紅き月が支配するこの狂った世界で、人間の僕は何を思う?

三日月

目覚め、痛み、絶望

目が覚めると僕は、何故かさびれた教会と思わしき場所で、ベットのシーツと思わしき何かの上で横たわっていた。


 あたり一面に物と呼ばれるものは、視認した限りほとんどなく、あるのは暗闇と一つのランタンのみ。他には何もなかった。人も、動物も、物も、何もなかった。


「……ここは何処なんだろう」


 僕は今だ倦怠感を感じる体で、直近の記憶を頭の中で整理しようと試みるも、その途端脳に激しい痛みが走り、思考が阻害される。


 それはまるでこれ以上思い出すのを、僕の脳が無意識下の内に拒絶しているようで、なんとも言えない後味の悪さが口の中に広がり、喉がどんどん渇いていき、次第にその渇きは我慢のできない域に達する。


 僕はそんな喉を一刻も早く潤してあげたいのだけれど、生憎喉を潤おすことができる様な、水は近くにはなく、蛇口の一つも見当たらない。


「探さないと……」


 僕は立ち上がり、ランタン片手に教会の中を歩き回るが、それでも尚蛇口は見つからない。それどころか本来教会にあるべきイスも、教壇も見当たらない。そんな中、唯一存在するのは上段へと続く階段のみ。


 そんな時だった。突如として僕の両耳が激しく痛み始めたのは。


 その痛みと言ったら耳を何度も鋭利な刃物で切り裂かれるような、激しく、鈍い痛みで、僕はその痛さに耐え切れず、うずくまり、自身の耳があるのか確認する。


 するとそこには、当然耳があった。きちんと二つ、なんの異常もない状態であったのだ。


 でも痛みは今だ収まらない。むしろどんどん酷く、激しくなっていき、僕はたまらず獣の様な低く唸るような声をあげてしまう。


 そんな状況下がおよそ一時間程続いただろか。あの痛みは、まるで何事もなかったように引いていった。


 それだけではない。僕の身体は先程からずっと感じ続けていた倦怠感は嘘のように取り除かれ、思考も恐ろしくクリアで、さえわたっている。


 それに何より驚いたのは、僕の目の変化だった。先程まではランタンがなければ見渡すことができない程、あたり一面暗黒の世界が支配し置ていたのにも関わらず、今はそんな暗闇は何処に行ってしまったのか、はっきりとあたり一面を確認することができたのだ。


「これは一体どういう事なんだ……」


 その疑問に答えてくれるものなど、当然いない。何せ今、この場には僕以外の人間はいないのだから。


 それは気配と呼ぶべきものからかわかる。そう言えば先程まで感じていた喉の渇きも消えている。


「……外に出てみるか」


 この教会の出口は、正面にある大きな扉の身。それ以外は窓一つない。


 僕はゆっくりとした動作で高そうな意匠が凝らされた荘厳な扉の取っ手に手をかけ、扉を開こうとするがその扉は見た目以上に重く、半端な力ではまるで空く気配がない。


 ならばと僕は右足を後方に下げ、左足を軸に、両手に渾身の力を籠める。


 すると先ほどまではビクともしなかった扉は、『ゴゴゴ』という重苦しい音を鳴らしながら開き始めたではないか。


 僕はいつの間にかこれ程にまで大きな力が自身に会ったことに驚きつつも、何より外の世界を見ることに嬉しさを感じていた。


 でもそれと同時に感じる不安もあった。何せ扉を開けている際、入ってくる風にかすかに鉄のにおいとものが腐った、吐き気を催す様なそんな匂いが入り混じった香りが入ってきたからだ。


 けれどここで扉を開くことを止めた所で、意味はなく、一生外にでず、教会の中で生活していくのも無理なので、僕は興奮半分、恐ろしさ半分といった気持ちで、扉を開け続ける。


 そして扉が開ききった時、僕は一瞬目を疑った。


「なんだこれは……?」


 あたり一面に人工物と呼ばれるものはなく、あるのは木、木、木。僕のいた協会は、深き森の中に建てられていたのだから。


「お~い‼ 誰かいませんか‼」


 返事などなかった。あるのは、先ほどから残っているあの匂いのみ。


 僕はそんな事実に嫌気がさし、上空を見上げる。するとそこには、見事な月が浮かんでいた。その事に、僕は今地球にいるのだと安堵を感じていた。


 でもそんな安堵も数秒の事で、今の僕は体の震えが止まらなかった。


 何せ月の色が……あれほどにまで純白で美しかった月の色が、今では真っ赤に、人間の血の様な黒くて、紅い色に変貌していたのだから。


 一体全体何があればそうなるのか、僕は必死に頭を働かすけれど、答えは全て同じ『理解ができない』というもののみ。


 僕はもしかしたら違う世界に来てしまったのかと思いもしたが、あの赤い月を見ると僕のいる場所がどうしてか地球というのを嫌と言うほど思い知らされた。


 なんという悪夢だろうか。僕は試しに頬を思いきり抓るが当然痛い。そもそも先程感じた両耳の謎の痛みの時点で、僕は今現在夢の中にいるのではないと嫌というほど痛感している。


 にも関わらずそうしてしまったのは、これが悪夢であると僕の心が望んでいるからに他ならなかった。


「人……人を探さないと……」


 僕は一目散に、一心不乱に、森の中へと入っていく。そこに正気などなく、理性などで今すぐにでも弾け飛んでしまいそうだった。


 それに僕の身体は軽かった。おおよそ一キロは走っただろうか。それでも尚、息は上がらず、なんの疲労も感じていない。


 むしろどんどん興奮していき、どんどんその足は、人肌を求め加速していく。


「人……人……人……人……」


 独り言の様に、恨み言の様に僕はそう何度もつぶやき、足を動かす。


 そうするのが楽だから。そうしている間は何も考えなくてすむから。この辛い現実に目を向けなくて済むから。だからこそ僕は呟き続ける。


 そんな事をしながら僕は、やがてある場所で足を止めた。


 それは何も人を見つけたからとかではなく、むしろそれとは対極の物を見つけた。否、見つけてしまったからに他ならなかった。


「グルゥゥゥゥゥ……‼」


 その鳴き声は紛れもなく獣そのものだった。実際見た目も獣に近い。


 でも僕にはそれが獣ではないとわかる。わかってしまう。わかってしまった。


 何せその獣のサイズは明らかに普通ではなく、人間の三倍はあり、身体の半分は、ゼラチン質のような何物かで構成されていた。


 その様な存在僕は今まで見たこともなく、僕の生まれて気づいてきた知識の中にもそれに該当するものは、存在していない。


 そんな奴が、今僕の事を一人の獲物として見定めていた。


「ああ……あああ……」


 僕は自身の先程までの行動を呪った。何せ先程までしている異臭の正体。そいつは紛れもなくコイツから発せられていたのだから。


 僕は思考を停止している中、無意識下の内に鼻を衝くこの忌々しい匂いを辿って走ってしまっていたのだから。


 逃げようにも腰が抜けてしまって動かない。反撃しようにもその為の道具がない。


 その間にもゆっくりと奴は、僕との距離を詰めてくる。その口元から見える鋭い牙で、僕の喉元を喰いちぎろうと迫ってくる。


 僕はそれに対して何もできない。いくら必死に脳に命令しても、力を入れようとしても、鋼の様に既に固まってしまった体は動かない。


 誰の目から見ても僕の人生はこれまでで、そこに救いのないなんてものはなかった。


 わけのわからない状況下に置かれて、わけのわからない生き物に殺されて死ぬ。そんなつまらない人生だった。


 そんなくだらない事を考えている間に、獣は僕の喉元に食らいつこうと襲ってくる。


 僕は痛みに備え、恐怖から逃避するために瞳をそっと閉じたのだった。

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