ぼくたちのおじいさん

 大奥様、大奥様。お加減はどうですか。今日のエルサレム総主教の叙任式では、一番見えるところにいらっしゃって下さっていましたが、そのお陰で、大奥様が具合が悪いのも分かりました。

 ………総主教になった気分ですか? ええ、とても誇らしいです。祖父の仕事を孫のぼくの代まで引き継げたんですから。それもこれも、お祖父さまがメシアひこばえさまの兄君だったからです。メシアの系譜という事が無ければ、こんな若輩者が二代目エルサレム総主教になることはなかったでしょう。

 ただ、疑問も残るのです、大奥様。ぼくは確かに、大王の系譜です。しかし、ぼくの父は、確か一族で二番目に低い地位だったはず。祖母がメシアひこばえのお世話をしていたからでしょう。しかし、しかしです。メシアひこばえの系譜には、もっと、ぼくよりも近い方がおられたはずです。―――そう、です。瞻仰せんぎょうさんは、初代総主教のお孫さんの筈です。その父上の方の瞻仰せんぎょうさまに到っては息子さんじゃないですか。いや、孫の父親が祖父の子供なのは当たり前なのですけど。

 何故、彼等は選ばれなかったのでしょうか? ………いえ、いえ、いえ。

 分かっています。彼等が総主教になれなかったのは、二人ともが、の名を冠していたから。瞻仰せんぎょうという呪われた名前を持っておられて、ギリシャ語名も用いられなかったから。―――裏切り者と同じ名前を持っている人を、総主教に加えてしまったら、我がエルサレム教会は、彼のメシアへの冒涜と背信を認める事になってしまう。だから、お二人がギリシャ語名だけでも持っていて下されば、ヘブライ語の名前を隠すことさえ出来れば、総主教におなりになれたのです。けれども大奥様、貴方はそれを強固に反対なさった。ご自分の孫の瞻仰せんぎょうが、幼い頃、『こんな名前はいやだ。何処に行っても虐められる』と、お泣きになった時すら、新しい名前をお付けにならなかった。いえ、

 教えて下さい、大奥様。貴方の若かりし頃に、一体何があったのですか。呪われた『賛美』に起因する全ての名前を敢えて使うのは何故ですか? 何故そんなにも、拘るのですか? ぼくは、メシアの兄君の直系を差し置いて総主教になりました。兄君の子孫とは即ち、メシアと同じ血筋です。それをどうして軽んじられましょう。我々は神の民となりましたが、しかしイスラエルの民の習慣の中に生きて、そのように育てられました。どうして血筋を軽んじられましょうか。

 ………。はい、はい。誰にも申しません。今後三代目総主教が現れたとしても言いません。

 だからどうかお教え下さい。貴方様に、メシアの兄嫁であらせられる貴方に、一体何があったのか。


 ―――あのとても悲しい日を覚えている。

 きっとあの方は安らかに逝ったのだろう。腐った体、黴の生えた体、そうしたもので如何に自分が醜かったか、如何に自分が汚らしかったか、きっと知らなかった。あの死に顔は、それらに苦しんでいる顔ではなかった。あの方はいつでも、驚きはしても、『痛い』と言ったことがなかった。きっととても強い、弱音を吐かない人だったのだろう。

 だが、固いばかりの木は、折れるときあまりにもあっけなく、派手に折れて砕けてしまう。しなやかな水分があれば、ぐにゃぐにゃになっても折れることはない。

 あの方は、そう言った意味で、石よりも固い木だったのだ。

 あの方が死んで一晩を越える前に、ある老人が言った。

「皆、斧を取ろう。斧で、彼の体をばらばらにするんだ。、ばらばらにするんだ。」

 その場が凍り付き、女達は息を呑んでから激しく彼を非難した。しかし、男たちは、あの方のご遺体をくまなく見つめ、涙を呑んで同意した。

「なんて野蛮なの、こんなに傷だらけで陵辱された方を尚辱めるなんて! けだもの、あんた達けだものよ!」

「そうだよ、彼は酷く打ちのめされた。だからこそ、隠さなきゃならない。彼がせめて、誇り高く殉教したように、後世に残さなくちゃ。彼は本当に立派な牧者だった。時が満ちるその時まで、その事実だけを遺そう。忘れられないように、忘れ去るべきものを取り去ろう。彼が、メシアひこばえさまの兄で居るために。彼が、清廉潔白な聖人でいるために、切り刻むんだ。…お嬢さんたち、辛いなら男だけでやるよ。それで、選別が終わったら、なるべく元通りに組み立てて、君たちに渡す。男どもも、見るのも辛いなら、若いのは―――。」

「いいえ、いいえ。私がやります。私が一人でやります。こんな風にお隠れになったのは、私のせいなのです。私が愚かだったのです。こんな―――こんなにを目にして、穢れたものどもが正気で在れる筈などないということを、私は忘れていたのです。ええ、どうか私にお任せ下さい。にして、女達に渡します。」

「いいえ、私の父です。私もやります。」

「ではおじいちゃんも頑張ろう。わっははは、若いもんには負けない、負けないぞう。」

 空元気で尚も笑いながら言うので、女達は眉をひそめ、それぞれ悲しむために部屋を出た。立候補した若い男が、納屋へ斧を取りに行く。

「お母さん、お母さんなんだから、子供をこんな所に置いていてはいけないよ。病気になるかも知れない。皆そうだ。死者の穢れは平等なんだよ。」

 柔らかく諭されて、私はきょとんとしている息子を抱き、女達がすすり泣く部屋に行った。彼女達に、『寝かしつけて』と言うと、彼女達はそれでもう、察した様だった。

 戻ってくると、老人が棍棒を、若者が斧を、そして恐らく私用に、小さな剣があった。

「もしどうしてもやるなら、この剣を使うといいよ。どこが無くなったのか分からないようにしなくちゃいけないから、しないと。」

 ぼろぼろと涙が零れた。

 この方は、乞食だった私を拾ってくれた。ただ拾ったのではない。私に奇跡を起こしてくれた。不完全だったこの身を完全なものにして、祭司達からの烙印を返上させてくれたのに。何故今この方は、更にかき混ぜられようとしているのだろう、こんなに惨めに不細工になって死んだのに。

 もう十分ではないのか。この分なら、太股の骨まで腐っていそうだし、尻の肉なんてもうなくなって、膨らんですら居なかった。下の機能は完全に壊れていて、上半身を綺麗に保つことがどれほど大変だったことだろう。皮膚が抉れるほどに腐った体に触れればそこから崩れそうで、清めてあげられないところだって沢山あった。時折微睡むように二言三言囁いて、黒目の色が濃くなりかけて死にそうで、楽に死なせて貰えなくて、惨めに腐った姿のまま微睡んでいたこの方が、自分が如何に酷い状態か知らずに―――痛い、苦しいと言わずにいたことだけがせめてもの救いだった。

 今、何も言えなくなって。

 刻まねばならないのか。断たねばならないのか。そんなにも罪深かったのか、この方は。私を助けてくれたこの方は。女達の身代わりに穢されたこの方は。神の前にそんなにも正しくない人だったのか。

 ならばそんなものは神ではない。夫が人生を捧げる価値のある神ではない。神は全ての人間を愛しているのだと言った。ならば、この方も愛していなければおかしい。この方の命を祝福していなければおかしい。神ではない、断じて神ではない。そのような存在ものは神であってはならない。でなければ秩序と善なる行いを尊ぶ人々が報われない。

「ねえ、ねえ、大丈夫? 酷い震えだ………無理しなくていい。」

「一カ所だけ、一カ所だけでいいので、私に切らせてください。所を、私が削ぎ落して綺麗にしてあげたいのです。」

「大丈夫? けっこうエグいところだけど。」

「はい、はい、大丈夫です。嫁ぎましたもの。子どもも二人、産みましたもの。」

 未だ涙に溺れている若者が、そっと掛布を取り、斧の先で服を破く。ざわっとはだが動いた。

「お父さん、お疲れ様………。今、。」

 私は剣を当て、羽虫の幼虫が動き回るはだの上を滑らせ、あまりにも脆いその不完全な所を整えた。


「ありがとう、ありがとうね。もう十分だよ、もう十分、親孝行したよ。あとはおじいちゃんたちに任せなさい。女の子がやるような事じゃない。」

「はい、はい、すみません…お願いします。」

 虫共を手で払い、私は削ぎ落した所を胸に抱きしめた。きっと誰もが眉を顰めて、事情も知らない義人たちは、私を罵るだろう。でもそんなことがどうでも良いくらい、その不完全で不格好な器官が愛おしかった。不衛生で不健全なそこが、たまらなく輝いていたのだ。

は水で洗って清めたあと、香油を塗って教会の下に埋めます。」

「いや、洗わない方が良い。きっと全てのはだが剥がれてしまう。汚いままに見えるかもしれないが…。その色も形も有様も、彼の生き様だ。そのままでいいと、おじいちゃんは思うよ。」

「…そう、ですね。死者の肌は…とても、脆いです。香油を塗るだけにしましょう。」

「塗る時、はだを撫でないようにね。本当に剥がれやすいから。」

「ええ、ええ、分かりました。では、後はお願いします。」

 香油を塗ろうとしたところで、持ち替えただけではだが裂けた。埋める間に、ぐずぐずに崩れてしまうかも知れない。私は手酌の中に入れ、上から布を被せて香油をたっぷり注いで染み込ませた後、柄を折った。流れ出た赤子よりも小さなちいさな、掌にすっぽりと収まる棺。この棺が、父の人生の到達点だ。人の形すら、していない、この姿が、父の五十年以上に渡る、漁火のような人生の、終着点だったのだ。折った柄で土を掘り起こし、柄の半分くらいの深さまで掘った。たぷたぷの布を、揺らさないようにそっと取って、もう一度父の形見を見つめる。香油で死んだ虫の死骸を取り除くのは、あまりにも形見を傷付けそうだった。副葬品としてはあまりにも惨めだが、父の供をしてもらうしかない。ああ、綺麗にしてやることすら出来ないなんて。徹底して、彼は汚いと世界が私に訴えて、笑っているようだった。彼を汚いと嘲笑えと、嫌悪しろと強制して、矯正しようとしているようだった。

 私は土を被せて、目印とハチュカルの代わりに、柄を突き刺した。細くて、強い雨風で引っこ抜けてしまいそうな、か細い墓だ。明日息子を連れてきて、自分の父になる人だったことを教えなければ。


 ―――ええ、ええ、その後、あの二人は徹底して、あの方の体をつなぎ合わせました。綺麗に綺麗に、美しく、完璧に、ように、非の打ち所のないように、誤魔化して、繕って。あの人は全く美しく、全く完璧に、殉教者の遺体になりました。体中を切り刻まれて、すりつぶされて、綺麗に綺麗に加工されました。斧で斬り殺されて、棍棒で殴り殺されて、剣で刺し殺されて、殉教しました。私も、夫への手紙にそのように書きました。何故なら手紙は、残ってしまうからです。

 エルサレムに帰ってから、夫に本当のことを話しました。夫は、あの方の秘密を知っていました。いいえ、夫は、あの方の秘密を知っていて、助けなかったのです。恐ろしく汚いその淀みで溺れる手を掴めば、自身もその淀みを被ってしまうから。

 私は夫を責める気にはなれませんでした。きっとそれを分かっていたから、あの方も助けを求めなかったのでしょう―――たった一人、愛したの他には。助けを求めなかったのでしょう。

 この口伝も、いつしかは消えてしまう。そして遺された手紙と綺麗な思い出だけが、偽物のあの方を作り上げる。子守歌に相応しい、訓話に相応しい偶像にされてしまう。にも関わらず、あの人の名前に縋る事すら、罪になる日が来てしまう。人は皆そういう生き物。頭が悪いことを隠して、頭が良いように、高潔な魂を持っているかのように振る舞う。だから、あの引き渡した同源の名前の方を憎むようになるでしょう。その憎悪によって、団結するために。その軽蔑によって、研鑽するために。

 ああ、嗚呼、吁々。愚かなんめり、悍ましや、メシアひこばえに倣う者達。

 その心に巣くう悪霊ごと愛してくれと叫べないお前達よりも、全ての穢れと軽蔑を受け入れ引き受けて死んでいったあの方に勝ると思うてか。ただ、なのに!

 ああ、どうかどうか、孫弟子達、曾孫弟子達、没後弟子達、裏切りという濡れ衣を着せないで。私達の時代に無かったもので、私達の時代に在ったものを包み隠してしまわないで。

 貴方方には分からないのです。この世全ての人々を敵に回し、軽蔑され、神としての尊厳と尊敬を捨ててまでも愛して下さる魂こそが、メシアひこばえの本質なのだということが!

 己の都合の良いメシアひこばえをかたり伝える愚か者どもに抵抗するために、あの書家に伝えましょう。

 ―――メシアひこばえは、裏切られたのではなく、のだと。その言葉を書き留めておくだけで、聡明な後世の人々は分かってくれるでしょう。

 そしてどうか、第二代目エルサレム総主教。貴方はこの伝統を

 乞食だった私には分かります。足萎えだった私には分かります。人の優越感がもたらす脚色、曲解。だからこそ、真実を見いだす者が現れるまで、これらの事は全て伏せておいて欲しいのです。人は脆い。神の前に引き摺り出された悪霊よりも脆く朽ちる魂の生き物です。

 メシアひこばえの兄達は、皆神の子だった。けれども、ではなかった。その二人の存在を、名前だけで伝えることこそ、二人がどこにでもいる弟愛に溢れた兄であり、どこにでもいる臆病で勇敢な無学の学者だったことを伝えてくれるでしょう。

 メシアひこばえの兄であり、私の夫である初代エルサレム総主教。

 メシアひこばえの兄であり、私の息子の父親である唯一の我が父。

 どうかどうか、灯火のように、後世に伝えて下さい。兄だからという理由だけで出しゃばらず、出来た弟を認め、神が家族となった孤独な二人のことを。どうかどうか、せせらぎのように、伝えて下さい。

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