第3章:水底に揺蕩う雪(5)

「下がれ、アイビス!」

 トライデントを腰だめに構えたサシュヴァラルが、アイビスの前に泳ぎ出て、レヴィアタンと向かい合う。

「君では手に負えない相手だ!」

 たしかに、エレフセリアの伝説に語られるレヴィアタンは、その一かきで大波を起こし、牙は鯨を噛み殺して、爪は金剛石ダイヤモンドすら砕くという。そこまで巨大ではないが、サシュヴァラルの十倍ほどはありそうな体躯はダンスホールを一杯に満たし、自身が放つ光に照らされる瞳は金色にぎらぎらと輝いている。ぞろりと牙ののぞいた口から咆哮を放ち、水をびりびりと震わせる。サシュヴァラルでも手に負えない、話の通じない相手である事は一目瞭然だ。

 どうすれば良いのか。アイビスは周囲を見回して、レヴィアタンの背後、放つ光にうっすらと照らされる、金属の小箱をみとめた。

「サシュ、あれ!」

 アイビスが指差す先を見て、サシュヴァラルも目をみはり、それから、苛立たしげに舌打ちをした。これまでの彼の態度からは想像も出来なかったが、この不遇な巡り合わせに不満を表したくなる気持ちは、痛いほどわかる。アイビスも文句を言いたいくらいだ。

 小箱には錠がかかって、いかにも大事なものです、とばかりに存在を主張している。ここまでの道程から考えても、この沈没船に納められた宝はその中にあって、このレヴィアタンが、宝の守り主という訳だ。

 メーヴェリエル女王はかつて、夫を奪った地上の国を滅ぼした。その怒りはいまだ治まらず、人間を憎んでいても然りだろう。いわんや、地上の民であるアイビスをも。試練と告げて、人間をこのレヴィアタンの餌食にしてきた事も、充分に考えられる。

 しかし、そこまで考えて、いや違う、とアイビスは首を横に振った。どんな国でも、暴虐を働く愚かな王に、民はついてこない。マル・オケアノスの民に、メーヴェリエルを極度に恐れたり、疎んじたりする様子は、少なくとも謁見した時の兵達の態度からは見られなかった。彼女は決して、姉タバサのような暗愚な為政者ではない。

 では、あるのだ。この海竜をかわして、宝を手に入れる方法が。そしてそれは、代々の王と、この船を攻略した探索者だけが知る手段なのだ。

 ならば、サシュヴァラルが海竜と向かい合っている間に、答えに至らなくてはならない。それを、空を飛ぶ時風を読むように、的確に捉えねばならない。すいすいと泳ぎ回りながら鋭い爪をかわし、威嚇にトライデントを振るう人魚の王子の姿を横目に追いながら、アイビスは必死に考えを巡らせる。しかし、焦りは混迷を生み、混迷は更なる焦燥を煽る。頭に血がのぼり、血流が鼓膜を強く叩く鈍い音が、煩わしく聞こえた。

 サシュヴァラルの苦悶の声が混じったのは、その時だった。レヴィアタンの尾の一振りが人魚をダンスホールの壁際まで弾き飛ばし、永の腐敗で脆くなっていた壁にめり込んだ彼が、苦しそうに顔を歪める。人魚の回復力は驚異的といえど、しばらくは動けないだろう。あの巨体の一撃を受けたのだ、骨が折れていてもおかしくはない。

 どうすればいい。その考えだけが頭の中でぐるぐると巡り、アイビスは自然と、困った時に頼りにした人へ願いを託していた。

(母様)

 母ならどうしただろうか。この状況に、自分を愛しく想ってくれるひとの危機に、どう立ち向かっただろうか。ありもしない返答を求めるように目をつむり、両手を組んだ時。

『大丈夫よ、アイビス』

 子供の頃、そう微笑んで頬を撫でてくれた母の手の感触がしたかと思うと、カンテラの青白い光ではない淡い輝きが目の裏に滑り込んできたので、はっと目蓋を開く。そしてその目を更に見開いた。

 組んだ右手の薬指に通していた、母の形見の蛋白石が、光を放っている。はじめは淡い白に、次第に強い虹色に。そして七色の光輝がダンスホール全体を明るく照らし出した。水中に浮かぶ椅子やテーブル、談笑を楽しんでいた人々が使っていたのだろう、割れてしまったワイングラスが視界に映る。白い体毛に覆われたレヴィアタンの姿も露わになる。

 だが、驚きはそこで終わらなかった。蛋白石の輝きを浴びた海竜は、突然戦意を失い、喉の奥で小さく唸り声をあげたかと思うと、アイビスの前に身を伏せて頭を低くし、大人しくなったのである。まるで、アイビスが主であるかとばかりに。

「どういう事だ?」

 信じがたい、という色を込めたサシュヴァラルの声が聞こえたので、傍らを振り仰ぐ。いつの間に隣に来ていたか、彼もまた、吃驚きっきょうを隠せない様子で、アイビスの手元を見つめている。

「アイビス、君はその指輪の使い方を知っていたのか」

 問いかけに、ふるふると首を横に振る。これはただの母親の形見だと思っていた。出所も知らない。母が常に身につけていて、『リザは私からの指輪をはめてくれない』と、父が冗談交じりに嘘泣きをしていたのも、鮮明に覚えている。海竜を鎮める効果があるなど、夢にも思っていなかった。

 しばらくの間、ふたりは指輪とレヴィアタンを交互に見やって言葉を失っていたのだが、「とにかく」と、先に気を取り直したのは、アイビスだった。

「宝の正体を確かめないといけないわ」

 虹色の明かりの下、床を蹴って水をかき、微動だにしない海竜を横目に見ながら宝箱のもとへ泳ぎ着くと、錠にタツノオトシゴの鍵を差し込む。単純な造りの錠前は、自然の鍵を素直に受け入れ、宝箱の蓋は簡単に開いた。

 そこからふわりと浮いてきたものをつかみとめて、まじまじと眺め、アイビスはまたも言葉を失う。サシュヴァラルも横からアイビスの手元を覗き込み、「これは……」と先を継ぐべき台詞を見失ったようだった。

 それは、一枚の写真。過去の思い出を焼き付けて残すカメラ技術は、エレフセリアにはほとんど普及していないが、外の大陸には、数百年以上前でも既に一般的な文化として根付いていた地がある。この沈没船は、そういう場所から来たのだろう。

 永い間水にさらされ、色褪せてもわかる、日焼けした背の高い男性と、美しく若い女性と、二人の手を握っている幼女。三人ともが、幸せの時を分かち合い、満面の笑みを浮かべている。恐らく、この中の誰かが、あるいは全員が、この船に乗っていたのだろう。それを思うと、つんと鼻の奥が突かれたように痛み、目の奥が熱くなった。

「これを持って帰れば良いのか」

 サシュヴァラルが促したが、アイビスは首を横に振っていなみ、写真を宝箱に仕舞ってそっと蓋を閉じると、元通りに錠をかけた。

「女王陛下は、『見て帰った時』とおっしゃったわ」

 そう、メーヴェリエルは宝の正体を知っていた。だから『持ち帰れ』ではなく、『見て帰れ』と命じたのだ。これは次にこの船を訪れた人間の為に、ずっとここに残しておくべき物だ。今までの探索者もそうしてきたのだろうし、この先も、そうして受け継がれてゆくのだろう。

「行きましょう」

 涙など水に溶けるのはわかっているのに、目尻にわだかまっている気がして、そっと指で拭い、サシュヴァラルの手を取る。彼もアイビスの意図を全て受け取ってくれたのか、深くうなずき、しっかりとこちらの手を握り返してくれる。

 母の形見の指輪の光明は消えて久しい。しかしレヴィアタンはいまだ床に伏せたまま、金色の瞳だけをじっとアイビス達に向けて、ふたりがダンスホールを出てゆくまで、ただただ静かに見送っているばかりであった。


 サシュヴァラルと共に、凜とした表情で広間に入ってきたアイビスを見た時、メーヴェリエル女王は一瞬、明らかな驚きで蒼い目を見開いた。が、すぐに余裕を取り戻すと、青い唇をにやりと持ち上げる。

「よく帰ってきたの」

 そして、興味津々で玉座から少し身を乗り出してきた。

「宝はわかったか?」

 問いかけに、アイビスは深くうなずき、そしてはっきりと口にした。

「『絆』です」

 まるで謎かけのような宝探しではあったが、地上の民と海の民が手を取り合い共に生きる事を示すには、最高の宝であった。それを今、ひしひしと噛み締める。

 アイビスの答えは、間違っていなかったのであろう。メーヴェリエルは満足げに深くうなずき、「合格じゃ」と、錫杖をしゃんと鳴らした。脇を固める兵達も、笑顔で拍手を送ってくれる。これでアイビスは、晴れて海の民の仲間となれたのだ。

「して」

 女王が眉間に皺を寄せ、アイビスの傍らにかしこまる我が子を見やる。

「レヴィアタンはどう治めた? その様子では、そこなどら息子が倒した訳ではなさそうだが」

 その言葉に応えるように、アイビスは自らの右手を、女王に見えるよう差し出した。蛋白石の指輪は今は静かな輝きをたたえ、ただ指にはまっている。だが、それを目にしたメーヴェリエルは、先程以上の吃驚を面に満たし、玉座から腰を浮かせた。

「そなた」震える声が、女王の唇から零れ落ちる。「そなたの母の名は」

「リザです」

 何をそんなに驚愕しているのだろう。不思議に思いながら答えると、途端に女王の顔が、泣き出しそうなのを必死にこらえるかのようにくしゃりと歪んだ。

「リザは、リーゼロッテは」

 大事に舌に乗せるように、メーヴェリエルはそれを告げた。

「わらわの妹、この海の王族じゃ」

 今度はアイビスが驚きにとらわれる番だった。だがすぐに、青い髪と瞳を持っていた母の容姿に納得を得る。記憶を辿れば、母と目の前の女王の顔立ちにも、共通する点が見受けられる。

「その指輪は、海の王族が海の民を鎮める力として、我ら姉妹の父が海の魔女に作らせ、リーゼロッテに贈ったものだ」

 リーゼロッテはとても好奇心旺盛な人魚で、地上に憧れを抱き、よくエレフセリア海面の岩場に上がっては、人と同じ足に化けて、人間達の生活を眺めていたという。そこでストラウス王に見初められ、真に地上の民となった。

 だが、人魚が陸に上がれば、代償に、その寿命は恐るべき勢いで削り取られる。メーヴェリエルは姉として妹の身を案じ、海に戻るよう兵を説得に向かわせたが、王妃となったリーゼロッテの決意は揺らがなかった。

『地上には、私を愛してくれる人がいる。私が愛する娘がいる。その人達を置いては帰れないわ。それに』

 それから、彼女はエレフセリアの遙か空を見上げ、満足そうに微笑んだという。

『地上の空は、美しい。私はそれを見ていたいの』

 その後、彼女が人として儚い天寿を全うした事を知り、メーヴェリエルはそれきりエレフセリアには興味を失っていたのだ。

「……その忘れ形見が、そなたか」

 話を終えた女王が玉座を離れ、傍らの兵に錫杖を託すと、虹色の鱗持つ下半身でゆっくりと水を蹴り、アイビスと真正面から向き合う形になる。

「たしかに、色は違うが、そなたには妹の面影がある」

 頬に触れた手が細かく震えている事から、メーヴェリエルの感動が伝わってくる。

「教えておくれ、アイビス。妹は、そなたの母は、幸せであったか?」

「恐らくは、はい」

 アイビスには、母の考えの全てはわからない。だが、己が身を不幸と嘆いた事は、記憶の限り一切無い。

「母はいつも笑っていました。父を、私を、エレフセリアの民を深く愛してくれました。善き母でした」

 その答えに、メーヴェリエルの瞳に優しい光が宿り、両腕が伸ばされ、ひんやりとした感触が肩を包んでくれる。

「そうか、ありがとう」

 万感の思いを込めて、女王が、いや、伯母が告げてくれる。

「『おかえり』、アイビス」

 優しい抱擁は母の腕を思い出させ、目から放たれたものが水中に混じる気配がする。アイビスも腕をメーヴェリエルの背にしっかりと回し、少し掠れた声で返した。

「『ただいま』、伯母様」

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