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 19時、オフィス内。東堂が見守る中、鵜ノ沢、三門、茅野の三人はデスクを囲んで立つ。

「……っし、最終確認な。俺がぶっ叩く、三門は茅野を守る、茅野は見てる。以上!」

 反復にも満たないそれを確認と呼ぶ鵜ノ沢に三門が眉を寄せるも、言葉にすることなく静かに頷いた。茅野もまた、三門に倣う。

「美鶴くんは、とにかく無茶しないこと。紅くんと夏生くんの実力は本物だ。危ないと思ったら、逃げるよりも紅くんのそばから離れないようにね」

 東堂が優しげに微笑む。応えるにも無視するにも抵抗のあった茅野は、東堂から視線を逸らし、目を合わせることなく首を縦に振る。

「俺が運転するわ。駐車場は一階だ、行こうぜ」

 そう言って鵜ノ沢はデスクの引き出しから車の鍵を取り出す。三門が鵜ノ沢に対して、初めて申し訳なさそうに口を開いた。

「いつも運転をお任せするのは悪いですから。今日は私が」

「いや、いい。お前の運転クソ荒いから。ぜってぇ酔う」

 言い切る前に苦々しい顔の鵜ノ沢に制止され、三門は大人しく引き下がった。茅野にはその表情が不機嫌そうに見えて、存外三門は無表情なわけではないのだなとぼんやり考える。先にオフィスを出た鵜ノ沢に続き、エレベーターホールへと向かった。

「それじゃ、気をつけてね。今回はあくまで美鶴くんの研修、ある程度叩いたら帰ってくるように」

 エレベーターに乗り込む三人を見送る東堂が手を振って言う。扉が閉まる直前、茅野はその青い目が歪んだように見えた。


 茅野が後部座席に乗り込むと、程なくして車が動いた。安定した速度で走り出した頃、茅野は抱えていた疑問を小さく呟く。

「異形、って、何ですか」

 それも伝えてなかったのかという呆れた声が運転席から聞こえた。何度目かの溜息を挟み、鵜ノ沢はバックミラー越しに茅野を見る。

「なんで湧いたのかとか正体が何かとかは俺も知らねえけど、とりあえず能力や体の使い方覚えるのに最適なサンドバッグって考えときゃいい。見た目はちっとグロいけど、まあすぐ慣れるさ」

 俺も最初は驚いたなあと遠い目をする鵜ノ沢の隣、助手席から三門が続ける。

「異形は特定の区域を徘徊することが多いのですが、時々町中にも出現します。能力者にのみ見えるもので、好戦的な個体は襲いかかってくる。戦う術を身につけるまでは、踏み潰せるよう安全靴などを着用しておくといいかもしれませんね」

 にこやかに放たれたあまりにも物騒な話に、茅野の顔が暗く沈む。そんなものと一年もの間出遭わずに済んだのは僥倖か、それとも早くに目撃していれば助けを求めることも叶ったのか。浮かんだ可能性に、自ら否と結論を出す。助けを求めたところで自分の話を信じる者などいない。ただ茅野美鶴が狂ったと評され、好奇と嫌悪の目を向けられ、かつて母と呼んだ女は泣き崩れ体裁を気にして嘆く。ただそれだけのことだろう。

 車は速度を落とし、緩やかに左折した。暗い中、街灯に照らされて見えた歩道は、茅野が通学路として使っていた道だった。見たのは一年振りだったが、懐かしいとは思わなかった。


 車を降り、三人は歩く。明かりは少なく、だからこそすぐに暗闇に目が慣れた。

 第五区画。茅野に馴染みのある呼称で言えば、崩壊区域。通常立ち入りを禁止されているそこは、恐らくひとつの町だったのだろう、ビルや集合住宅らしき廃墟が連なっている。完全に崩れてしまっているものから、老朽化しているものの雨宿りには十分なものまで、さまざまであった。茅野がまだ学生であった頃、こういった地域は第三次世界大戦の折に破壊され、戦禍を忘れないために残された、と習った。

「こういうとこ、あいつらは好むんだよ」

 鵜ノ沢の言葉に、茅野はもしや異形の存在があって復興工事が叶わなかったのではと思い至り、頭を振ってその思考を脳から追い払う。考えたとて何ができるわけでもない。

 少し先、道路だったのだろう開けた場所で、鵜ノ沢は捲れ上がったコンクリートの隙間を覗き込んでいた。三門は茅野から離れることなくあたりを見回している。茅野は、瓦礫が埋め尽くす不安定な足元に注意を向け、転ばないよう鵜ノ沢の元へと向かう。


 瓦礫の隙間、小さな影が蠢いた。

 三門、鵜ノ沢、そして茅野もまた、その影を見逃すことはなく。茅野の体が、知らず強張る。

「五、六…………っと、ちょっと多いか」

「ええ。茅野さん、少し離れましょう」

 誘導に従い、茅野は廃墟と化したビルの外壁に背を預ける。隣に三門が立ち、茅野に微笑んだ。

「あなたのことは私が守ります。決して私から離れないでください」

 頷いた茅野は、鵜ノ沢へと視線を戻す。鵜ノ沢は目を閉じ、瓦礫の中ただ静かに、立っていた。目を逸らさないように、と三門の囁きが聞こえる。

「彼ははやい。すぐに片付きます。目を、逸らさないで」

 茅野は頷くことすらしなかった。三門はそれを了承と取り、周囲の警戒にあたる。鵜ノ沢の目が、開く。その口角は、歪に吊り上がっていた。

「よぉーく見とけよ茅野ォ、これからこいつらの顔、飽きるほど見るんだからなァ」

 言うが早いか、鵜ノ沢は駆ける。跳ぶ、と表現したほうが正しいかもしれないと考える頃には、その手に赤黒い肉塊が握られていた。

「一匹目」

 べちゃり。粘着質な音。断末魔の叫びを上げることさえ許されず千々に握り潰されたそれは、ひくひくと痙攣しながら地に落ちた。血液にも似た液体で濡れた鵜ノ沢はしかし止まることなく、這いずる異形達に飛び込んだ。

「二匹目、三匹目ぇ!」

 手をつくと同時に体重をかけて圧しひしがれる二つの肉塊。その勢いのまま跳ね上がり壁を蹴って転回、更なる異形の上に降り立つ。踏み潰した異形の頭部と胴体を両足で引き裂き、鵜ノ沢は頭部だろう球体を爪先で拾い上げる。

「四匹目ぇ……っと」

 ぽん、と高く上げた頭部を、壁を伝う異形に向けて蹴り飛ばす。肉塊同士が激しく衝突し、飛散した肉片と液体が地を赤く染めた。

「五匹目」

「ひ、」

 引き攣った吐息が漏れる。込み上げるものを感じ、茅野は思わず手で口を覆った。どくん、どくんと心臓の音がやけに煩い中で、微かに子供の笑い声を聞いた、気がした。

「ッ、まじかよ、Ⅲ型がいるとか聞いてねぇけど!?」

 その笑い声は鵜ノ沢にも聞こえていたらしい。不満のように言いながら、しかしその口の端はひどく吊り上がったまま。怒り、不安、怖れよりも、歓喜。

 茅野の頭上で、声がする。

 ──アソボゥ、ヨォ

 きゃはは、くすくす、あはは、と笑うそれは、茅野が目で捉えるより先に地に叩きつけられた。鵜ノ沢が仕留めたものよりも大きい頭部にひとつ、胴体にひとつ、輝くものが生えている。

「研修の邪魔をされては困ります」

 三門は異形に歩み寄り、突き立てられた二本のナイフを引き抜いて、付着した液体を振り払う。それでもなおもがいていた異形は、手足らしきものをばたつかせ、傷口から濁った液体を噴き出し、やがて絶命した。

「あっずりーぞ三門! 護衛のくせにⅢ型やりやがって!」

「悔しければ、異形がこちらに辿り着く前に全滅させたらどうです」

「っは、言いやがる!」

 まるでゲームでもしているかのように、得点を競い合っているかのように鵜ノ沢は叫ぶ。呆れた様子の三門が茅野の隣に戻り、軽く息をついた。

「鵜ノ沢さんはこれだから……すみません、茅野さん。彼はどうも、戦闘となると昂ってしまう性質のようで」

 見れば、鵜ノ沢は先程よりも多くの赤に塗れながら、瓦礫ごと異形を倒し、潰し、屠っていた。能力者は身体能力が向上すると東堂から聞いていたものの、予想よりもずっと荒く激しい戦闘に、茅野は必死に目で追うことしかできずにいた。

 ふと、鵜ノ沢の背に向かって、何かが飛んで行くのが見えた。

「鵜ノ沢さんっ……!」

 飛来物が異形と知り、茅野は思わず叫んだ。鵜ノ沢が振り向くと同時、異形は鵜ノ沢に触れることなく、飛んできたのと同じ方向へ弾かれるように吹き飛んだ。

「ちょうどいい。俺の能力、教えとくぜ茅野」

 廃ビルの外壁に叩きつけられてなお僅かに動く異形に近づき、拾い上げて、回転をつけ空に放る。

「俺の能力は『反転』。こういう使い方をするんだ」

 くるくると回りながら落ちる異形は、その半身が突如逆回転を始め、捻じ切られる。笑う鵜ノ沢を挟んで、肉塊が二箇所に落ちた。




「こんなもんかあ?」

「そうですね、近くに気配はありません。帰りましょう。鵜ノ沢さん、部屋に戻ったらすぐにシャワーを浴びるように」

「へーへー、分かってますよっと」

「それから茅野さんは…………茅野さん?」

 茅野は、限界だった。

 胃の中を空にしてなお足りない。口いっぱいに広がる、酸の苦い味。膝をつき、迫り上がるままに吐き出す。生理的な涙で視界が歪む。慌てた三門が駆け寄り、茅野の背をさすった。

「茅野!」

「茅野さん! 大丈夫ですか!?」

 答えようにも咳が邪魔をする。首を振ろうにも震えが阻害する。片腕を支えに、もう片方でシャツを強く握り締めた。少しして、吐くものもなくなった茅野の口元に、三門の手でハンカチが添えられる。

「……すみません、配慮が足りませんでした。我々はもう慣れてしまっていますから……」

 申し訳なさそうに眉尻を下げる三門と不安げに顔を覗き込む鵜ノ沢に今度こそ首を振り、茅野は荒く息を吐いた。ハンカチを受け取り、酸い空気の塊を吐き、ぐらつく足で立ち上がる。その肩を支えた鵜ノ沢が軽く引き寄せると、茅野は力なく鵜ノ沢の方へと倒れ込む。鵜ノ沢が浴びた液体から鉄錆を含んだ生臭さが漂い、茅野は無意識に顔を顰めた。

「歩くのは無理そうだな……ごめんな、ちょっとだけ我慢してくれ。それで鼻塞いで、目も瞑っとけ」

 茅野の両足が浮く。鵜ノ沢に横抱きにされたのだと知るが、恥じる余裕もない。言われた通りにハンカチで口と鼻を覆い、強く目を閉じた。


 茅野は車を止めた場所から少し離れた道に降ろされ、鵜ノ沢に支えられて縁石に腰掛けた。蹲る茅野の目に、革靴の尖った爪先が映る。

「……飲めますか?」

 顔を上げ、三門に差し出されたペットボトルを受け取り、水を口に含む。口の中で転がして、苦味ごと飲み込んだ。二、三度繰り返して、茅野は深く息を吐いた。

「ごめ、なさ……」

「気にすんな。俺も、その……やりすぎた。ごめんな」

 ジャンパーを脱ぎカットソー姿となった鵜ノ沢は、発していた悪臭がほんの少しだけ和らいでいた。茅野は未だハンカチを手放せずにいたが、同時に背をさする鵜ノ沢の大きく温かい手に少しずつ吐き気が引いていくのを感じて、突き放すこともできなかった。

「本当はここで、異形について詳しくお話する予定でしたが……これ以上茅野さんに無理をさせるわけにもいきません。車に乗れる程度まで回復したら、今日はもう帰りましょう」

「そう、だな。早く休んだほうがいい」

 茅野は口を覆ったまま頷き、再度水を含む。冷たすぎないそれが、喉から胃へと落ちていく。目を閉じて、能力の代償によるものとは異なる目眩を感じ、薄らと目を開けた。しばらくして呼吸が落ち着き、鵜ノ沢の手を借りて立ち上がる。ふらつくことなく両の足で立つ茅野を見守り、鵜ノ沢は手を離した。


 突然、三門が何かに気付いたように目を見開く。

「三門?」

「鵜ノ沢さん、一匹……跡が」

 三門が指差した先、てらてらと光を返す濡れた細い線が一筋、暗闇の先に伸びていた。それを見た鵜ノ沢もまた、驚愕と困惑の入り混じった表情を浮かべる。

「あっち、住宅地じゃねえか……!?」

「……ッ、茅野さん、歩けますか!? 私達はあれを追わないと、」

「いや、まだ駄目だろ! 茅野、一人で車に戻れるか!?」

 茅野は鍵を渡そうと手を伸ばす鵜ノ沢を制し、息を吐き、口を拭った。

「行けます。……行きます」

 茅野の言葉に三門と鵜ノ沢は頷き合い、走る。茅野は鵜ノ沢に支えられながら、自然と歩調が早まるのをどこか他人事のように感じていた。線の向かう先は、茅野が十八年を過ごした家と同じ方向へ、続いていた。




 先行する三門の足取りに迷いはない。時折後ろに続く鵜ノ沢と茅野の様子を見ながら、それでも足を止めることなく走る。追うように続く茅野は、鵜ノ沢を追い抜いたことに気付かないまま、慣れ親しんだ道を駆けた。明かりのない住宅地、一軒の家の前で、三門は立ち止まる。

「ここです! …………っ、ここ、……」

 表札を目にした三門が、躊躇う。立ち尽くす三門に目もくれず、茅野は迷うことなく扉を開けて駆け込んだ。追いついた鵜ノ沢は三門の視線の先を追った。

「…………行くぞ、三門」

 脳裏に最悪の事態を浮かべながら、三門と鵜ノ沢は茅野を追う。濡れた線は、二人を案内するかように奥へと続いていた。


 探すまでもなく、ダイニングらしき部屋に茅野は立っていた。その足元、動く小さなものと動かないもの、ふたつが寄り添うように並んでいた。べちゃべちゃと不愉快な音、ぶちぶちと千切れるような音が部屋中を満たしている。茅野はただ、それを見下ろしていた。

 三門が茅野に声を掛けるより、鵜ノ沢が音の発生源に近づくより先に、茅野が屈み、動くものを拾い上げた。じたばたと抵抗する赤黒いそれを眺める。胴体には二本の短い腕が生えており、足が無い代わりに蛞蝓のような、尾とは言い難い下肢があった。頭部に目は見当たらず、口らしき穴から肉片を垂らしている。

 ──ウア、ァ

 呻いた拍子に、それが咥えていた肉片が床に落ちた。足の甲に乗った肉に構わず、茅野は冷めた目で、掴んだ手に力を込める。

「ッ、やめろ茅野! まだお前はやらなくていい!」

 ぎちぎちと音を立て、異形の頭部が歪んでいく。暴れるそれの腕が茅野の手首に届くより先、茅野は拳を握り切った。ゆっくりと手を開くと、それは重力に従って落ちていく。床の肉片と混ざり、区別がつかなくなった。

 異形は、動かないそれに再び寄り添うように、息絶えた。倒れていた人のかたちをしたものは、目や鼻、口からも透明な液体を垂れ流していたのだろう跡が残っている。花柄のエプロンとゆったりとしたワンピースの下、腹がある筈の部分には大きな穴が開き、内臓が食み出ていた。

 ようやく動けるようになった三門が茅野の肩を抱く。鵜ノ沢はその背で茅野から隠すようにその女性に向かい合い、これ以上無い程開かれた目に手をかざし、目蓋を下げた。茅野はただ一言、母さん、と呟いた。

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