第十三章 六本木1丁目

 諒輔は毎日、神崎の運転する普通の国産車で財団の事務所に通った。神崎はクラシックカーで送迎したいようであったが、それだけは勘弁して貰いたいと頼んだのだ。屋敷は崖の途中にあり、駅まで距離があるので、車での送迎はありがたい。でも、こんな事では運動不足で肥満になりはしないかと少し心配でもある。そこで、暇さえあればスポーツジムに通って筋肉トレーニングに励んでいるのであった。

 午前十時頃、桜坂の財団事務所に着くと、エレベーターで三階に上がり、出されたお茶を飲み、葛城や他の職員と雑談を交わし、その後決裁書類に署名するなどの雑務を処理する。それ等が終わると、二階の会長室に行くと告げて、エレベーターに乗り込み地下の財団本部の会長室に向かう。

 

 その本部会長室では、このところ連日のように阿修羅教団対策の協議がなされていた。

「神崎さん、阿修羅教団の新しい情報は入って来ませんか」

 諒輔も手を尽くして調べているのだが、教団の過去の歴史は分かっても、現在の彼等の所在地は勿論、その組織、リーダーと目される人物など皆目分からない。

「我々の調査だけでは限度があります。ここは国家権力を借りるしかないと思いますが」

 神崎の提案に葛城と遠山が同意した。阿修羅教団は、その発足以来、反国家権力の団体であり、現代においても警察などが監視を続けているのだろう。

「国家権力に頼るのは、気が進まないけど、事は急を要するので、それも仕方ないか」

 諒輔の言葉に応じて葛城が意見を述べる。

「えぇ、我々は既に二回も彼等の襲撃を受けています。最早猶予はなりません、手段を選ばず対処するべきと存じます。つきましては我が裏土御門の一族に連なる者に、警察庁で公安関係を担当している者がおりますので、この者に協力して貰えばどうかと思いますが、如何でしょう」

 諒輔としても異存は無かったので、葛城がその人物と接触し、協力を求めることにした。

 

 その数日後、接触を図っていた人物が、財団の表事務所二階の会長室を訪れた。その人物は歳の頃は四十台後半、職業柄か目付きが鋭い。渡された名刺には《警察庁警備局参事官 日野達明》とある。この日は葛城と神崎が同席している。

「こちらからお伺いするべきなのに、お越しいただき申し訳ありません」

 諒輔は素直に、無礼を謝った。

「いえ、裏土御門陰の長者のご用とあらば、我ら一族の者、馳せ参じない訳には参りません」

 日野はどこまで本気なのか、芝居がかった真面目な態度を崩さない。

「私は陰の長者と申しましても、このような若輩者です。お気遣いなどしないで下さい」

「そうですか、いや実を申しますと、もっと年配の方かと思っていました。それに、安倍の血を引いていないとか」

 日野もどうやら、諒輔が陰の長者になったことに懐疑的なようである。

「えぇ、その通りです。安倍の血は引いていません」

 諒輔はそう言いながら、右手をさり気なく上げた。すると会長室のドアが開き、犬麻呂と牛麻呂が茶碗と菓子を捧げ持って入って来て、それ等を日野の前に置くと、一礼し部屋の隅に下がった。日野はこの様子を驚きつつ眺めていた。日野には式神の姿は見えないので、ドアが自動的に開閉し、茶碗と菓子が空中を浮遊してきたと映ったのだ。

「あぁ、式神を遣ったのですね」

 日野も裏土御門の一族、直ぐそれと察した。

「えぇ、最初は皆さん、中々信じてくれないので、このような手品紛いのことをしてお見せしました」

 諒輔が目配せすると、犬麻呂と牛麻呂は腰に差した扇子を開き、応接のテーブルに置かれている名刺を左右から煽いだ。日野は諒輔、葛城、神崎の名刺をテーブルの上に並べて置いていたのだが、それがふわふわと舞いあがり、三羽の蝶と化すのを見て頭を下げた。

「いやどうも、申し訳ありません。あなたが陰の長者になられたこと、頭では納得していた積りでしたが、こうして実際に会ってみると、つい疑念が生じました」

「早く信じて貰わないと、これからの話が進みませんので、手っ取り早いやり方をしました。子供騙しのようで失礼しました。それでは式神を引き下がらせましょう」

 諒輔は呪を唱えると、蝶はテーブルに降り立ち元の名刺になった。犬麻呂と牛麻呂も霞んで行き消え去った。納得した日野が話した阿修羅教団の情報は、概要以下のようなものであった。

 

 阿修羅教団の本拠はその歴史にあるように今も比叡山の山中にある。しかしそれは名目的なもので実際の本拠は六本木の高層ビルに在る。教団のリーダーは、役行者の生まれ変わりと自称する凌霄院月瞑(りょうしょういんげつめい)という者で、十年程前に教団の長老達を力で排除し、実権を掌握した。

 月瞑は天台・真言の両密教の他に西洋の黒魔術やオカルト教団の呪術などを自在に駆使する異能者で、教団の者全てが彼に絶対忠誠を誓っている。月瞑は教団の弱点が経済力の劣弱さにあるとして、これを克服するために、コンサルタント会社を設立し収益の柱にしようと企てた。

 月瞑はマインドコントロールの法に長けていたので、最初の頃は社員研修を請負う事業を行ってきた。研修を受けた社員の意欲が上がり、その結果、会社の業績が上向いたとの評判が立ち、それからは順調に規模を拡大し、現在では経営コンサルタントと人材ビジネスを事業の2本柱する中堅企業へと変貌を遂げている。その急成長振りは、経済界でも話題になるほどである。その会社の名前はシュラ・コンサルタンツと言い、代表取締役には月瞑が就任し、他の教団首脳も役員に名を連ねている。

 教団の戦闘組織の根拠地は、箱根にあり、表向きはシュラ・コンサルタンツの研修センターと言うことになっている。その中では、少林寺拳法や丈術などの格闘技、銃器、爆弾の取扱いなど、テロリスト養成所と変わらぬ訓練がなされている模様だ。更にはサリン等の毒ガスが製造されている節があり、公安当局の捜査員を過去に何度か潜入させようとしたが悉く失敗している――――

 

「シュラ・コンサルタンツの経営内容は、資料を置いて行きますので、後でゆっくりご覧下さい。それ以外に何か質問はありますか?」

 日野は説明を一先ず終えると、諒輔、葛城、神崎の顔を見回した。

「先日、彼等の襲撃を受けたのですが、その襲撃隊のリーダーは、一見すると、長髪、色白で女のようにも見える男でした。心当たりはありますか」

 諒輔の問いに日野は躊躇なく答える。

「あぁ、それは月瞑の右腕で戦闘部隊を束ねている、横川玲雪(よかわれいせつ)と言う者でしょう。彼も呪術を操ると言われています」

「私からも質問があるのですが良いですか」

 葛城は、日野が頷くのをみて、質問を続ける。

「公安は彼等を、強制捜査する計画はないのですか?」

「我々は注意を持って彼等の監視を続けています。先程もお話したように、最近オカルトの残党が合流し、サリンなどの毒ガスの開発に着手したとの情報を得ています。現在その確認に注力しているのですが、彼等のガードは鉄壁で手を拱いておる処です。その証拠が無い以上、直ぐに強制的な捜査は出来ないのです」

 公安警察と雖も、法治国家の枠組みでは、無茶な事はできないのであろう。しかし、今日の日野の話はとても参考になった。諒輔達は口々に日野に厚く礼を言い、日野が事務所を出るのを葛城と神崎が入口まで見送った。

 日野が帰った後、シュラ・コンサルタンツについてインターネットで検索し調べてみた。

 入居しているビルは、六本木ガーデンヒルズタワーと言う名称で、地上四十五階地下二階建て、屋上には緊急離着陸用のヘリポートが設けられていた。溜池山王の隣駅の六本木一丁目駅に地下で直結しており、メーンのオフィス棟の他に、レストランなどがテナントとして入る商業棟や、高級レジデンス棟が併設されている。それを知った葛城は「灯台下暗しとはこの事ですなぁ」と旧い諺を呟いて驚いている。インターネットの地図を見ると、桜坂を上がりスペイン大使館の前を通れば徒歩で十分もあれば行ける距離である。

 教団の最高指導者でシュラ・コンサルタンツ社長の凌霄院月瞑についても、インターネットで調べてみた。

 十年ほど前の、シュラ・コンサルタンツ創立当事の新聞インタビュー記事と写真があった。修験道を取り入れた研修の厳しさや、研修の成果を絶賛する利用企業の声などが記事として紹介され、研修生の前で講義をする坊主頭、サングラス姿の月瞑の写真を数点見ることが出来た。企業社員研修のカリスマ的な存在になってからは、マスコミの取材を一切拒否することで、月瞑のカリスマ度は更に増幅しているようだった。

 

 日野が財団事務所を訪れた翌日、天気も良かったので諒輔は散歩を兼ねて、六本木ガーデンヒルズタワーまで歩いて行った。このビルは城山と呼ばれる台地の西斜面に建てられており、四階が車寄せ付きの正面玄関になっている。その前に立って総ガラス張り地上四十五階のタワービルをしばらく見上げていると、眼が回るような感覚に囚われた。首筋をほぐすために、首をぐるりと回してからエントランスに向かった。

 警備員が入り口で警備しているが、呼び止められることもなく中に入ることが出来た。エントランスの壁面にテナント企業の名前がずらりと掲示されている。その中にシュラ・コンサルタンツの名前があった。三十五階、三十六階、三十七階の三フロアを使用しているようだ。今日は外見だけ見て帰る積りでやって来たのだが、ついでだから、事務所の様子も見てやろうと思い、シュラ・コンサルタンツの研修用受付がある三十五階に行ってみることにした。

 乗り込んだエレベーターは途中で止まることなく、直ぐに三十五階に到着した。諒輔が受付に近づくと、可愛らしい受付嬢が立ち上がり礼をした。

「シュラ・コンサルタンツにようこそ。研修生の方は受講票をご提示下さい」

「いぇ、研修生ではありません」

 諒輔は何と言えば良いか素早く思案した。妙案は浮かばない。

「それでは、研修の見学でしょうか」

「あ、はい。そうです。見学したいのいですが」

 願ってもない受付嬢の言葉にほっとする。

「それでは、こちらの見学申込書にご記入下さい」

 受付嬢が、にこやかに差し出す申込書を受け取る。会社名、会社所在地、見学する者の氏名と所属部署、役職名、連絡電話番号、見学の目的などを記入しなくてはならない。仕方ないので会社名の欄などは以前勤務していた、日本不動産タイムス社のものを書き込んだ。氏名は、あのろくでもない上司であった島田洋一とし、役職名も彼の肩書である新聞局長としておいた。見学の目的は思いつくまま出鱈目なものを書き入れ、書き終わった申込書を受付嬢に渡す。

「それでは、この入館証を付けて少しお待ち下さい。研修広報担当がご案内いたします」

 自由に研修フロアを見て回れるという思惑は外された。しばらくすると如何にもやり手と言う感じの眼鏡をかけた女性が出て来た。受付嬢から受け取った諒輔が書いた見学申込書に素早く目を通すと、こちらに歩み寄って来る。

「島田様、どうもお待たせしました。私、研修広報担当の鮫島と申します」

 名刺を渡されると、こちらも名刺を渡さなければならないので困る。

「ちょうど名刺を切らしてしまって済みません。日本不動産タイムス社の島田です」

鮫島と名乗った女性は、ちらっと嫌な表情を浮かべたがすぐ打ち消し「ではご案内いたします」と先に立って歩き出した。

「このフロアの研修施設は、過去に弊社の研修を受けたことのある者、つまりリピーター向けのフォローアップ施設です。初めての方は、箱根にある研修センターで合宿形式による研修を受けていただいております」

 通路を進んで行くと、左手に研修生が憩う為のラウンジがあり、良い匂いが漂って来た。

「良い香りでしょう。弊社が独自に開発・製造したアロマです。もしお気に入りましたら、ラウウンジの売店でもお買い求めが出来ます」

諒輔が『いや、結構です』と言うように手を振ると、鮫島はあっさり先に歩き出した。

「ではこちらの部屋にどうぞ……」

 最初に案内された部屋に入ると、大勢の人が喚く声が大音量となって耳を圧した。

「この部屋ではあらん限りの大声を出すことにより、羞恥心などの邪念を払う訓練をしています」

 鮫島もこれ等の人に負けじと大声で説明する。女性を含む研修生と目される五〇人ほどの人達は、作務衣のような研修服を身につけ、ネームプレートを首から下げている。額や首筋の血管を浮き上がらせ、顔を紅潮させて何やら叫び、喚いている。各自がてんでばらばらに喚くものだから、何を言っているのかは分から無い。こんなことをして邪念が払えるか疑問に思ったが、諒輔は感心した風を装い、数度大きく頷いて見せ部屋の外に出た。

「いきなりでびっくりされたでしょう……大声を腹から出す、これが当社研修の基本その一です。この訓練は研修センターの中だけでなく、繁華街や駅前でも行っています」

 繁華街や駅前で訳の分からぬ事を喚かれては、聞かされる方はさぞ迷惑だろう。

「ところで島田様、当社の事はどちらからか紹介などあったのでしょうか」

「えぇ、取材先の企業などからかねがねシュラ・コンサルタンツの評判を聞いていましたので」

「成程、それで、御社の従業員は如何ほどですか?」

 どうやら見学する者をただでは返さない腹積りのようだ。

「うちは零細でして、四十人ほどしかいません」

「いぇいえ、四十人も従業員がいらっしゃれば、ご立派ですわ。弊社の研修の一つの特色ですが、二十人・三十人と言った中小企業が多くご利用しております。尤も弊社の研修を受けて、大きく業績を上げ、現在大手企業に成長したクライアントも数多くございますが」

 さり気なくPRを混ぜるとは、鮫島は思った通りのやり手である。

「どうぞ、こちらの部屋にお入り下さい。今度は静かですから話される時は小声でお願いします」

 案内された部屋は、入った部分が靴脱ぎ場になっており、脱いだ履物を収納する棚が左右に幾段も設けられている。その奥は一段高くなった畳敷きの大広間になっていて、三十人ほどの研修服を着た人達が座禅のような姿勢で静かに座っていた。諒輔と鮫島も靴を脱いで広間に上がると、香の匂いが鼻を打った。鮫島が諒輔の耳元で、ひそひそ声の説明を始める。

「こちらは瞑想の間です。弊社では禅とヨガ、更にはキリスト教の修道士が行う無言の行などを取り入れた独特な方法で瞑想が行われます」

 部屋の奥には、研修講師と思われる丈の長い黒服を着た男が棒を持って立っていて、鮫島を見ると一礼した。

「この研修は私も気に入りました。これなら良いですね」

 諒輔は思ったままを口にしたのだが、鮫島は先ほどの大声を発する訓練が否定されたと感じたのだろう、眉間に皺を寄せた。

「あ、いや、先程の研修はちょっとびっくりしただけで、中々良いんじゃないでしょうか」

 諒輔は卒なくフォローする。

「瞑想、これが当社研修の基本その二です」

 鮫島は諒輔の言葉に機嫌を直したようだ。

「それでは、そろそろ参りましょうか。次にご案内するのが、弊社の研修で最も重要と位置付けられているものです」

 鮫島に催促されて、その部屋を後にすると、廊下の一番奥まった所にある扉の前に着いた。

「少しお待ち下さい」

 鮫島はそう言うと、首から下げていた身分証をセキュリティ端末にかざした。

「本日は社長が講師を務める研修が無かったので、こうして中をお見せすることが出来るのです」

 鮫島は勿体ぶっておもむろに扉を開いた。中は劇場のような造りで、入った右手が舞台になっており、台上には大きな演台が置かれている。左手は劇場の椅子と同様のものが二百席位並んでいた。

「こちらの講堂は、研修の最終日に、社長の凌霄院月瞑が訓話をする場となっています。

この訓話こそが弊社研修システムで最も重要なところでして、訓話を聞いた研修生は誰もが深い感銘を覚えずにはいられないのです」

 諒輔は先程から何やら息苦しさを覚えていた。体調が悪いわけではないのに、この部屋に入った途端、気分が優れなくなったのだ。

「社長の凌霄院月瞑は研修指導のカリスマと世間で言われていますが、それ以上にとても大きなパワーをお持ちの方です。凌霄院月瞑の訓話、これが当社研修の基本その三です。

勿論、欧米流のメソッドやカリキュラムも用意しておりますので、お客様のどのようなご要望にも対応した研修システムのご提案をさせていただきます。ただ、カリキュラムでどうしても外せないのが、凌霄院月瞑の訓話です……」

 鮫島は淀みなく話していたが、そこで一旦言葉を区切り、諒輔の様子を窺うと話を続けた。

「では基本的なことはご理解いただけたと存じますので、別室で詳しく御社のニーズなどお聞きしましょう」

 諒輔は更に息苦しさが増していた。

「折角ですが、何やら先ほどから気分が悪くて仕方ないのです。相談はまた後日と言うことにしていただけませんか」

 鮫島は今度ばかりは露骨に顔を顰めたが、言われてみれば確かに諒輔の顔は青ざめ、気分が悪そうである。

「そうですか、それでは仕方ありませんね。研修のご相談は私が承りますので、いつでも電話して下さい」

 鮫島はなお未練がましい様子であったが、それでも諒輔を研修受付まで送ってきた。

 

 研修受付の前に戻った諒輔はやれやれと言うように、大きく伸びをした。あの部屋を出た途端、気分の悪さは嘘のように何処かへ行ってしまっている。このまま帰ろうと思ってエレベーターホールに来たが、月瞑にどうしても会ってみたいという思いが湧き出した。カリスマにして、偉大なパワーを持つと言う敵の首領に是非にも会って、どのような人物か、この眼で確かめたいという衝動が抑え切れなくなっていた。駄目もとで行ってみよう。諒輔はエレベーターに乗ると三十七階のボタンを押した。

 役員室受付は、三十五階の研修用受付よりずっと重厚な雰囲気で、一段と美しい受付嬢が座っていた。諒輔の姿を認めるとその受付嬢は立ち上がり、キャビンアテンダントのような笑みと姿勢で辞儀をした。

「シュラ・コンサルタンツにようこそ。こちらの受付は役員専用の受付となっております。弊社のどの役員にご用事でございますか?」

「凌霄院社長にお目にかかりたい」

「えーと、失礼ですがどちら様でしょうか」

 受付嬢は手元の来客予定リストを見ながら怪訝な顔をしている。

「私はこう言う者です」

 諒輔は財団会長の名刺を差し出した。

「あのう、すいません。アポイントは取られたのでしょうか?」

「いえ、思い立って突然やって来たのです。アポは取っていません」

 受付嬢は困惑した表情で「お約束のない方とは、どなたであっても社長はお会いになりません。申し訳ありませんが、アポイントをお取りいただいて出直してきていただけないでしょうか」

 至極当然の申出であり、諒輔としてもこれ以上我儘を言って、この美人受付嬢を困らせる積りは無かった。

「それもそうですね。では、こう言う者が挨拶に来たと伝えて置いて下さい」名刺を受付嬢に預けると、踵を返した。

 諒輔がトイレで小用を足し、三十七階のエレベーターホールで下りのエレベーターが来るのを待っていると、ヒールが床を打つ音が近づいてくる。かなりの早足のようだ。

「待って下さい、お客様。社長がお会いになるそうです」

 先ほどの受付嬢が息せき切って走ってきた。

「あぁ、間に会って良かった。下まで行ってしまわれていたらどうしようかと焦りました」

いかにもほっとした表情である。

 

 役員受付の前には社長秘書と名乗る女性が待っていて、役員フロアの最奥の社長室まで案内した。秘書がノックしドアを開けた。

 室内には、二人の男が待っていた。一人はあの玲雪という長髪、色白の男。もう一人は、坊主頭、サングラスの男であった。坊主頭が凌霄院月瞑に違いない。

「驚きましたな。陰の長者自ら、それも一人でお越しになるとは」

 月瞑はサングラスをしたまま、歩み寄って来た。

「ご近所の誼(よしみ)で参上しましたが、ご迷惑でしたか」

「いやいや、大胆なことと感服しておるところです」

「そちらの方は、先日、当方にご挨拶に来ていただいているようですね」

 諒輔は玲雪に目を向けた。玲雪は怒りの眼差しで諒輔を睨みつけている。月瞑の下知一つで、今にも飛びからんばかりである。

「そうでしたな、玲雪とはすでに顔馴染みの間柄とか……申し遅れました。私が凌霄院月瞑です。以後お見知り置きを」

「私は三輪諒輔、忠彬様の後を継いだ者です」

 長い間に亘り抗争を続けてきた組織の首領が、こうして穏やかに相見えるのは過去の歴史にも無いことであろう。

「どうぞお座り下さい。今日の所はコーヒーでも飲みながら世間話でも致しましょう」

月瞑に言われて諒輔は椅子に腰かけた。

「いや、そう長居はする積りはありません。一目、阿修羅教団の頭領の顔を拝見出来ればと参上したまでで……サングラスはいつもされているのですか?」

「このサングラスがお気に障ったようですな。他の者には決して素顔を見せないのですが、他ならぬ陰の長者のご要望のようなので、どれ外しましょう」

 素顔を決して見せない月瞑のその言葉に玲雪は驚いて目を見開いている。

 月瞑がサングラスを外し、その顔の全貌が明らかになった。歳の頃はまだ四十歳前後であろうか、若手歌舞伎役者のホープと世上騒がれている名門御曹司にそっくりな端正な顔立ちである。しかしその御曹司と決定的に違う所があった。その両眼の瞳は血のように真っ赤だったのである。端正な顔立ち故に、瞳の不気味さが何倍にも増幅されている。

「生まれた時はこれ程赤くは無かったそうですが、私の目を見た母は驚き悲しみましてね。長じるに従い、更に私の瞳に赤味が増すと、母は私を気味悪く思うようになったのです。その頃、父の知り合いの修験者が私を見て『この子は、不動明王か、役行者の生まれ変わりに違いない』と言いまして、その修験者が幼い私を引き取ったのです。母にとっては化け物を追い払ったという気持ちでしかなかったのでしょう」

 月瞑は、言葉を区切ると、ゆっくりとした手付きでサングラスを掛け直した。

「それからはその修験者の下で、それは厳しい修業を科せられました……もうご想像が付いたと思いますが、その修験者は阿修羅教団の幹部だったのです」

 玲雪は隣の月瞑の横顔を、潤んだ目でじっと見つめ聞き入っている。諒輔も月瞑が敵だということをしばし忘れ、幼い月瞑の心境を思いやり、つい、しんみりとしてしまった。

「この話は教団の幹部には何度も話しているはず、玲雪までが真剣に聞き入ってどうする」

「いえ、月瞑様。この話、何度聞いても切なくて」

「泣くな、玲雪、陰の長者に笑われるぞ」

月瞑はそう言うと、玲雪の肩に手を回し優しく抱いた。諒輔は見てはならない場面を見てしまったように感じられ、思わず顔を背けた。そんな諒輔の反応を敏感に感じ取ったのであろう、玲雪が突然激高して立ち上がった。

「おのれ、我々を馬鹿にするか。ただではおかんぞ……月瞑様、我ら二人で掛かれば、例え陰の長者であろうと、容易く討ちとることが出来ます」

 玲雪は白皙を紅潮させ、月瞑に攻撃許可を求める。

「まぁ、待て。攻撃する機会は、これから幾らでもある、今日は両首領が相見えた歴史的な日だ。このままお引き取りいただこうではないか」

「私もそろそろ、お暇いただこうかと思っていたところです。これで失礼いたしましょう」

月瞑は、まだ激高が納まらない玲雪を手で制し、インターフォンを押して秘書を呼んだ。

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