Seek&Chase

風野 凩

第一章

第五の月――桜の宿の娘

 光の聖霊さまのお恵みが天にある太陽から降り注いで、わたしたちの営みを照らしてくださっています。その温度がよく感じられる、ある晴れた日の出来事でした。

 日課である掃き掃除を終えてから、年季が入って滑らかな手触りになったカウンターの表面を拭き上げます。その最中、外から声が聞こえたのです。

「ああ、残念ですね」

 それは柔らかく、少し高い男性の声でした。独り言ではなく誰かに向けた声音が、先程開いた窓の隙間から入ってきているようです。

「間に合いませんでしたね」

「そりゃ予定より一月遅れたからな」

 応えた声は凜と響く低めの音色でした。ぶっきらぼうなトーンですが確かに女性のもので、短い溜め息を挟んで続けられます。

「どっちにしたって今日はここに泊まりだ。いい加減ベッドが恋しいだろ」

 やっぱりそうみたいです。両開きの扉の片方をゆっくり押し開けると、ふわりと暖かな風が頬を撫でていきました。

「あの、お客様ですよね」

 投げかけた言葉に、下生えを踏み分けていた足音が均した土の上へと乗り上げました。ふたり分のその音がわたしの前で止まったので、扉をぐっと開き背筋を伸ばしてお迎えします。

「……お前、ここの宿の?」

「はい」

 女性はわたしより背が高いようでした。声のした高さを見上げて一度頷くと、

「宿泊でふたり、出来れば両方一人部屋でお願い出来ますか」

 今度は別の方向、やはり高い位置から男性に尋ねられました。今の時期ならお客様は少ないので、ご要望にはお応え出来るでしょう。わたしは笑顔で返事をしました。

「ご用意しますね、お食事も要りますか?」

「あー、付けられんなら頼む」

 先導するようにくるり踵を返して扉を押さえ、玄関から室内を手で指し示します。扉を潜ったことで足音はマットから板を踏むものに変わって、通りざまの注文には頷いてお返ししました。大股で硬い足音の後にぱたぱたという音が続き、

「ありがとうございます、お世話になりますね」

 お連れの方より軽い素材だと思われるブーツの主が、軽く屈んだ位置からそう言ってくださいました。

「遥々来てくださったお客様ですから!」

 精一杯お持て成ししなくては。おふたりが遠ざかってから扉を閉めると、やりとりを聞きつけたのでしょうお母さんの声がします。

「おやま、いらっしゃいませ。お客さんだねリンディ」

「うん、一人部屋をふたつお食事付きで」

 カウンターで宿帳を用意しているのでしょう、紙を繰る音に向かって応えました。

「気の利く娘さんですね」

 笑っても柔らかな褒め言葉は、けれど男性の低さもあって少し照れてしまいます。ですから、

「わたし、お部屋の用意してくるね」

 後のご案内はお母さんに任せて、先にシーツを取りに行ったのでした。



 手すりを伝って二階へ上がり、一番手前の扉をノックします。

「はい、今開けますね」

 待っていてくださったのでしょうか、返事はすぐに戻ってきました。椅子が床に擦れる音から、はっきりとした足音が近づいてきます。ノブが動き、扉が小さく軋んで空気の揺れが感じられました。

「飲み物と軽食、お持ちしました」

 左手に提げたバスケットに手を添えて告げると、

「ありがとうございます。こちらで受け取っても?」

「はい!」

 尋ねられて頷き、ふっとバスケットの重みが消えました。けれど気配はその場に留まったままで、戸惑いつつも失礼しようかと頭を下げる、前に。

「お時間ありますか」

 優しい声で尋ねられ、首を傾げます。

「少しお話しさせていただきたいな、と」

「え、っと」

 きっとまたお母さんが頼んだのだと思います。お客様とお話しするのは確かに好きなのですけれど、先程着いたばかりでお疲れなのではないでしょうか。

 返答に迷っていた間に、部屋の奥からはあと溜め息が聞こえました。

「お前、困らせてんじゃねえよ」

 それはお連れの女性の方の声でした。

「そんなつもりは」

「急にそんなん言われたらそいつもビビるだろっつってんだ」

 そちらを振り向いたのでしょう、男性の声が少し遠くなります。それに言い返しながら近づいてきたらしい女性が、しゃがみ込む衣擦れの気配が目の前にありました。

「あーその、悪いな。驚かせて」

「いえ、わたしはそんな」

 かけてくださった言葉の調子はお連れの方とのそれより遠慮が滲んでいて、気遣ってくださっていることが分かりました。お母さんのひとを見る目は流石です。そうだと思ったからお願いしたのでしょう。

「お忙しいなら無理にとは言いませんよ」

「……お邪魔してもいいんですか?」

 怖ず怖ず尋ねたわたしの腕に、そっと何かが触れました。

「大丈夫か、……じゃ、ちょっと付き合ってくれ」

 ぽんぽん、と確かめてくださった手に促されるまま椅子に座らせていただいてしまって、恐縮するばかりです。

「ったく、お前がちゃんと説明しねぇから」

「順序は考えてたんですよ?」

 とさ、とバスケットを置いて、

「では、まず自己紹介から」

 ベッドに腰掛ける音がひとつ。どうやら金属の部品が付いているのが理由らしい硬い足音が止まったのは何も無いはずの場所ですから、壁に寄りかかったのでしょうか。

「改めまして、先程は失礼を。タウ・ルートと申します」

 柔らかく滑らかに名乗った男性が、タウさん。

「俺はゼータ」

 簡潔にはっきりと言った女性がゼータさん。

「わたしはリンディ、です」

「リンディさん、ですね」

 タウさんが復唱してくださった呼び方に頷きます。するとこほん、と咳払いをされて。

「是非、桜の宿についても伺いたいんですが」

 その前に、と続けられたのは問いではなく確認で、わたしはこくりと頷いてみせました。けれどその反応を、わたしが視界に捉えることは出来ません。

「わたしは」


 目が見えないのです。


 それは生まれつきのことで、わたしにとってはそれ以外を知らないものでした。見える世界というものは、わたしには初めから存在しないのです。

「……気を、悪くされましたか?」

 おふたりに驚く様子はありませんでした。強い光に弱いわたしの目は常に布で覆われていて、見てそれと分かっていたのかも知れません。

「いいえ」

 もっと悪し様に扱う方もいました。それよりは。

「わたし、こうして宿の手伝いも出来るんですよ」

「全部覚えてんだな」

 ゼータさんの呟きには、胸を張って応えます。

「宿の中ならどこにでも行けますよ、お庭で洗濯するのだって。……お客様がいる客室は例外ですけど」

 それは見栄でも何でもなく本心で、後半は少し戯けて言えば笑ってくださった。困らないとは言えないけれど、それでもわたしには出来ることがある。

「ですから、何でもお尋ねくださいね」

「ではお言葉に甘えて」

 口火を切ったタウさんへ向き直れば、訊かれたのはやはり。

「宿の呼び名の由来の、大桜の話を」

 庭に立つ自慢の桜のことでした。

「あの桜は、わたしのお祖父さんが宿を建てる前から生えていたそうなんです」

 わたしが腕をめいっぱい広げても届かないくらいに幹が太くて、高さなんて想像がつかないくらいに立派な桜の木。

「花が満開になる時期には、今が嘘みたいに盛況なんですよ」

 薄く柔らかな花弁が降り注ぎ、辺りを薄紅色に染め上げる光景は誰が見ても綺麗だと仰るのです。だから、

「……わたし、薄紅色が好きなんです」

 知らないけれど、きっと綺麗な色なのでしょう。あれほど美しいと言われるのですから。

「そう、なんですね。ええ、とても綺麗な色ですから」

「やっぱり」

 同意してくださって、またひとつ気持ちが積もります。それが嬉しくてつい声が弾んでしまって、慌ててひとつ咳払いをしました。

「一番忙しい時期に向けて、一年かけて準備をするんです。今は父と兄がそのために街へ出ていて」

「ああ、そうなのか。ふたりしか居ねえわけじゃないんだな」

 そりゃそうか、と言ったのはやはり立ったままだったらしいゼータさんでした。

「次は咲いている時期に来たいですね」

「おふたりにも見ていただきたいです」

 そうして、また聞かせていただければどれほど嬉しいことでしょう。笑ってくださったタウさんの言葉からはお世辞のわざとらしさが感じられなくて、わたしも笑って返しました。

「なあ」

 不意に呼びかけられた声は、けれど中途半端に途切れました。低く唸るゼータさんは言葉を探しているようです。

「お前は。…………いや」

 けれど、迷った末に諦めた口調を選んでいました。

「営業が上手だな、と思ってよ」

 言いたかったこととは違うのでしょう。けれど止めたのは、慮ってくださったのだと自惚れてもいいでしょうか。

「ありがとうございます」

 上手く笑い返せていればいい、と思いました。折角褒めていただいたのです、お客様には少しでも良い態度でお応えしなくては。

 薄紅色への憧憬は積もり積もって、でもわたしは今でも充分あの桜が好きなのです。

「ではお礼になるかは分かりませんが、今度は僕たちからいくつかお話を」

「いいんですか?」

 ついはしゃいでしまったのは分かりやすかったのでしょう、柔らかくくすくすと笑われてしまって照れてしまいます。と、ゼータさんの足音が動いてどさ、とベッドに座ったようでした。

「んな畏まんなくたっていいぜ。そんな年変わんねえだろ」

 代わりに立ち上がったらしいタウさんがバスケットを開け、支度をする物音が聞こえます。

「おいくつなんですか?」

「今年で十七だな。こいつはいっこ上」

 ゼータさんはわたしよりふたつ年上でした。けれどきっと、わたしの知らないものを沢山知っている気がします。

「では、お茶をしながらゆっくりということで」

 悠然としたタウさんも、なんだか慣れていらっしゃいます。そうして楽しくお話ししながら、お母さんに食事は多めにと伝えようと思いました。ゼータさん、よく食べるみたいですから。



 昨日に引き続きからりと空気が晴れていて、ああよかったと胸を撫で下ろしながら洗濯物を干しました。室内に戻れば丁度おふたりが二階から下りてきたところだったようです。

「おはようございます」

「よ、リンディ」

 階段から聞こえた挨拶にこちらからも返して、食事を取れるテーブルへ案内します。今日は様々な具を取り揃えたサンドイッチと、果物のジャムを添えた紅茶をご用意していました。それらを並べていたお母さんが、ふと気づいたように口に出します。

「そのコート……、お客さん神官様だったのかい」

「はい、昨日は洗い場を貸していただいてありがとうございました」

 応えたのはタウさんでした。昨日の軽食を摂られる前に何かやっていたそうなのですが、洗い場ということは洗濯でしょうか。と、タウさんの対面で紅茶を啜っていたゼータさんがカップを置いて小さく息を吐きました。

「こいつ、転んでコートの袖泥まみれにしやがってよ」

「ゼータが腕引いてくれなかったら背中までべったりでしたね」

 タウさんは笑っていらっしゃいますが、話の通りなら大変だったのではないでしょうか。

 この大陸に住むひとのほとんどが信仰する六柱教の神官様は、身の証として聖印の付いた真っ白なコートを着ていらっしゃるのだそうです。白という色は汚すと目立って大変、と聞いたのですが、大丈夫だったのでしょうか。

「ありゃまあ、けど上手く落としたねえ」

「こういうことには慣れているので」

 お母さんの感心した声が期せずして答えを示してくれました。さて、わたしは朝食を済ませていますし、仕事に戻らねばなりません。

 次は外を掃いてしまいましょう。おふたりの出立の際、気持ちよくお見送り出来る状態にしておきたいですから。箒を手に玄関の扉を押し開けたわたしの頬に、先程より強くなった風がぶつかっていきます。なんだか空気が重たくなった気がして、天気が崩れたら嫌だなと思いながら一歩踏み出した、途端に。

 ぞっと、背筋が冷えました。

 見えなくとも分かるのです。目の前に、決して近づいてはいけないナニカが居ることが。生き物の呻きに似た、けれど決定的に歪んだ唸りがそこから発せられて、足が凍りついて、

「――悪い、退け!」

 竦んだわたしの後ろから、叫んでいました。

 思い切り腕を引かれて後ろに倒れ込んだわたしを、そのひとは突風のように追い越して過ぎ去って行きました。そのまま倒れそうになったわたしを、

「ひゃ」

「っわ、大丈夫ですか?」

 後ろから支えてくれたのは、緊張しながらも気遣ってくださったタウさんです。恐怖で縮こまった喉からお礼を絞り出す、前に空気が振動して。


 グァガラアアアァァァアアァァァ……


 頭が割れてしまいそうな鼓膜への暴力が、そこにいるナニカの咆哮が響き渡りました。

「下がっていて。いいですね」

 タウに言い含められ、慣れ親しんだお母さんの手が肩に触れました。離れていってしまったそのひとに何も言えないまま、ただ縋り付いたお母さんもまた震えていました。

「ばけもの、が」

 聞き取れたのはそれだけで、後は全て巨大なナニカが起こす音が掻き消してしまいました。繰り返す地響きと咆哮で感覚はめちゃくちゃになり、ただ固まるわたしをお母さんがゆっくり腕を動かし抱き締めました。

「……大丈夫だよ、神官様が守ってくださっているからね」

 そんなお母さんの声もまだ震えているけれど。混乱のただ中でどこか現実味を失ったまま、わたしの頭に浮かんでいたのはたったひとつ。心の支えになるものでした。

「させ、るかぁああっ!」

 咆哮を打ち飛ばすようなゼータさんの絶叫が強く突き抜けた風に乗って響いて、悪夢を全て吹き消してくれたように静かになりました。

 いつの間にかお母さんが啜り泣いています。初めて聞いたような気がしました。抱き締めてくれていた腕を、ぎゅっと抱き返しました。

 さく、と傍で草が踏み倒されました。続いたのは厳かな声。

「――我が身、我が声を以て請い願う」

 タウさんでした。神官様が祈りを捧げる言葉は、ひどく静かなのに大きく聞こえました。

「希望の体現、照らし導く光の聖霊。汝が慈悲にて、彼の者に安息を」

 そうして響いた音の、最後のひとつまで止んで。その時にはもう、恐ろしい気配は残ってはいませんでした。

「……はぁ」

 ざくざくと大股で歩いて目の前で止まったゼータさんは、長い距離を走った後のように息が上がっていました。

「お前ら、怪我、ねえよな」

「は、はい」

 呼吸を整えながらの質問に頷いてから、はっとして尋ねます。

「お母さんは?」

「平気、だよ」

 震えたまま、わたしを離さないままのお母さんに不安が募ります。ゼータさんの押し黙る気配も感じます。

「どうしたんですか、あの、何が」

「安心してください」

 その中で唯一、タウさんの声だけが暖かく降ってきました。

「リンディさんも、女将さんも」

 何かを手渡されて、触った感触は知っていました。樹皮に触れ、持って枝だと分かります。これは。

「……桜が」

「襲われていました」

 答えは簡潔で、お母さんの様子の理由でもありました。けど、けれど。

「アレに傷つけられてしまいました。けれど」

 タウさんの声が優しく伝えてくれました。

「ゼータが守り通しました」

 大丈夫。桜はまた咲きます。

 お母さんが泣き崩れ、それでも口にしたありがとうの言葉で嘘ではないのだと信じられました。だから閉ざした瞼が熱くて、お礼を述べたいのに喉がつっかえて苦しくて。

 わたしの頭を少し乱暴に撫でた手が、あの悪夢を吹き散らしてくれたということが尚更、胸を苦しくさせたのです。



 まるで、昔読み聞かされて眠れなくなった怖いお伽噺のような出来事でした。もしわたしの目があの桜を襲う大きなナニカを見ていたなら、何日も魘されたかもしれません。

 そんなわたしとお母さんとを心配してくださったようで、タウさんとゼータさんはもう一日滞在してくださいました。タウさんは光の聖霊様を信仰する神官様で、不安を取り除くためのお話をしてくださっていました。

 そのお礼にと贅沢な果物のパイを用意して、紅茶と共にお部屋にお持ちしたのですが。

「ちょうど良かったです、リンディさんにお願いしたいことがあって」

 出迎えてくださったタウさんに言われるまま、昨日と同じように椅子へ腰掛けました。

 早速パイを食べて喜んでくださったゼータさんが、

「……あんなん、もう起こりゃしねえよ」

 わざとでしょう、そっけない口調で言ってパイのお代わりを頼んでいました。そんなゼータさんへパイを渡してから、タウさんも苦笑します。

「本当にお伽噺のつもりだったんですけど」

 それは昨日聞かせていただいたお話のことでしょう。むかしむかしの悪いモノの欠片、聖霊様の力で清め鎮めるべきナニカ。そんなものに立ち向かうようなお話、作り物だと思っていたのに。

「リンディさん」

 ふと、タウさんが真面目な声でわたしを呼びました。

「その話の続き、覚えていますか」

「え?」

 悪いモノを鎮めたご褒美に、聖霊様がひとつお願いを叶えてくれる。

 それこそ子どもに読み聞かせる教訓話のような、そんな内容だったと思うのですが。

「そっちもなんだよ」

 ぎ、とわたしの傍の床が軋んだのはゼータさんが膝を着いたからのようでした。兄よりも華奢なのに、兄より皮膚の硬くなった指先がわたしの手を掬って、ひやりとした何かを手渡されました。

「これは……」

「リンディ」

 ゼータさんの真剣な声は、背筋が勝手に伸びる思いがしました。そうして、

「お前さ、見たいだろ」

 そう言われて、……いえ、願い事と言われた時から答えはひとつしか思い浮かばなかったのです。

 わたしの知らない、わたしが一番好きな色。いくら聞いた話を積み上げても分からない、憧れの薄紅色。

 死を色濃く見たときに思い起こされたものが、本当にわたしが望んできたものなのだとしたら。

「お前が願えば、それは叶う。けどな」

「僕たちも、絶対と約束出来るわけではないんです」

 だから選んでいい、と。おふたりは仰るのです。

 いつ失うとも分からないものだから。一度手に入れた後の絶望は計り知れないから。この救いは、たった一度きりの機会だから。

 そんなこと。

「……わたしが、使っていいんでしょうか」

 そんな風に言われてもなお、わたしは。

「俺たちも、こいつも。何でもどうにか出来るわけじゃねえのさ」

 ゼータさんは、きっと戦うひとなのです。そのひとの温かくて力強い手が、わたしの手をそっと包んでくださいました。

「だから今、そうしたいと思ったことに」

 そしてわたしが選ばれた。なら、ならば、わたしは。

「見たい、です」

 誰にも等しく、私以外に降り注いで讃えられる光景を。綺麗な薄紅色を。

「わたしも、あの桜が見たいです……!」

 冷たかった筈の何か、手の中の石を握り締めて。自覚も無かった暗さが和らいで、涙が込み上げるような熱さが沸き起こるのです。

 目に突き刺さることのない光は、優しくて柔らかくてあたたかい、初めて知る色をしていました。



 目の前に聳える大木には、痛々しい裂け目があります。それでも葉は茂り、わたしが両腕を広げても届かないくらいに太い幹はしっかりと立っていました。そっと手を伸ばして触れた樹皮の感触はとても良く知っていて、だからこそ不思議です。

「はじめまして」

 たくさんの色彩にはまだ目眩がするけれど、この大樹は何だかとても落ち着かせてくれました。と、後ろから下生えを踏む音が聞こえます。

 振り返った先には、男性と女性がおひとりずつ立っていました。

 白いコートの男性は、木漏れ日を束ねたような輝く髪の色をしていました。後ろで結んだ様子が、絵本で見た動物の尻尾のようです。硝子板の細工品――眼鏡の向こうにはお菓子のキャラメルに似た色の瞳があって、微笑んでいました。

 その隣に並ぶ女性は、旅装だという外套を羽織っていました。茂る葉より濃い瞳は力強く、若草を伸べた髪をひとつに纏めています。大きな荷物袋を軽々背負って、丈夫そうなブーツで草を踏み分けていました。

「出発なさるんですね」

「お世話になりました」

 タウさんの言葉には、首を振って返します。あれから更に数日足止めしてしまったのは、心配をおかけしてしまったわたしのせいでしょうから。と、

「どうせこいつは無理が利かないからな、休めて助かった」

 タウさんを指して肩を竦めたゼータさんに、つい笑ってしまいました。あまりにも不器用で、けれどタウさんもまた笑っていらっしゃるのです。

「こちらこそ」

 わたしは言って、深く頭を下げました。

 まだしばらく、慣れることはないでしょう。ずっと住んでいた、何でも知っているつもりだった宿の中ですらまだ驚くことがたくさんあるのですから。

 けれどそれは本当に嬉しい、知らなかった世界の姿を知るということで。

「本当に、ありがとうございます」

 顔を上げたわたしの前に、ゼータさんが手を差し出しました。無言でももう、はっきりと分かるのです。

「まだ、これからだろ」

「はい」

 握手を交わして、しっかりと笑い返せたと思います。



 これから一年、そうして初めて出会う大好きな色を。

 あのおふたりと共に見ることを、わたしは心待ちにしているのです。


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