6

 車中は静まり返っていた。後部座席に座る茅野は俯いており、バックミラー越しではその顔を確認できなかった。三門は膝の上で固く握り締めた拳を睨み、鵜ノ沢は表情無く運転を続けた。

 暎和出版オフィスビルの駐車場に着いてもなお、茅野は黙って車から降りた。鵜ノ沢は三門に近づき、茅野に聞こえないように言った。

「……社長に、どう説明したらいいんだろうな」

 三門は小さく首を振る。鵜ノ沢は眉根を寄せ、しかしすぐに表情を元に戻した。二人がエントランスに入ると、茅野は既にエレベーターを呼んでいた。エレベーターが降りてくるまでの間、乗り込んで四階に着くのを待つ間も、張り詰めた沈黙が三人を包んでいた。


「おっかえりー! どうだった、研修は?」

 場違いに明るい東堂の声がオフィスに響いた。語調に違わず、跳ねるように軽く茅野に歩み寄り抱き締める。茅野はされるがまま立ち尽くし、三門と鵜ノ沢が茅野の後ろで俯いていた。東堂は困ったように笑い、暗い顔をした二人へと視線を移した。

「少し、美鶴くんと二人で話したい。今日はお疲れさま。もう休んでいいよ。ありがとうね、二人とも」

 美鶴くんを、守ってくれて。そう言って微笑む東堂に鵜ノ沢は何か言いかけて、口を噤んだ。簡単な挨拶を残し、二人分の足音が遠ざかる。茅野と東堂の二人きり、オフィスを満たす耳が痛くなる程の沈黙を破ったのは、東堂だった。

「……何があったのか、話してくれる?」

 東堂はただ優しく、その腕の中で大人しい茅野の髪を撫でた。

「ごめんね。すぐに休みたいだろうけど……社長として、『調停』のリーダーとして。事情を把握しておく必要があるんだ。……話して、くれるかな」

 茅野は少し躊躇って、静かに首を縦に振った。東堂に導かれるまま、茅野はソファーに腰を下ろした。隣に座った東堂が落とされた茅野の肩をそっと抱き寄せ、言葉を待つ。

「…………母、が」

「うん」

「異形に、食われてて」

 東堂は目を見開き、伏せ、そして真剣な顔で茅野を見つめた。項垂れたままの茅野は、東堂の様子を知ることもなく、ゆっくりと話を続ける。

「俺、母を食ってた異形を、……」

「……うん」

 険しい表情のまま、しかし声音は穏やかに、東堂は続きを促す。

「異形、を、殺しました」

「…………そう」

 東堂は肩を抱く腕に力を込めた。引き寄せると、茅野は抵抗なく体重を預ける。

「……辛かったね。初日から、よく頑張ったね」

 東堂の肩に寄り掛かりながら、茅野は母であった人の姿を想起する。思い出の中の母は、確かに優しい人だった。掃除が好きで、温泉が好きで、流行り物にはすぐに影響されて。仕事でなかなか帰ってこない父の代わりに、よく遊んでくれた。父がいないのをいいことに、茅野が眠れない時には「お父さんには内緒よ」と、夜遅くにもかかわらず菓子を摘んで談笑した。そんな母親の優しい顔を、優しい声を、茅野は思い出せなかった。思い出せるのは、醜い顔を晒す声の無い死体のみであった。

「……母は、俺を、叩いて」

 仕事の重圧か、人間関係か、他に理由があったのか。茅野が高校生活の二年目を迎えた頃、茅野の父は、リビングで首を吊って死んでいた。母親は買い物に出ており、始業式を終えて帰宅した茅野がそれを発見した。久し振りに見た父親は、初めて見る苦悶の表情を浮かべていた。

「泣いてばかり、いて」

「……うん」

 それから程なくして、茅野は覚醒した。周囲との軋轢が生まれ、外に出なくなり、母親はまた嘆いた。喚き散らし、物に当たり、茅野に当たった。

「母は、俺を、化け物だって」

 茅野に投げつけられた鍋、皿、包丁。生を諦め目を閉じた茅野は、それでも無傷だった。今になって、周囲に散らばっていたそれらの意味を理解する。茅野は無意識に能力を使用し、無意識に自分を守った。ただそれだけのことだった。自分を守っただけの茅野が、母親の目には化け物と映った。

「俺を、生むんじゃなかった、って」

「……うん」

 東堂は茅野を抱き締めた。細く柔らかい金色が、茅野の頬を擽る。

「悲しい?」

 東堂が問う。茅野は緩く首を振った。

「わかりません」

「そっか」

 強く抱き締められた茅野は、何を言うべきか考えるも頭が回らず、目を閉じる。少しの静寂の後、東堂が口を開いた。

「……伝えるべきか悩んだんだけど。美鶴くんがちゃんと話してくれたのに、隠しておくのはフェアじゃないよね」

 東堂が離れ、茅野は目を開けた。茅野の肩に手を置いた東堂は、悲しそうに微笑んでいた。

「君がここに来ることをお母様にお話ししたっていうのは、言ってあったよね」

 茅野は頷いた。東堂は一瞬躊躇った後、目を閉じて緩やかに首を振った。

「正確には、話したけど伝わらなかったんだ。……君のお母様は、

 茅野は弾かれたように東堂を見た。

「どういう、ことですか」

「僕の推測でしかない。それでもいいなら」

 東堂は子供に笑いかけるように、首を少し傾けた。茅野はその先を目で催促した。

「君のお母様は、精神を病んでしまったのだと思う。君が生まれる前……美鶴くんのお父様とお母様、二人で暮らしていた時間に戻ってしまった」

 茅野は言葉を失った。母の中ではもうとっくに、自分がいないことになっていた。顔を合わせればヒステリーを起こすからと母親のいない時間を見計らって風呂や手洗いを済ませていたのも、結果的には後押しとなったのだろう。同じ家で暮らしながら、いつからか茅野と母親は赤の他人になっていたのだ。

「君は、どうしたい?」

「俺、は」

 質問を投げかけられた茅野は唾を飲み込み、息を吐いた。肩が震えているのに気付いたが、茅野には恐怖も迷いもなかった。

「俺は、異形を倒したい」

 東堂は頷き、茅野と真っ直ぐに目を合わせた。

「分かった。それもうちの目的の一つだ。君がそれを叶えるために僕は君を鍛えるし、君が望むだけの知識もあげる」

「あんたは信用できない」

「構わない。信用されずとも、君が調停ここにいる限り、僕は君の味方であると誓おう」

 睨みつける茅野を意に介さず、東堂は安心させるように柔らかく微笑んだ。

「そして、君の目的のため、僕を利用するといい。僕は僕の目的のため、君に力を貸そう」

 東堂は姿勢を正した。瞬きを挟んだ青い目は、真剣な色をしていた。

「ようこそ『調停』へ。茅野美鶴くん」




 自室に戻った茅野は、真っ先に洗面台へと向かった。手を洗って、洗って洗って洗って。それでも何一つ拭い去ることはできず、諦めた。呻く肉を握り潰した感触が、未だ鮮明に残っていた。

 母親の凄惨な死よりも、異形を殺した瞬間が茅野の脳裏に強く刻まれている。そのことに、悲しみも絶望も嫌悪も抱けずにいた。平たく言えば、何とも思わない。茅野はそのままシャワーを浴び、寝間着に着替えてベッドに横になった。

 いっそ鵜ノ沢のように高揚できれば良いのだろうか。それとも、三門のように淡々と殺せば良いのか。考えても答えを出せず、茅野は目を閉じた。何もない視界で、東堂との会話を反芻する。

 異形を倒したいと東堂に告げたのは、ほとんど衝動的なものだった。それが復讐心からくるものだとしたら、母の死を悲しむことができない理由が分からない。他に犠牲者が出る前に滅してしまおうと考えるような高尚な人間でもない。考えを巡らせていると、サンドバッグだと思えばいいという鵜ノ沢の言葉がふと過ぎった。三門は異形を個体と呼んだ。鵜ノ沢は異形を一匹二匹と数えた。あれは、化け物なのだ。

 化け物が化け物を殺すのに理由が要るだろうか。そう結論付けて、茅野は眠りについた。




 時は、茅野がオフィスを出た頃に遡る。ソファーで腕と足を組み目を閉じた東堂は、呆れた顔で溜息を吐いた。

「盗み聞きとは感心しないな」

「……俺がいること知ってて喋ってたのに?」

 東堂が人影のないオフィスに言葉を投げると、くつくつ笑う声を連れて、パーテーションの陰から男がゆるりと歩み出た。

「相変わらず演技派ですねえ、社長」

 現れた男は、目深に被ったフードを縁取るファーの隙間から、垂れた目を愉しそうに歪ませていた。にやついた男を睨み、東堂は再び深く溜息を吐いた。

「えーっ、せっかく帰ってきたのにその反応は傷つきますってぇ」

「嘘ばっかり。……彼には手を出すなよ」

「うっわ、モンペ怖っ」

 男はけたけたと笑う。

「でもー、三門さんも駄目で茅野も駄目でーってなると、消去法で夏生しかいなくなるんですけど。もうかなり遊び尽くしちゃったしなぁ」

 指折り数えた男は東堂に近づくと、腰を折り顔を寄せる。同時、東堂を捕らえるように、ソファーの背もたれに手をついた。

「……それとも、あんたが相手してくれんの?」

 男は舌舐めずりをした。黙って見ていた東堂が、微かに笑みを溢す。東堂の手が男の頬に触れた。

「天国を見せてやってもいい。が、それなりの対価は貰おうか」

 それを聞いた男は満足げに口の端を上げると、背もたれから手を離した。

「お土産があるんですよねぇ。帰り、ちょっと寄り道して」

 男の目が急速に冷めた。

「……巣の手掛かり、見つけましたよ」

 東堂は僅かに眉を上げた。

「はっきりとした場所は分からないですけど。でも、これがあれば三門さんが追えるでしょ」

 そう言って取り出されたのは、透明なビニールパックに詰められた異形の小さな腕だった。

「どこかに向かってるっぽいのを仕留めたんです。どうせ処分するのは黒衣だし、全部持って帰ってくるのは荷物だし。これだけでも十分ですよね」

 放り投げられたそれを受け取る。微かに漏れ出た腐肉の臭いが東堂の鼻についた。東堂はビニールパックをローテーブルに置き、一つ深呼吸をした。

「そうだね。紅くんなら、きっと見つけ出してくれる」

 すっと立ち上がった東堂は明るい顔を作り、手を叩いて軽い音を響かせた。

「さあて、いっぱい頑張ってくれた千弘くんに、ご褒美あげちゃおうかな」

「あは、そういうことなら遠慮しときまぁす」

 男は軽く手を振り、東堂に背を向けた。

「俺、社長みたいな人はひんひん泣かされて屈辱に顔を歪めるの見たい、ってタイプなんで」

 そう言って、男はオフィスから出て行った。

「あはは、本当によく分からない子だなぁ、千弘くんってば」

 男の背を見つめながら、東堂は心底おかしそうに笑った。

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