第4章:人魚姫は泡に還るか(2)
サシュヴァラルに右手を引かれ、アイビスは城の外へと出た。珊瑚礁が続く海底に、灘雪はしんしんと降り積もり、元々は紅かったに違いない海の花に、白の薄化粧を施している。これがいつかは死して海流に乗り、エレフセリアの浜に打ち上げられてゆくのだろう。
手を引かれるまま、心惹かれるまま、アイビスはサシュヴァラルと共に、青い海の中で淡紅色を放つ珊瑚の上を泳ぎゆく。先程の探検の時は、未知の領域へ踏み込む緊張と、一人でゆかねばならないという孤独感で、周りの景色を見る暇など無かったが、今、腹も心も満たして見渡す海の底は美しく、浜辺を歩いていて眺め、あるいは空を舞っていて見下ろした海とは、遙かに様相を違えて見える。
「これが、母様がいつも見ていた景色なのね」
感慨深げにぽつりと洩らすと、「ああ」とサシュヴァラルが鷹揚にうなずいた。
「いつか、この景色を君に見せたいと思っていた。ずっと一緒に、こうして泳ぎたかった」
夢が叶ったよ、と手を引き寄せられ、反対の手も握り込まれて、彼と向き合う形になる。改めて見つめる人魚の王子の顔は非常に端正で、地上で足を生やして王族の衣装を着込み、夜会に出たら、あっという間に女性に囲まれるだろう。そんな美丈夫を前にして胸が高鳴り、そして、娘達に言い寄られる彼の姿を想像すると、何だか腹立たしく思う自分がいる事に気づいて、少し恥ずかしくなり、心臓が更にどきどきと速く脈打ち始める。
アイビスのそんな動揺を知ってか知らずか、サシュヴァラルは至近距離で微笑むと、一際強く水を蹴った。両手を取り合っているので、自然、アイビスも共に泳ぐ形になる。
上へ下へ。緩急をつけて時に速く、時にゆったりと。笑い合いながらくるりと一回転。
まるでダンスを踊るかのように、人間の少女と人魚の青年は、海中を優雅に舞う。盛大な円舞曲どころか、一切の音も無い、脇を通り過ぎる魚も今はいない。灘雪だけが静かにふたりを見守る舞踏会。だが、真正面から見つめて微笑む深海色の瞳に、アイビスの心は浮き立ち、姉の顔色をうかがったり、こちらのペースを考慮しない婚約者と無様なステップを踏んで周囲に嘲笑されるような、地上のどんな宴よりも心安く、楽しい遊泳であった。
やがて逢瀬の時間は終わり、城に戻ってくると、庭に用意された白い岩のベンチへ導かれる。人魚も人間と同じように、腰を休める場所が必要なのだろうか。疑問に思いながら腰掛けると、サシュヴァラルもその隣に、軽く寄りかかるように収まった。
ふたり、手を繋いだまま、遙か高みから降りしきる灘雪を見上げる。思わずぽかんと口を開けていると、一粒が舌の上に乗ったので、反射的に咳き込んで吐き出す。アイビスの口から飛び出した、小さな海の民の名残は、ゆらりと水の流れに身を任せて、いずこかへと揺蕩っていった。
「どうだい?」
サシュヴァラルが、小首を傾げてこちらの顔を覗き込んでくる。
「海は、君の故郷は、君のお気に入りになれたかな」
そう。母リザが海の民だったならば、彼の言う通り、ここはアイビスの故郷ともなるのだ。海底へやってきて以降、胸を締めつける郷愁が、わずかながら常に存在しているのは、母の、人魚の血を引いているが故なのだろう。
ここには地上のように、光を注ぐ太陽は無いが、サシュヴァラルという太陽がいる。アイビスの心に、太陽より強い熱を注いでくれる、青い真摯な視線がある。全てを吸い込みそうなその瞳を見つめながら、ずっとここに留まって、久遠の時を過ごせたら、どんなに幸せだろう。
精一杯の笑顔を見せてうなずこうとして、しかし、アイビスの脳裏に、一筋の曇りが差した。
もう一つの大切な故郷、エレフセリア。地上は今、どうなっているのだろう。
ふっと笑みを消してうつむいてしまったアイビスの心中を察したのだろう。サシュヴァラルが、酸っぱいものを呑み込んでしまったような顔をして、神妙に問いかけた。
「アイビスは、地上へ帰りたいのか?」
その言葉に、ゆるゆると首を縦に振る。
「ファディムの安否を、確かめないと」
ジャウマに崖から突き落とされた義兄は今、どうしているだろうか。生きているだろうか。せめて無事を確認する為に、一旦地上へ戻れないだろうか。その事も含めて、今後の身の振り方を、メーヴェリエル女王に相談したい。
アイビスの答えを聞いた人魚は、ぷくうと子供のように頬を膨らませた。
「俺じゃあない、他の男を心配するなんて」
そういえば彼は、最初に会った時から、やたらファディムに敵意を向けていた。あの時はすぐに思い至らなかったが、想い人に近づく異性がいれば嫉妬するのは、地上の民も海の民も変わらないらしい。ましてやサシュヴァラルは、過去の姿の記憶から察するに、アイビスとさほど変わらない年齢だろう。次代の海の王とはいえ、精神的に未熟な部分が多くあるに違い無い。
それを思うと、サシュヴァラルに申し訳無い気持ちが立つのだが、謝罪の言葉を述べる前に、「だけど」と、柔らかい抱擁がアイビスを包み込んだ。
「そんな心優しい君だからこそ、俺は大好きなんだ」
水の流れとなって耳元をくすぐる囁きに、頬が熱くなる。落ち着きかけた心拍数がまた上がる。だが、薄い衣装越しに触れた彼の胸も、少し速く脈打っているのが伝わって、アイビスは意外な気持ちにとらわれた。
平然と気取った言葉を放っている振りをして、サシュヴァラルもまた、虚勢を張っていたのだろうか。それに気づくと、彼は本当にまだまだ子供なのだな、と思い至って、くすりと笑いが零れた。
何がおかしいのだろう、と解せぬ様子でサシュヴァラルが見下ろしてくる。そんな
柱の陰から飛び出してきた何者かが、アイビスが振り向くよりも速く、剣呑な光を振りかざす。どす、と鈍い音を立てて、熱い衝撃が背中に訪れ、遅れて未知の痛みが襲いかかってきた。
「アイビス!?」
耳鳴りがして、サシュヴァラルが愕然とした表情で呼びかけるのが、遠く聞こえる。背中に刺さった何かが引き抜かれる気配がしたので、何とかこうべを巡らせれば、そこにいるのは、広間で悪口を垂れて出ていった女人魚だ。エスタリカ、と言ったか。
「サシュヴァラルは私のものよ! 盗らないでよ! 海の民でもないのに海猫の名前を持つ泥棒じみてるくせに!」
アイビスの血がじんわりと水に溶けてゆく。魚の骨を削り出した短剣を握り締めたまま、エスタリカは銀色の瞳をぎらぎらと狂気に輝かせ、怒りの余りに笑みさえ浮かべながら、再度短剣を突き立てようとする。が、サシュヴァラルの行動の方が早かった。憤怒を顔に満たすと、アイビスから一旦腕を解き、エスタリカの細い腕をねじり上げて背に回す。
「誰か! 誰か来てくれ! アイビスが!」
エスタリカをベンチに押しつけて、サシュヴァラルが声を張り上げると、女の形相は更に歪んだ。
「何よ! いつもいつもその女の事ばかり! 私はこんなにあなたの事を考えてあげているのに!?」
「黙れ」
狂ったように呪詛を吐く嫉妬の塊を、サシュヴァラルはひどく冷たい表情でぴしゃりと黙り込ませる。
「本当に俺の事を考えているなら、こんな事はしない。お前は、お前自身の事しか考えていなかったんだ。お前は、海の民失格だ」
自分が好意を寄せていた――と思い込んでいた――相手に、全てを否定された狂える女は、顔色を失い、ふるふると唇を震わせる。その間に、サシュヴァラルの声を聞きつけたか、シャオヤンテが数人の兵を引きつれて、急いた様子で泳いできた。
「お前への沙汰は、母上が下す」
最早反論する気力も失せたのだろう、ぐったりと
全身に力が入らない。自分の周りが、背中の傷から流れる血と、口から吐き出した血で、赤く染まってゆく。大丈夫、とサシュヴァラルに返そうとしても、頭がぼうっとし、口の中では舌が膨れ上がっているようで、言葉は何も出てこない。
「アイビス、アイビス!」
サシュヴァラルが自分を抱き締めて、必死に呼びかけてゆく感覚も遠くなる。深淵の闇がアイビスを包み込んで、彼女はそのまま意識を失った。
エレフセリアは夜の帳の中にあった。王宮の周りには篝火が焚かれ、建物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
その一角、王の寝室で、エレフセリア第一王女タバサは、父お気に入りの籐のソファにかけている。背丈の低いテーブルを挟んだ向かいには、ジャウマ将軍が座って、お互いまるで自室のようにくつろいで酒を酌み交わしていた。
「いや、これは美味い」
鷲鼻の下の、金の髭を満足げに動かしながら、将軍は、透明なグラスに血のように注がれた赤い
「そりゃそうよ。十年ものをわざわざ大陸中央から取り寄せたんですから」
「祝い酒という訳ですな」
タバサが同じ酒を含みながら鼻を鳴らすと、ジャウマはグラスから口を離し、その口をにたりと歪める。
「全ては、タバサ様のご計画通りに進んでおります」
妹である第二王女アイビスは、人魚にさらわれた。手引きをした夫ファディムは厳罰に処せられ、追放の身となって、明日、海に流される。それをディケオスニに報告すれば、愚かな王子を婿に寄越した慰謝料と、代わりの王子がもたらされるだろう。どうせなら、一度かの国を訪れた時に見た、第三王子の顔がかなりの好みだったから、要求してみようか。タバサはほくそ笑み、葡萄酒の入ったグラスに己の顔を映し出して、口角を持ち上げる。
「これで、エレフセリアはあたしのもの」
満足げに酒をあおり、傲慢な第一王女はおもむろに、寝台に伏せる父の方を向く。
「何にももらえなかったんだもの、それくらいは、もらっても良いわよねえ、お父様?」
蛇が這うかのごとくねっとりとした呼びかけに、しかし、ストラウス王は応えない。ああ、とか、うう、とか呻くばかりで、言葉を成さない。その目は虚空を見つめ、宙に向かって突き出された枯れ枝のような腕には、毒を受けた人間特有の斑点がびっしりと浮かんでいる。
「恐ろしい方だ」
ジャウマがにやにやと笑みを崩さないまま呟いて、グラスを仰いだ。
「敵に回したくないな」
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