第4章:人魚姫は泡に還るか(4)

 どおん、と。

 唐突に海底の城を揺らした震動に、アイビスの身体は寝台から浮きかけてサシュヴァラルに抱き留められ、シャオヤンテは慌てふためいた様子で柱にしがみついた。水中を舞っていた灘雪が、突然変わった流れに乗り、右へ左へと翻弄される。

「火山の爆発か!?」

 アイビスを腕の中に収めたサシュヴァラルが周囲を見回す。そう、海底にも地上と同じように噴火をする場所があって、時折その水勢が海上にも飛び出してくるのは、エレフセリアに訪れる地震から、観測する事が出来た。しかし、地揺れにしては、どおん、どん、と、城を揺らす衝撃は断続的に続き、自然現象ではないのではないかという危惧が、胸に訪れる。

 果たして、アイビス達の不安は的中した。

「サシュヴァラル様!」

 銛を手にした兵達が、急いた様子で部屋に泳ぎ入ってくる。

「エレフセリア兵の襲撃です、シャオヤンテ様、アイビス様と共にご避難を!」

 それを聞いた途端、サシュヴァラルの横顔に緊張が走り、アイビスの心臓は、ぎゅうっとつかまれたような痛みを覚える。

 エレフセリア。随分と遠くなってしまったように感じる故郷。かの国の兵が海底に攻めてくるとは、一体全体どういう事だ。タバサが自分を探して兵を派遣したのか。そう考えて、いや、と首を横に振る。あの傲岸不遜な姉が、いなくなった邪魔者を今更取り戻そうと動いてくれるはずが無い。それに、人魚の血を飲まねば地上の人間は海底では長く保たない。その摂理を、彼らはどのように打ち破って、この海の底へ訪れたというのか。

 いずれにしろ、良からぬ状況が訪れた事には変わりが無い。それが証拠に。

「……アイビス様が手引きをしたのではないかと、疑いをかけている者もおります」

 兵の一人が、言い出しにくそうに紡いだ報告に、アイビスも、サシュヴァラルも、シャオヤンテも、表情を固くする。

「どうか、彼らがアイビス様に危害を及ぼす前に、陛下のもとへ」

 最も危ぶんでいた方向へ、事態は転がっているようだ。これは兵の言葉に従って、大人しくメーヴェリエル女王の所へ避難する訳にはいかない。エレフセリア王女として、祖国の者達と向き合い、説得して、地上に帰さねばなるまい。

 熱でふらふらする身体を何とか律し、サシュヴァラルに願いを告げようとした時、アイビスの耳に、水流に乗って、呻くような声が聞こえてきた。

『アイビス……、アイビス……!』

 自分を呼ぶその声はひどく苦しげで、わんわんと幾重にも反響して聞こえる。しかしその声に聞き覚えがあって、アイビスは目をみはった。

「ファディム……?」

「あいつが、どうして?」

 義兄の名を口にすれば、サシュヴァラルが驚きと苦々しさを込めた顔で見下ろしてくるので、ふるふるとこうべを横に振る。何故、ファディムの声が聞こえたのかはわからない。だが、汐火垂の向こうに崖から落ちる姿が最後の記憶となった彼が、五体満足で王宮へ帰って、平然と姉の隣に立っているとは思えない。何か良からぬ目に遭っただろう事は、容易に想像出来る。それが故に、アイビスを呼んでいるのだろう事も。

「サシュ」

 油断すれば力が抜け、その場に崩れ落ちてしまいそうな身を必死に支えながら、人魚の王子の肩にすがりつき、懇願する。

「わたしを、連れて行って。あの声の元へ」

 途端に、サシュヴァラルの深海色の瞳が険を帯びた。彼がファディムを嫌っている事は重々承知している。アイビスを彼に会わせたくない、と思っているだろう事も、容易に想像出来る。

 だが、ファディムの身に何かが起きているとしたら、そこまで追い詰めたのは、サシュヴァラルを救おうと無茶をした自分の責任だ。落とし前は、つけなくてはいけない。自分はまだ、彼を疑った事を、謝ってもいないのだ。

「お願い」

 サシュヴァラルの瞳をじっと見つめ、熱と共に、こいねがう。彼もまたアイビスの瞳に宿る炎を真摯に見つめ返し、数秒、押し黙っていたが、やがてつっと視線を逸らし、

「……わかった」

 と、神妙にうなずくと、再びアイビスに向き直る。

「だけど、絶対に俺から離れないでくれ。無理もしないでくれ。約束出来るか」

 この真剣なまなざしを裏切りたくはない。無茶をして、彼の目の前で泡となって消える無様を為したくはない。熱を持つ拳を胸元でぐっと握り込んで、大きく首肯した。

 アイビスの覚悟を受け取ってくれたのだろう、サシュヴァラルが「行こう」と左手を差し出す。拳を解いて右手を載せると、今までにない強い力で握り返される。彼もまた、アイビスの存在が儚くならないように、こうして感触で確かめているに違い無い。こちらからも力を込める。

 サシュヴァラルの右手が輝きを放ち、銀色のトライデントが出現する。己の武器を一回軽く振るった彼は、妹を振り返り、「シャオヤンテは、母上の所へ行け」と、強く言い含めた。

「兄貴」

「俺に万一の事があった場合、母上の跡を継ぐのはお前だ。お前まで、海から失われてはならない」

 どおん、と再び城が揺れる。シャオヤンテは、憮然とした表情で兄を見すえていたが、決して愚かな少女ではない。

「せいぜいアイビスを守り切るんだよ。そんな言葉、遺言になんかさせないからね!」

 ぎん、と鋭い眼光でサシュヴァラルを睨みつけると、素早く身を翻して、兵達と共に部屋を泳ぎ出てゆく。

 それを見送ったサシュヴァラルは、アイビスの手を引いて、泳ぎ出す。火照りきった身体はふらふらで、視界もぐるぐる回っているようだが、そんな事で彼の足手まといになりたくはない。アイビスは意を決し、両足で水を蹴れば、以前よりずっと軽く水中を泳げるようになった気がした。

 アイビス、アイビス、と。

 自分を呼ぶファディムの声は海底に響く。人ならざるものへ変貌する恐怖よりも、彼を案ずる気持ちの方が、今のアイビスの心を占めていた。


 震動の続く海底の城に、灘雪の白をかき消すほどの赤が染み出していた。あちこちで、銛を持つ海底の人魚達が、剣を振るう地上の人間達と切り結んでいる。どちらかがどちらかを斬り倒した血煙が、水中へと立ち上っているのである。足のある人間達が身につけた鎧は間違い無く、十数年毎日目にしていた、エレフセリアの兵のものだ。

『アイビス、アイビス』

 その戦いを横目に、よりはっきりとしてゆく自分を呼ぶ声が耳朶を振るわせるのを感じながら、アイビスはサシュヴァラルに手を引かれて泳ぐ。かつて相争って地上と海に分かたれたひとびとが、再びこうして武器を交えている。永の時を経ても変わる事の無かった争いの虚しさに胸を締めつけられる。が、振り返ろうとしたところで、「アイビス」とサシュヴァラルにより強い力で手を引かれた。

「この場の戦いを止めたい君の気持ちもわかるが、この乱戦の中に飛び込んでいったところで、君が王女と気づかれずに斬り捨てられる。ならば、首魁を見つけ出して討つべきだ」

 言われて、きゅっと唇を噛み締める。そう、これだけ戦闘に昂ぶった兵達の前へ飛び出しても、エレフセリアの兵はアイビスをアイビスと認識しないのが関の山だ。もしかしたら、尊大な姉タバサから、自分を見つけ次第殺せ、という命令を下されていてもおかしくはない。

 それに、段々と近くなるファディムの声が気になる。あまりにも苦しそうで、早く彼をその苦痛から解放せねば、という思いが、満身創痍のアイビスをかろうじて突き動かしていた。

 やがて城の入口に辿り着いた時、アイビスとサシュヴァラルは、信じがたいものを目の当たりにして、しばし言葉を失い、その場に揺蕩ってしまった。

 そこにいたのは、伝承の『竜』に似た、しかし『竜』と呼ぶにはレヴィアタンとは別の意味でかけ離れている、非常に醜い生物であった。背丈はアイビスの五、六倍ほどだろうか。枯葉色の爛れた皮膚に覆われた顔に目と思しき器官は見当たらず、黒い嘴を持つ裂けた口には刃物のごとき牙がぞろり。あちこち穴の空いた背鰭胸鰭は鬱陶しそうに揺れて水流を巻き起こす。そして、烏賊のような足が生えた半透明な上半身と、深海鮫を思わせる長い下半身をめちゃくちゃにばたつかせて、何とか攻撃を加えようとする人魚達をはね飛ばし、何度も城に体当たりを繰り返して、建物の柱にひびを入れていた。

『アイビス、アイビス、アイビス!』

 その口からひとの言葉が放たれているとは到底思えないが、自分を呼ぶ声は、確かにこの竜のなりそこないが発しているとしか思えない。

「――ファディム!?」

 アイビスが義兄の名を呼ぶと、なりそこないは一瞬動きを止め、やけに緩慢な動きで、アイビスに向き直る。脚を朱い鱗に覆われた自分の姿は、彼に見えているのだろうか。いやそもそも、彼はアイビスをアイビスと認めてくれているのだろうか。

「ファディム!」

 身を乗り出して再度呼びかける。なりそこないの生物は、化膿した喉の奥で低い唸りをあげ、何かを思い出そうとするかのように首を振る。

『アイ、ビス』

 こちらの声が届くのか。彼はまだ、元の姿を取り戻す事が出来るのか。漂い始めた希望的観測はしかし、なりそこないが咆哮を放ちながら鰭(ひれ)を振り上げる事で打ち砕かれた。一発でひとを潰せそうな鋭い一撃が振り下ろされ、サシュヴァラルが咄嗟にアイビスの身を抱きかかえて水を蹴ったが、鰭の巻き起こした水流は強く、海の王の継承者をして自由に泳ぐ事を奪われ、しばらく上下に揺れる羽目になった。

 駄目なのか。あの頼り無いが親愛を込めて見つめてくれた笑顔を取り戻す事は、もう出来ないのか。諦めの雲がうっそりとアイビスの胸に漂い始めた時。

「これはこれは、アイビス王女!」

 こんな時まで芝居がかった、慇懃な声が聞こえて、サシュヴァラルと共に睨むようにそちらを見やる。それまでなりそこないの陰に隠れて姿が見えていなかった、薄い金髪の中年男が、水に揺れる口髭をいじりながら、にやにやとした笑いを浮かべていた。

 ジャウマ。彼がエレフセリア兵を連れてきたのか。何故、海底で平気な顔をして立っていられるのか。アイビスの疑念は顔に出てしまっていたらしい。

「不思議だ、というお顔をされていますね。しかい、何という事は無い」

 将軍は髭から手を離し、まるで演劇の役者でもあるかのように両腕を広げて宣った。

「タバサ様が、ストラウス王の金庫を開けて、リザ王妃の日記を見つけ出されたのですよ」

 アイビスはひゅっと息を呑む。たしかに、母は毎日、ペンを持って机に向かい、日記を書いていた。一度だけその中身を背中からこっそりと覗いた事があるが、アイビスには到底解読出来ない某かの文字が使われていて、内容を知る事を諦めてしまったのだ。

 母の死後、日記はストラウス王の手に渡ったが、父も「これは私にも読めないな」と苦笑した後、その日記がどうなったか、アイビスが知る由は無かった。それをタバサが持ち出し、解読したというのか。

「簡単な暗号ですよ。タバサ様は聡明なお方だ、すぐに気づいた」

 ジャウマは滑稽なほど優雅に両腕を水中に舞わせ、そして掌同士を向かい合わせる。

「古エレフセリアの言語を、反転文字として書いただけ。鏡に向き合わせれば、すぐにわかりました」

 そうして解読した結果、頁の殆どは、他愛無い日々の出来事であったが、時折、海の民リーゼロッテとしての記述が残っていた。アリトラ海の底には、本当に海の民の城がある事。人魚の血を飲めば、海底でも人間は生きてゆける事。そして、海の魔女からもらった、少量でひとをひとならざる者に変える毒を、自室に隠した事。

「その結果が、これか」

 呆然とするアイビスの横で、サシュヴァラルが語調に怒りを滲ませながら、ファディムであった竜のなりそこないを見上げる。ジャウマはそれを愉快そうに見やって、邪悪、という言葉が似合うほどに唇を歪める。

「なにゆえか、岩場に繋がれていた人魚を見つけましてね。これがそれを食い殺し、残った血を我々で分け合った次第であります」

 役立たずの第五王子が、最後に役に立ちましたよ。そう付け加えて、将軍はくつくつと肩を揺らした。

「エスタリカを殺したのか」

「それが罪だと言うのなら、あんな所に迂闊に人魚を繋いでおくそちらが悪い」

 サシュヴァラルの憤怒が、アイビスの胸にも鋭く刺さる。エスタリカはたしかに自分に悪意しか向けなかったし、殺されかけもしたが、それも全て、同じ異性を想うがゆえの哀しい行き違いだった。嫌いではなかったのか、と問われれば首肯出来ないが、むごたらしい死を迎えても良いとまでは思っていなかった。この事態を引き起こしたのは、自分の存在のせいなのだと、熱を持った身体の中で、腹の底だけが急速に冷えてゆく感覚を覚えた。

「さあ、与太話はここまでにしましょうか」

 再び暴れ始めた、ファディムだったものから外した視線をこちらに向けたジャウマが、ゆっくりと鞘から剣を抜く。

「滅びよ、海底に永く棲み着いた化け物ども。全てはエレフセリアの」

 打ち切って、「いや」と、彼は悪魔のごとき笑みを浮かべる。

「この私の手に!」

 サシュヴァラルがアイビスから手を解き、「下がって!」と一声を浴びせながら肩を押す。流されるままにアイビスがよろめいた一瞬後、気合いを吐いて斬りかかってきたジャウマの剣を、サシュヴァラルのトライデントが眼前すれすれで受け止めていた。

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