第七話 ヒーロー
オレは辞書サイトの検索欄に、「拒む」という言葉を入力する。検索ボタンを押そうとしたが、親指が止まる。
これを検索すると、オレが詩織さんを拒否しているような気がした。
オレは決して、詩織さんも稲瀬みのりも拒んでいるわけではない。携帯電話の画面を落として、再びポケットに入れた。
我が家は住宅街のど真ん中にあり、それを抜けるとすぐにコンビニが見える。
まだ時間に余裕はあるので、少し立ち読みでもしていこうかな。コンビニの方へと目を向けると、筋骨隆々の中年男性の後ろ姿が見えた。
知っている人に心当たりがあったので、オレは男性の背中を追ってコンビニへと入った。
中に入ると、先ほどの筋肉男性が、アルコールコーナーで商品を選んでいた。その横顔はやはり、多摩雄さんだった。缶ビールをカゴへと入れた多摩雄さんに、オレは声を掛けてみた。
「おはようございます」
こちらへと向いた多摩雄さんが一瞬、驚いた顔になる。
「おー。おう、おぅ、ミナユキか」
そう言って嬉しそうに多摩雄さんは、太い手でオレの肩をバシリと叩いた。普通の人間なら骨折しているだろう衝撃だが、オレはそんなヤワな鍛え方をしてない。
「鍛えているか、ミナユキ」と多摩雄さんは立派な筋肉を見せた。
「最近、色々あってサボり気味ですけど……」と立派な筋肉を持っていないオレは、申し訳なさそうに言う。
境(さかい)多摩雄(たまお)さん。
親父の高校時代からの親友で、オレの筋トレの師匠である。この街で消防士として活躍しており、オレの尊敬する数少ない大人である。
十年前に離婚していることもあり、幼少時からオレを自分の子供のように面倒を見てくれた人だ。
実際、親父が再婚する前は週に一度は家に来てくれて、オレの筋トレを手伝ったり、一緒に飯を作ってくれたりもした。
新婚だから遠慮してくれているのだろうが、筋肉がある人に気遣いされるのは忍びなかった。
高校でジャッカスと仲良くなってから、実は自衛官をしている彼の親父とも筋肉仲間ということも判明した。
去年はジャッカスを入れて三人で、海や山やバーベキューなどのイベントをしたこともある。
「ミナヒトの再婚だろ、俺も聞いている。……調子はどうだ。ミナユキ」
いきなり家族が出来てしまった事は、多摩雄さんも聞いていたのだろう。筋肉の師匠に気遣いされて、オレは何だか申し訳ない気分になった。
「いえ、大丈夫です」
「なんか、悩みがあったら、いつでも相談にのるぞ」と多摩雄さんはムキムキの胸筋を張った。
「恋の悩みでも?」
「それは……ちょっと、勘弁してくれ」
多摩雄さんは今まで男社会で生きてきた上に、筋肉もあるが、離婚経験もある。最上級の肉体なのに、多摩雄さんは色づいた話が苦手な人だ。
飲みに行っても、女性が居るような店は苦手で避けるという。立派な上腕二頭筋からは想像出来ない程のシャイな男だ。
「当番明けですか?」
血管の浮き出る太い手で、ビールをカゴに入れていた。ということは、これから帰る様子と見て間違いないだろう。
消防士の仕事は、二十四時間勤務。朝に出勤して、次の朝に帰宅するという。オレの親父以上に、ハードな生活なのだ。
「まぁな」
「大変ですね」
「市民の命を守るためだ」と多摩雄さんは、首の付け根の筋肉を揺らしながら平然とした態度で言った。
オレは心の中で、最高にカッコいい師匠だと思った。人の命を助ける為なら、自分の生活や肉体すら惜しまない模範的筋肉消防士。
実は多摩雄さんに憧れて、消防士になりたいと言ったことがある。その時、真顔で「やめとけ」と言われた。やはり、オレでは筋肉量が足りないのかと思ったが、それは違った。
市民の命を守る代わりに、時に筋肉や家族を顧みない決断を迫られる場合もある。無限な筋肉の可能性がある肉体を持つ若者に、安易に勧められる仕事ではないと説明してくれた。
では何故、多摩雄さんは消防士になったのかと聞いた。答えは単純で、筋肉馬鹿の俺はこれしか出来ないと言った。
だとしても、強い意志を持って人助けをしている事には間違いない。やはり、多摩雄さんは最高の筋肉師匠だった。
「ミナユキ、何か食うか?」と多摩雄さんはその強靭な肉体で、筋肉とは関係なさそうなお菓子コーナーに案内してくれた。甘いものは苦手だし、多摩雄さんより筋肉の少ないオレが、筋肉のある人に甘えるのは恥ずかしい。
「今さら遠慮なんて、しなくていいんだぞ」
「あ、じゃあ、珈琲いただきます」と缶コーヒーをドリンクコーナーから持ってくる。
「折角だ。遥平の分も持ってってやれ」と多摩雄さんは自慢の腕筋をドリンクコーナーに向けた。
促されたまま、オレは筋肉の方向にあった缶コーヒーをもう一本持ってきた。ちなみに遥平とはジャッカスの正式名称だ。
流石多摩雄さんだ。ついでにと、ジャッカスにまで気を利かせてくれたのだ。筋肉がすげえだけある。
一緒に入れてくれと言われたので、筋骨隆々な腕で持つカゴに手を伸ばすと、珍しくチョコ系やクリーム系のお菓子が入っているのに気が付いた。
オレ程ではないが、あまり甘いものを食べなかった気がする。こっちは単に苦手なだけだが、多摩雄さんは自分の身体に対しては厳格なので、筋肉に影響があるものを好まない。酒はどうなのだろうとも思ったが、考えるだけ野暮な気がした。
「珍しいですね」とオレはカゴの中のお菓子を指して言った。
「ああ、これは娘へな。可愛いから、甘いもん好きなんだ」
「むすめ? ……えぇ? ……えぇぇえ!」
多摩雄さんの意外な台詞に、オレは目玉が引ん剝くほど驚いてしまった。
「再婚したんですか?」
「え? ……いや、何言ってんだミナユキ? 別れた奥さんとの子に決まってるだろ。馬鹿かお前、または阿呆か。血縁者だぞ」
「奥さ……? え、どういう、ことですか?」
どういうこと、は無いだろう。口にしてから、オレはしくじったと感じた。
オレの家庭がそうなように、他の家庭にも色々事情がある。いくら相手が師匠とはいえ、安易に聞いていいものではない。
言ってしまってから、なんて言っていいか分からなくなってしまった。苦い顔をしていると、多摩雄さんがオレの頭に馬鹿でかい手を置いた。
「そんな顔をするな、俺にそこまで気を遣わなくていい」
「ですが……」
「単純に、マキが……。別れた奥さんが田舎に帰る。けど、娘はこっちの学校に通いたいっていうから、俺が引き取っただけだ」
そこまで複雑な事情があるわけじゃないぞ。多摩雄さんは筋肉に似合わず、優しい口調でそう言った。
「それより、さっさと行かないと遅刻だぞ。遥平にコーヒーを持ってってやれ」
そう言って多摩雄さんは会計を済ませ、別に包んでもらった缶コーヒーをオレに手渡した。
「ありがとうございます。ご馳走さまです」
「今度、遥平と一緒に飯行こう。久しぶりに。オレの子にも会わせてやるわ」と多摩雄さんはムキムキの腕を振った。
「楽しみにしています」
多摩雄さん程では無い腕を振って、オレはコンビニを後にした。
オレは通学路を歩きながら、多摩雄さんの娘はどういう子なのか想像してみた。やはり、筋骨隆々なのだろうか。でも、女子でそれはありえないか。
漫画とかゲームとかだと、ああいう親の子に限って清楚で可憐だったりするんだよな。何にせよ、会えるのなら、少し楽しみになる。
本当はジャッカスと一緒でなければ、稲瀬みのりを多摩雄さんに紹介してもいいと思った。
というよりも、オレが多摩雄さんを稲瀬みのりに紹介したかった。
親父の友達で、尊敬する師匠だ。消防士をしていて、皆の命を守る我が街のスーパーヒーローだって。
学校に着いたら、多摩雄さんに会ったとジャッカスに自慢してやろう。
スーパーヒーローのお陰で、学校に行くのが少し楽しみになった。オレが踊るように登校出来るようにしてしまうなんて、やっぱり多摩雄さんはヒーローに違いないと心から思った。
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