其ノ四 初恋

4-1

 夕映えの阿智神社。

 倉敷美観地区東側の鶴形山の山頂に位置する、鎮守の神様が祀られている古社だ。創祀は千七百年を超えると言い伝えられている。


 頂上まで続く長い階段に腰掛け、仕事帰りの逢沢あいさわ望美のぞみは暮れなずむ倉敷市街を見下ろしていた。

 ひとりで考え事をしたくなると、いつもここを訪れる。


 夜の業務が丁寧過ぎて遅い店主のことで、せっかちなオーナーの少年に八つ当たりをされたり。接客中の相手の横暴な態度などで心が折れそうになったり。

 そんな時は、ここでこうして茜色に染まる歴史情緒のある白壁の街並みを見下ろしていると、少しだけ気分が落ち着く望美だった。


 まるで、幼い頃に亡き父が読み聞かせしてくれた思い出の絵本『しあわせのくに、まほろば』の空の世界に浮かび、身体が溶け込んでいるような気持ちになれるのだ。


 春の強い風が、鶴形山を天高く吹き上げる。

 望美は右手でセミロングの黒髪を、左手で膝元を押さえた。


 淡いベージュのスカートの膝元に、ひとひらの淡い紫色の花びらが舞い落ちる。

 阿知の藤。鶴形山の山頂近くにある藤の名木だ。阿智神社本殿の裏手に自生。樹齢は五百年ともいわれ、県が天然記念物にも指定している。


 続けざまに降り注ぐ藤の花びら。

 スカートと、その上に敷かれてある白い紙の束の上を、幾つもの紫色の雫が染め上げる。


 ため息交じりに、彼の名をつぶやく。


「いっくん…………」


 白い封筒に入ってあった白い紙の束。

 それは受取人への思いの丈が綴られた、一通の長い手紙だった。

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