どちゃシコやないかい!!って言ったら、女友達が出来た話

I田㊙/あいだまるひ

彼女は神

 ◇ ◆ ◇


 野々坂ののさか 恵壱けいいちが≪神≫と出逢ったのは、夏の、最大の同人誌即売会コミックバンケットでのこと。


 神の絵は、はっきり言って上手くはなかった。

 パースは狂い、胸や体つき、顔までページによってサイズがマチマチで、背景だってまあ並より下。時々コピー。なぜこの効果にしてしまったのだ? と疑問を浮かべたくなるようなトーン使いも散見される、微妙な一冊。


『なゆゆはいっぱいい~っぱいご奉仕します♡ 18禁〼』


 、とは大人気だったRPGゲーム『どこまでも広がる空』の美少女キャラクター、明日見あすみ なゆたの愛称である。

 だが、そのゲームが出たのはもう五年も前。Ⅲまで出たが、Ⅲまでを作ったプロデューサーが辞めた後に出たⅣは、同じキャラクターを使用しただけの全く別のゲームとなってしまった。人気のあったなゆゆも、別バージョンの何かへと変貌を遂げ、今では同人界での人気も下火だった。

 同人誌に書かれていたのは、服装はⅢのなゆゆ。

 そのなゆゆが主人公とあれやこれや――とまあそういう本だった。

 だが、この本に描かれているのは、なゆゆと言うのもはばかられる誰か。


 それなのに、恵壱は呟いてしまったのだ。


「どちゃシコやないかい!」


 もちろん、本人は心の中で叫んだつもりだった。

 だがそれは、声となって発されていた。彼の声はとてもとても小さなものだったが、その声は目の前の女性に届いてたのだ。

 神――宵見よいみ きらら。本名は解良けら 未唯みい

 同人誌を始めてまだほんの少しの18歳の彼女は、ぱっと、顔を上げて恵壱を見上げた。

 茶色く染めた髪を一つに縛り、大きな黒い縁の眼鏡を掛けている。そのせいでよく目元は恵壱に見えないが、色白で鼻筋は高く、頬もふっくらと甘いピンク色。唇は少し薄めだが、健康そうな紅色をしている。

 その唇が、うっすらと開いたかと思うと、こちらもまた目の前の恵壱に聴こえるか聴こえないかの小さな声で返答した。


「ほん、とうですか?」


 声を掛けられるとは思っていなかった恵壱は、それに驚き体をびくりと震え上がらせ、目をキョロキョロと忙しなく動かした。その声が、自分以外に向けられているのではないかという、一縷いちるの望みを持って。

 だが、彼女は真っ直ぐに恵壱を見ている。

 そうして、数秒の間はあったものの、なんとか言葉をひり出す。


「えぅ、あ、あ。お、俺に話しかけてるの――んですか? ほんとうって、なにが……?」


 18歳の自分より幼く見えたので、つい丁寧に話すことを忘れかけて、言い直す。

 声に出ているとは思っていなかったのだから、そうなるのも当然だ。


「はい、あの、今≪どちゃシコやないかい≫って……読みながら言ってたので。どちゃシコって、本当ですか?」

「んっふ!?」


 当然、口に出ていたとは思っていなかった恵壱は否定する。


「お、俺そんなこと……言ってないですよ!!」

「いえ、言いましたよ。確かに≪どちゃシコやないかい≫って……」


 未唯は、わざわざ繰り返した。


「んわー、わー!! 分かったので。分かりましたので。あの、女性が外でそんな言葉を何度も使うものでは……」

「あ! そう、ですね。ごめんなさい。嬉しくて……」


 未唯の言葉を押し止めると、そこで会話が途切れる。幸いにも周りはざわついていたため、自分だけでなくこの目の前の女性が二度ならず三度までも≪どちゃシコ≫なる言葉を使った事は、他の人間には聴かれていなかったようだ。

 だが、何かを続けようにも恵壱にはどう続ければいいのか分からない。

 喉が枯れたようになって、ヒュコッと音を立てながら息を吸い込んでしまい、咳込んだ。


「だ、大丈夫ですか?」

「ゲホッ、いえ、はい……」


 鞄にぶら下げていたペットボトルの水を飲み下す。

 

(めちゃくちゃ恥ずかしい……。穴があったら入りたい……。いやらしい意味ではなく)

 

 夏コミ会場が暑いだけではない何かによって、じとりと嫌な汗が出たのが分かった。

 恵壱も、元からコミュ障だったわけではなかった。

 昔はもっと――普通に女の子、女性とも喋れていた。

 こんな風になったのには、原因がある。

 世のコンプレックスを持つ人達が、内外に何かしらの原因を持つように。


『キッモ。近寄んなよ、マジ』


 言葉の刃とは、恐ろしいものだ。

 見えないのに消そうとしても消えず、ふと思い出してしまい、傷をグズリと刺激してくる。コミュ障になった切っ掛けの出来事をほんの少し思い出しただけでも、ブルリと下からせり上がるように体が震える。


 ――女が、こわい。


 だが、二次元に出会った。

 二次元なら、あんなにきつい言葉を投げかけては来ない。

 自分を傷つけるような言葉は、言わない。

 いや、言うか。

 言うがそれは性感を上げるためで、本心からの蔑みではないものだ。

 二次元であれば、あれもまたいいものだ。

 二次元だからだ。二次元であるからいいのだ。

 二次元は、現実に目の前にあって、現実ではない。

 次元と言う狭間は、そこに勝手に一線を引いてくれる。だから、怖くない。


 恵壱はそのまま、買おうと思っていた本を置いて去ろうかとも思ったが、ふと、目の前にいる女性が、勇気を振り絞って話しかけてきたのだと分かってしまった。

 テーブルに置かれていた手が、震えていたから。


(……もしかしてこの人も、俺と同じコミュ障なのかな)


 失礼だとは思いながらも、そう思ってしまう。

 居た堪れなくなって、恵壱は


「い、いくらですか。えと、これ」


 オドオドしている未唯に本を掲げ、オドオドと値段を訊く。

 はたから見れば、とても滑稽こっけいだっただろう。

 それは彼にとって本当に勇気が必要なことだった。

 女性に話しかけるということ自体が、五年ぶりだったのだ。普段だったら、もう本を無言で置いて、その場から20メートルほど速足で離れているところだ。


「あ! は、はいあの! 500円です」

「えと、じゃあこれ、500円」


 すでに100円、500円、1000円に細かく両替済み。

 硬貨別にパンパンに詰めてある小銭入れの一つを取り、500円をさっと渡す。

 目の前の女性は恵壱に掌を差し出しているが、恵壱は掌に置かず、すっと机の上に500円を置いた。


 ――それが、精一杯だった。


 女性に触るなど、もってのほかだ。

 触ったが最後『何触ってんだ、キモ男が。手が腐る』などと、言われるのだ。


「ありがとうございます! あの、もしSNSやってるんでしたら、本の最後に私のアカウントを載せてるので、良かったらDMダイレクトメールとかで感想を下さい。きついこととか、言ってくれていいので」


 やはりビン底のような眼鏡の奥の眼は見えなかったが、口角を上げて嬉しそうな声でそう彼女は告げる。


「え、うぁ、は、はい……」


 正直、するわけがないだろうと、恵壱は思った。

 初参加丸出しの、ただテーブルに布をセッティングして、本を置いただけのサークルスペース。大して絵も上手くないサークル。ジャンル自体も過疎ジャンル。

 感想を出せば、それこそ誰の感想か分かってしまうだろう。

 だが、女性に気圧されて『はい』と答えてしまった。


 ――恵壱は嘘だけは吐かない。


 そう自分で決めている。

 書かなければその返事が嘘になってしまう。

 感想を送るしかない。

 18禁本の感想を生まれて初めて出すことになるのだと思うと、少し気が重くなった。

 だがDMなら、分かるのは本人にだけだ。それならまあ別アカウントを使えばいいだろうと考えた。


 そうして、恵壱は会場のだるような暑さの中、女嫌いを克服することができた――というと誇張が過ぎるが、ともかく五年の時を経て、やっと女性と声を交わしたのは確かだった。



☆ ☆ ☆


 ――シコれるかどうかは、単なる絵の上手さにはらない。


 目の前に、二冊の本があるとする。

 一つは、誰が見ても美しいと言える絵で描かれたもの。もう一つは、そうでもないが、絶大な人気を誇るもの。

 そして、その理由はなぜか、読んでみるとなんとなく分かってしまうのだ。

『なぜ、この人の方が絵が下手なのに、この人の方がシコれるのだろうか』

 という感情は、『シコ度』はただ絵が上手いだけによらないということを、如実に表している。いや、それすらも『上手さ』とするならば、それは上手いということになるのだろうが。

 実際綺麗すぎる絵では、イマイチシコれないという感情を持つ人間も多々いることは、純然たる事実なのだ。


(ただ、まさか――、こんな下手な同人誌に……こんな感情が芽生えるとは)


 ぐったりとした表情で、恵壱は何度も見返した本をパラパラとめくる。

 もう、撃ち止めだ。

 他にもたくさんの本を買ったにも係わらず、帰って即開いたのはあの『なゆゆはいっぱいい~っぱいご奉仕します♡』。


 気は乗らないが、感想を送らねばならない。

 貪るように読んだのは事実で、それが、彼女と交わした約束だから。


(俺のことを、覚えてなければいいんだけどな) 


 SNSのサブアカウントを開いて、彼は感想を送る。

 サラリと二、三行、「よかった」という意味の言葉を連ねて、恵壱は眠った。


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