第11話


 上機嫌で来た道を戻ってコンビニの前を通りかかり、ガラスに映った自分の姿に目が留まった。

 かわいいワンピースに、履きつぶしたスニーカーがアンバランスで眉を顰めた。見なかったふりをしてそのまま通り過ぎ、電車に乗った。

 着なれないスカートのせいで膝下がスースーと頼りない。電車の中のすべての視線が自分の方に向いて、眉を顰めているような気がする。

 さっきまでの華やいだ気持ちが急速にしぼんでいく。みんなが自分のことを滑稽だと笑っている気がする。いや、気のせいじゃない。自分は道化だ。


 イライラした。ワンピース一枚で浮かれた気分になっていた自分に腹が立った。軽薄だ。胸の奥から昏い穴が、蛇が鎌首をもたげるようにして這い出した。浅はかで愚かな晴子を飲み込んでしまおうと、どんどん大きくなっていく。

 今にも頭から食われてしまいそうになって、晴子はぎゅっと目をつぶった。


 車内アナウンスが次の駅名を告げた。晴子が降りる駅だ。開く扉の隙間をこじ開けるようにして駆け出した。間一髪で穴から逃げ出せた。それを確認するためにホームに降り立ち振り返る。

 けれど、本当は晴子は知っている。閉まりかけた電車の扉の向こうにも、ホームの白線の側にも、穴などないのだ。もとからどこにも、大学への通学路にだって穴などありはしない。なのにどこへ行っても、晴子はこの世に存在しない昏い穴に捕まりそうになる。

 青ざめた晴子は見えない穴に追い立てられているかのように駆け出した。



 大きな音を立てて鍵を開ける。家族がいようがいまいが、どうでもよかった。一刻も早く離れに戻りたかった。靴を脱ぎ捨てて廊下を突進する。薄暗くてじめじめした晴子にぴったりの部屋に、もうすぐ辿りつける。


 離れに駆け込んでドアを閉める。力が抜けてずるずると崩れ落ちた。

 紙袋が倒れて、中から華やかな洋服たちがこぼれだす。なんでこんなものが自分の部屋にあるのだろう。これはみんな桃比呂の、あのかわいらしくて良い香りのする部屋にこそふさわしい。この離れに持ち込むなんて間違っている。

 離れに似合うのは灰色とさび色と、そして昏い昏い黒だ。それ以外、あったらいけない。自分が自分でなくなってしまう。離れに似合いの自分ではなくなってしまう。

 晴子は服をすべて紙袋に詰めなおすと、もう二度と目に触れないように、背伸びして押しいれの天袋に押し込んだ。

 



 この部屋の窓は大きい。そしていつもブラインドは下ろされている。今日も、昨日も、一昨日も、おそらく来年も。変わらない毎日のように決まりきって。晴子は机を挟んでカウンセラーと向き合って黙り込んでいた。


「何か変わったことはありましたか?」


 放っておくといつまでも黙りつづける晴子に初老の女性は質問を投げかけた。


「……べつに」


 いつもならすぐに次の質問にうつるのだが、カウンセラーはゆったりとくつろいだ微笑を浮かべたまま晴子の言葉を待っている。まるで「あなたの言いたいことはすべてわかっているのよ」と言われているような気がして気分が悪かった。


 いや、本当は言いたいことがあるのに口が動かない自分に腹が立っているのかもしれないと晴子は思いなおした。そうすると、にわかに口を動かしたくなって、ぱくっと口を開けた。カウンセラーの視線がちらりと動いたが、彼女は何も言わなかった。


「女装をした」


 カウンセラーは少しうなずいて晴子の言葉の続きを待った。


「化粧も。でも嫌になった」


 嫌になった。なににだろう。かわいい服にだろうか、化粧にだろうか、それとも、自分自身にだろうか。


「わからないけど」


 ちらりとカウンセラーの目を見てみると、真っ黒な瞳が晴子を観察していた。この人にならわかるんだろうか、自分がなにを嫌がっているのか。でも聞いてみてもカウンセラーはなにも答えてはくれない。カウンセラーはただ聞くだけだ。そこになにもないように、誰もいないように晴子は話すだけだ。

 そこにあるはずのない、昏い穴に語りかけるように。


「どこにいても結局帰る、あの部屋に」


「離れね」


 その呼び名をいつカウンセラーに話したか覚えていなかったが、晴子は素直に頷いた。いったい自分は離れのことをどんな風に話したのだろう。懐かしい故郷のように? それとも昏い牢屋のように?

 思い出せなかった。病気のせいか薬のせいか、記憶力もずいぶん減退している。だがそれ以上に思い出したくない、思い出せば恐ろしいことが起きる。そんな気がした。


「もういい」


「離れに帰ることをどう思う?」


「べつに」


 カウンセラーはゆっくりと瞬きした。もうこれ以上、晴子から聞きだせることはなにもないのをわかりきっているという合図だ。もう話す必要はない。ああ、自分は離れに帰るんだ。

 晴子は、ぐったりとひじ掛け椅子の背もたれに体を預けた。話しすぎた。なにもかも話したってカウンセラーには晴子の中の昏い穴は見えないだろうに。それくらい穴は晴子と同化している。

 もう、離れにこもる以外に出来ることがなにもないほど、疲れていた。



 翌出勤日。ワンピースのことは誰にも、桃比呂にもなにも話すまいと固く決意して業務フロアに入った。窓際のデスクを見てみると、桃比呂はいつも通りの無表情でいつも通りのネクタイ姿だった。

 先日のことは全て夢だったのかもしれないと思うほどに、なにもかもいつも通り。晴子は拍子抜けして、これもいつも通り気合が入らない様子で仕事を始めた。


 昼休みも桃比呂がなにか話しかけてくるのではないかと恐々と隣に座ったが、いつも通りに無言で軽く頭を揺らしてみせただけで黙々とおにぎりを頬ばっている。

 ほっとしたような気もしたが、急な坂道で転んでしまったような気もした。せっかく登ってきた坂道をどこまでもゴロゴロと転がり落ち続けて、なにもかも台無しにしてしまったような、そんな気持ちもしたのだ。

 茶色いコンビニ弁当を食べながら、いつもなら味が濃すぎると思うのになぜだか今日はソースの味もよくわからなかった。


 その日の仕事は散々だった。決められたノルマ達成には程遠く、ミスも頻発した。晴子たちが入力したデータを別のチームが精査して確認するので、小さなミスが直接会社の損害につながることは、まずない。

 だが、あまりのミスの多さに精査業務の人間が辟易したのだろう。普段は翌日になってからミスがあったことを注意されるのだが、今日は退勤時間直前に桃比呂の席に呼ばれた。

 桃比呂はいつも通りの感情が読めない目で晴子の方を見ることもなく書類に目を通しながら話し始めた。


「お呼びしたのは今日の……」


「ミスのこと」


 先手を打って自己申告した晴子の言葉に、驚くこともなく桃比呂は頷いた。


「ご自身で認識されていたということですね。なにか理由がありますか」


「べつに」


「体調が悪いとか」


「べつに」


「悩みがあるとか」


「べつに」


「業務内容が負担だとか」


「べつに」


「そうですか。では、今日はたまたま難しい案件に当たったとか、そういうことでしょうか」


「はあ」


 桃比呂は頷いて手にしていた書類になにか書きこんだ。会社から支給される安いボールペンを当たり前のように使っている。態度が悪いとでも書かれただろうか。べつにかまわない、どんな評価を受けようと。

 冷静に叱りもせずに桃比呂は自分の業務だけを済ませていく。晴子はぼんやりと桃比呂の細く長い指を見ていた。べつにかまわない。どう思われようとかまわない。いつも通りだ。いつもと、同じだ。


 コンビニでいつもの弁当を買おうとして、ふと隣に陳列されている商品が目に入った。『彩り野菜の冬シチュー』という、このコンビニの人気シリーズの冬バージョンだ。冬というにはまだまだ早いのだが、季節を先取りするのが流行というものなのかもしれない。

 ブラウンシチューは一見するとカレーのようにも見える。

 晴子は夏の暑い日に外に出て汗を流しながら食べたカレーの味を思い出した。あの時、無心になってカレーを味わえたのはどうしてだっただろう。

 確か、暑すぎて、イライラしていたはずなのに。あれは初めて桃比呂と並んで食事をした日だ。晴子は見慣れた桃比呂の横顔を思い出す。


 初めて見た時はなにも考えていないようだと思っていたが、今は桃比呂が抱えていることをいくつか知っている。おにぎりはいつもオカカとシャケなこと、かわいいものが好きなこと、女装が似合うこと、笑うと新月のような目になること。親切なこと、優しいこと、晴子のことを秘密を打ち明けられる人間だと思ってくれたこと。


 ふと、いつもの弁当ではなく、シチューに手が伸びた。だが、一瞬早くその商品を別の人が取っていってしまった。最後の一つだったそれを持ってレジに並んだ女性の、きれいに結い上げられた髪のつややかさを、晴子は遠い目で見ていた。



 昼間でもずいぶん冷えるようになってきた。晴子は半袖のTシャツの上にカーディガンを羽織って出勤する。その恰好では肌寒いのだが、コートを着るにはまだ早い。

 離れを出る前にちらりと天袋に目が向く。だが暖かい服がしまわれているそこには昏い穴が立ちふさがって晴子の手を拒んでいる。

 晴子は毎朝、ジーンズのポケットに両手を突っ込んで足早に会社に向かう。ビル風でぼさぼさの髪が巻き上げられる。適当に払って風をよけるために下を向く。

 髪もずいぶん伸びた。今の職場に入った頃には肩につくかつかないかくらいだったのだが、今では背中の中ほどまである。切ろうかどうしようかと考えることもあるが、変わらないのが一番ラクだ。

 いつも、放っておくことにしようという結論になる。いや、結論というほどしっかりした思いでもない。なんとなく流されて、どれだけ髪が伸びても、いつも通りでいいと自分に言い聞かせている。それだけだった。


 最近はかわいいものは買っていない。コンビニに行っても出来るだけいつもの弁当以外は見ないようにしている。

 大学入学時に受けた奨学金の返済があるのだ、無駄遣いは出来ない。

 いつも通りの茶色の弁当。コロッケ、から揚げ、焼きそば、茶色、茶色、茶色。茶色は安心の色だ。攻撃的な赤や気持ちを沈ませる黒、枯れていくしかない緑とは違う。どこにでも潜んでいる特別感のなさ、安定した緊張感のなさ、なにも変わらないことを象徴する色。


 晴子は自分の心も茶色をしているだろうと思う。くすんで汚いぼろビルのような古臭い茶色だ。これからも毎日、茶色弁当を食べているうちに、きっと心だけでなく、晴子のすべては茶色に染まりきるだろう。

 それはとても素敵なことに思えた。いつも変わらず、どんな色と混ざっても濁りを持たせるどうしようもない色。薄暗がりの離れの畳の色。

 晴子は今すぐにでもそんな色に染まってしまいたいと思う。


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