空飛ぶ人魚姫は泡に還るか

たつみ暁

プロローグ

 子供の頃、不思議な体験をした。

 毎日のように意地悪な姉にいじめられ、その日も「チビ」だの「頭足らず」だのと罵倒を浴びせられた。

 夏の陽光照りつける空の下、白い砂浜に飛び出し、寄せては引く波に素足を洗われ、服の裾を海水に濡らしながら屈み込んで、しくしくと泣いていた。すると、近くの岩場から、じっとこちらを見つめる視線を感じたのだ。

 つと、そちらを振り向けば、海原のように淡い青の髪と、より深い蒼の瞳を持った少年が、ぱっと笑顔を閃かせた。年の頃は、自分より二、三歳ほど上だろうか。女子にも見紛う整った顔立ちをしている。

 惹かれるように立ち上がり、数百、数千年をかけて珊瑚の死骸が砕けた浜を踏み締める。宙に舞う砂が、光虫が踊るようにきらきら輝く中を、ぱしゃぱしゃと水音を立てながら歩み寄ってゆく。少年は、こちらが近づいてゆくほどに、その表情の明るさを増していった。

 そして、ごつごつした岩場を歩き、少年と向かい合うと、不意にひんやりとした感触が手に触れた。少年の手だと気づくには、指に触れる皮膚がやや硬い事に違和感を覚えたので、少しの間が空いた。見下ろせば、その指と指の間に、水かきのような繋がりが見える。

 相手は、自分より低い目線から、こちらを見上げていた。それもそのはずで、岩場に立っている自分と違い、少年は、腰まで海に浸かって、水の中から手を伸ばしていたのだから。

「君」

 少し舌っ足らずな、高い声が、耳朶を打った。

「君。まるで、朱い鳥アイビス

 遙かなる青い高みを指差し、少年は眩しそうに目を細める。

「海の、僕。手、届かない。高い、飛べる」

 つられて見上げる。天に南中した太陽が、誘うように輝いている。

 ここへおいで、と。

「僕、海、泳ぐ。君、空、泳げる」

 ぽかんと口を開けていると、少年が八重歯をのぞかせ、弾むような声をあげた。

「一緒、泳げる!」

 たどたどしい言葉ではあったが、それは確実に、幼い心を打った。

 にっこりと。

 満面の笑みを見せ、手を離して、少年が身をひねった。次に見たものに、吃驚びっくりして目をみはってしまう。

 海に溶け込むかのように青く輝く鱗に覆われた、尻尾を持つ魚の半身。それが翻って水飛沫をあげる。

 何の見間違いだろうか。ごしごし目をこすって、拳を退けた時には、少年の姿はどこにも見当たらなかった。

 家族のもとへ帰り、少年の話をしても、父と姉はまともに取り合ってくれなかった。少しばかり綺麗な魚を見た興奮から、幼い作り話を思いついたのだろうと。

 姉に至っては、

「そんなろくでもない妄想ばっかりしているから、勉強も出来ないのよ。嘘つき馬鹿妹」

 と、嘲笑を浴びせかけてきたのだ。


 妄言を吐く嘘つき呼ばわりをされてびいびい泣き、夕食もろくに摂らなかった。だが、母だけは違った。娘と一緒に寝床に入ると、優しい手つきで髪を梳きながら、

「あなたは、海の底のひとと出会ったのよ」

 と、全身を柔らかい毛布でくるむような声音で告げた。

「この国が興る前、一緒に暮らしていたひと達よ。悲しい戦いがあって、地上と海に分かたれてしまったけれど、地上の民と仲良くしたいって思ってくれるひとが、今もまだいるという証拠」

 そうして、虹色の石を抱いた指輪のはまった指の細い手が、こちらの小さな手をそっと包み込んでくれる。

「どうか、彼にまた出会ったら、仲良くしてあげて。あなたが、地上と海の架け橋になってあげて」

 母の言葉は温かく身に染みる。頬を伝う冷たい感覚の意味もわからずに、しゃくりあげながら、何度も何度もうなずいた。


 それから、何度季節が巡っただろうか。

 優しかった母は、運命の姉妹神の末妹に気に入られたか、若くして御許に召され。

 彼女が海の底のひとと言った少年とは、久しく会っていない。

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