少女は異世界で学識高く

藍原レトロ

 

第1話 「ਗੁਲਾਮ《グラーマ》、つまり私は奴隷になったわけですね」

#1-1

 指先で読む、人が確かに死んだ証。

 だが、刻まれたそれは確かに彼女の時代にまで生きている。


 「教授、この先にも道が続いているようですが、これ以上は…」


 マスクに眼鏡姿の女性は振り返って言った。すぐ後ろに彼女よりも随分と年上の男性がやはり同じ姿で立っている。


 「ああ、わかっている。今日はここまでしよう」


 教授と呼ばれた男性は大きな手元灯を手にし壁に手をつけながら踵を返した。


 「ふぅ…」


 女性は教授が動き出すのと同時に小さく息を吐いてから、足元に散らばる自分の荷物を片付け始める。すぐそばに置いていたスマホの光が低い天井までの岩肌を照らす。無論、この場所に電波などない。写真を撮ったり、メモを残す目的で彼女が持ち込んだものだった。


 「そうだ、泉谷いずみやくん」


 遠ざかっていく教授はくるりと首だけをこちらに向けて、彼女へと声をかける。


 「何です?」


 少し大きい声で返事をした彼女の声がぼおんと薄暗い室内に響く。


 「先週君が書いた論文、よくできていたよ。特に、当時の孤児の暮らしから王族たちの生活様式、果ては内部抗争を推測するという発想は、実に感心した」


 「いえ、視点を常に固定するなというのは教授の教えでしょう」


 「それでも素晴らしい出来だったんだ。僕は君のような優秀な教え子を持てて、本当に嬉しいんだよ」


 表情までははっきりと見えないが、その声色から彼女は今教授が微笑んでいるのだと思った。


 「そう…ですか」


 汚れた手で眼鏡を直すと少しレンズに土がついた。近くにレンズを拭けるような綺麗な布はなかった。彼女は仕方なく、眼鏡を外しそっと胸のポケットへと入れた。


 「この遺跡、どこまで続いているんだろうねぇ。随分と来たのに、まだ先が見えない。昔の人は、何だってこんなに深く作ったんだか。やっぱり宝かなぁ」


 「教授にとっては、この遺跡自体がもうお宝でしょう?」 


 「ハハハ、君の言うことはいつも的を射るねぇ。さあ、今日は早めに夕食にしよう。あまりのんびりしていないで、泉谷くんも早く出ておいでよ」


 足音と一緒に教授が残していった熱も引いていくような気がした。


 ー急いで出よう。


 ぼやけた視界の彼女は本当はまだ少しここにいたかったが、また小さく息を吐いてから足元のスマホを拾い上げた。それまで煌々と光っていた画面の光が空中を横切る。部屋を出ようと地面に置いていた彼女のライトを拾おうとしたその瞬間、彼女の手元灯は消えてしまった。


 「あれ?」


 おかしい。暗闇の中、確かに十センチ手前にあった手元灯に手を伸ばしても、その指先には何も触れない。何度か空を切る指先に疑問を持った彼女は再びスマホの電源を押し、その画面の光を当ててみた。


 ー手元灯がない。


 さっきまでそこにあったはずのライトが突然消えてしまった。光を失っただけではなく、本当にその姿を消してしまっている。周辺をくるりと見渡してみたが、ライトらしいものは見つけることができなった。


 この遺跡は出口まで約百二十メートルほど。高低差はあるが、壁伝いに歩いていけばライトなしでも歩けない距離ではないだろう。いっそのことライトのことは諦めてしまおうかと思ったが、この異国の地で物資の紛失は後々大きな痛手になる。


 ーどうするべきか。


 しばらく悩んでいた彼女の左頬を柔らかい光が撫でた。目を細めてみると、おそらく先ほどまでここにあったライトが少し進んだ道に転がっていた。


 「どうしてあんなところに…?」


 一人でライトが移動したとは考えにくいし、もしかすると自分が移動していたのかとも考えた。だとすると、自分は今無意識に酸欠状態に陥っているのではないか。地下の遺跡には奥に進めば進むほど酸素が薄くなる。だから教授の班は必ず時間でその探索時間を決めたいたのだが、今回は思ったよりも早くそのタイムリミットが来ていたらしい。


 「まずいわね」


 すぐにここを出ようとライトまで足早に歩いた。そしてまたライトへと手を伸ばし、その指先に触れるかと思った瞬間に彼女は気づいた。


 ライトの向こう側に、二本の足が見える。


 ライトの光を前にして固まった彼女だったが、すぐに冷静にその脚の持ち主を考えた。教授ではないだろう。方角として出口からは真逆だし教授のものにしては細い。では現地のコーディネーターか。いや、それも違う。彼女の肌よりもだいぶ黒いからだ。


 ーでは誰のものか。


 彼女がゆっくりとライトを手にしその顔を確認すると、まるで骸骨のようにこけた真っ黒い顔に二つの赤い目の男が立っていた。一枚の布を纏ったような服は所々破れていて、あばらの骨が何本か見える。それに男の右手はなかった。そこに立っているだけで信じられないような姿、一目でこの世のものではないことがわかった。


 微動だにしない彼に向かって彼女は尋ねる。


 「あなたは、誰?」


 返事はない。そのことが彼女の中で一層強く己の危険信号を鳴らすことになった。ずずっと少しずつ後ろにずらしながら、いつでも駆け出す用意はできていた。


 もう一度尋ねる。


 「あなた、誰なの?」


 すると男は静かに口元を動かした。今にも崩れ落ちてしまいそうなボロボロの顎だった。


 「貴様にはやらん」


 黒い男が飛びかかってくる。逃げようと体を引いた彼女だったが、男の方が何倍も早く動いていた。そして、男は腰元の黄金の剣を左手で抜くと、彼女を目掛けて突き立てる。左手で持っていた手元灯で防ごうとしたが、男はその手元灯ごと彼女の胸を剣で貫いた。


 「はっ…ぁっ!」


 胸からジンと広がる痛みとすぐに暗転する世界。遠ざかる音が最期の時を告げる。


 ー死ぬのね、私。


 微かに男が笑っているような声が聞こえる。


 重く沈んでいく体は冷たくなっていくはずだったが、彼女にはただ熱い風が吹き荒れているような不思議な感覚だった。


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