摘を受けて、あからさまに気まずそうな顔をするイノセ。やはり自分が目を離した隙に、ロードピスと何かあったに違いない。彼の反応から、ルゼはそう確信した。

 それと同時に深く後悔をした。自分がついていながら、あの女の毒牙からイノセを守れなかったと。


「ほ…本当に…何もないから…。大丈夫だから…。」


 口ではそう言っても、全くもって大丈夫とは思えなかった。

 ルゼから逸らした視線は明らかに泳いでおり、その顔は少しずつではあるが、ますます赤みが増している。どうみても何もない訳がないのは明白だった。


「嘘をつくな!!あたしに隠し事が通じると思ってるのか!!」

「ぐわっ!?」


 頭が一気にカッとなったルゼは、イノセの首根っこを掴み、彼の体を激しく揺さぶる。


「い…いきなり何を───」

「うるさい!大人しく白状しなさい!吐けー!!」

「や、やめて…!首が、絞まってる…!ぐぇっ…!!」


 首への圧迫感とあまりにも激しい揺さぶりで、今にも天へ召されそうになるイノセ。だがいくら力をいれても、ルゼの怪力には到底敵いそうもない。


 ルゼが落ち着くのが先か、イノセが窒息するのが先か。姉が怒りを治めるまでの間、弟は命懸けの持久戦を強いられることになった。

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