第74話 大切な記憶
走馬灯──それは死に直面した危機的状況に陥った場合、助かりたい一心でなんとか助かる方法を見つけるべく、記憶の引き出しを片っ端から開けていくことによって溢れるように一斉に記憶が蘇ることだ。
発生する理由は、記憶を司る脳の器官に送られる酸素が著しく減少することによって、正常に機能しなくなるから。もしくは多量に分泌されたアドレナリンによって脳の機能が変化して思い出されるから──らしい。
思えば昔からずっと僕は心の中で泣いていた。
両親には毎日毎日同じことをされた。あちこちを殴られたり蹴られたりタバコの火を当てられたりしたのだ。
しかもこれはまだ比較的マシなもので、機嫌が悪いときには少量の熱湯をかけられたりアイロンを押し当てられたりしたのだから。僕が泣いていると母は決まってヒステリーを起こし、耳をつんざくような高い声で叫びながら暴力を振るった。父も怒鳴り散らして母と同じようなことをした。
そのせいで僕の体にはいつも痣と火傷の痕があった。特に痣は色とりどりの絵の具が出されたパレットのようで気味が悪い。そのせいで僕は年中どのような気候でも変わらず四肢を隠せるような服を着るはめになった。しかしそれもボロ雑巾のほうがまだ綺麗と言えるほど汚いもので、着ないほうがまだ良かったのではないかと幼心に思った。
そんな地獄のようなある日、父親が出て行った。──否、遺伝子上も戸籍上も父親ではない。その男は母の恋人に過ぎなかった。しかし僕はそれがとても嬉しかった。なぜなら純粋に暴力を振るう人間が一人減ったのだから。
その前夜、両親は酷く喧嘩をしていたようだった。僕は布団を被って自分に火の粉が降りかからないように祈りながら息を潜めていた。隣の部屋では食器や灰皿が宙を舞い、ガラスが割れる音が断続的に聞こえた。
その音が聞こえるたびに僕は体を痙攣するようにビクビクと震わせて怯えていた。
結局その夜は一睡もできなかった。朝日が昇り、台風一過のように家は静かになっていた。
母は疲れ切っていたようでリビングルームのソファで寝息を立てていた。僕は母を起こさないように静かに部屋の片付けを始めた。
家事はもっぱら僕の仕事だった。五歳か六歳になった頃には叩かれることなく一通りの家事をこなせるようになっていた。これも両親の飴と鞭ならぬ鞭と鞭という教育の賜物だった。
しかし僕はまだ子供だ。割れたガラスを片付ける際、破片で手を何か所も切ってしまった。しかし母の目が覚める前にすべて片付けられたから結果オーライだろう。
それからしばらくの時が経過した。一、二年が経過したある日、母は懲りずにまた男を連れ込んでいた。
すぐに妊娠しているということは分かった。母やその男が膨らんだ腹を愛おしそうに撫でるものだから僕はトイレに駆け込むはめになった。
ほとんど液体しか入っていない胃の中身をぶちまけ、僕は酸鼻をきわめた。なぜなら──生まれてくる子供が可哀想だったから。
どうせあいつらは子供のことを玩具としか思っていない。生まれてきた子供も間違いなく虐待される。なぜなら彼らは人間として見ていないのだから。そうでなければあのような仕打ちはできないだろう。
人間未満の二足歩行する生命体に僕は酷く嫌悪した。
それからまた時間が経過して、妹──ヴィオラが生まれた。
最初のうちこそ両親はヴィオラを可愛がっていたが、早々にヴィオラの夜泣きに根を上げて外に投げ捨てようとした。
僕がそれを止めなければ既にヴィオラは死んでいたことだろう。
──結果的にそちらのほうが世間様には得だったのかもしれない。
それからはヴィオラの面倒を見るのも僕の仕事になった。泣いたとしても僕があやすと不思議なことにすぐに泣き止むのだ。だからとても育てやすかった。
しかしある日の晩、ヴィオラがなかなか泣き止まなかったのだ。それに苛立った母が熱湯をヴィオラにかけようとしたため、僕が覆い被さるようにして守った。
熱湯は無慈悲にも僕の体を焼いた。しかもその熱湯の量は鍋一杯分だったから、火傷は相当なものになった。この痕は今もなお痛々しく残っている。しかしこれはヴィオラを守ることができた勲章だと思えば僕は後悔しなかった。
これがヴィオラにかからなくてよかったと胸を撫で下ろしたのと同時に、僕の中にあった糸がプツリと千切れた。
それからは記憶がなかった。気がつけば僕はヴィオラを抱きかかえてスラム街に足を踏み入れていた。
これからもヴィオラは僕が守っていこう。親に愛されなかったけれど、その分僕が愛してやる。人並みの生活を送らせて、いい相手を見つけて幸せにしてやる。
──だから安心してくれ。お姉ちゃんを信用してくれ。
次の瞬間、体にかかる重力が何倍にも増加したような感覚を覚えた。反射的に僕はそれに抗って上半身を起こし、目を見開いた。
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