今日から神様になりました

 全ての感覚が切断され、無が訪れた。

 私は死んだのだ――そう悟った。

 いろいろなことがあったが、それでも振り返れば、よい一生だった。

 感慨深く生きた時間に浸ろうとする。だがしかし、すぐに後悔の嵐に足元を救われそうになっ――

「――人生、お疲れ様でした」

 優しげな女の声がふと聞こえてきた。

 私は後悔するのをやめて、閉じていたまぶたを開ける。

 そこは――役所の窓口みたいなところだった。

 椅子に座っている。カウンターの向こう側には、にこやかな笑みを向けている女がいた。

 初めて来る。当たり前だ、死んですぐなのだから。

 おそらくここは、昔でいう閻魔えんま大王が裁きをする場なのだろう。だいぶ昔に、そんなシステムは廃止され、こんな事務的で明るい場所へと変わったらしい。少々小耳に挟んだことがある。

 細かいことはとりあえず脇へ置いておいて、

「お疲れ様でした――」

 と、座ったまま、頭を礼儀正しく下げて、私ははたと気づいた。目の前にいるのは神様――女神なのだと。慌てて言葉を言い直す。

「じゃなくて、お世話になりました」

「いえいえ」女神は首を横に振って、にこやかに否定をした。

「私は守護をしていた者ではないので、お礼はご本人にお伝えください」

 ちょっと拍子抜けだ。肩に入っていた力が抜け、ぎこちなく笑う。

「そう、ですね……」

 そうか。神様も星の数ほどいる。ここは天国の窓口であって、生きている間、守ったり導いてくださった神様は別にいるのだ。

「あ、あの? ここって、霊界のどこですか?」

 どう見ても、地獄ではなさそうだ――。

 そうして、衝撃の言葉が、女神によってもたらされたのだった。

「こちらは霊界ではなく、ですよ」

「え……?」

 その時の私はまわりから見たら、誰が見ても間の抜けた顔をしていただろう。化石並みに思考回路が停止している私に構わず、女神――いや目の前にいる女は話を続けている。

颯茄りょうかさんは生きている間に、霊層が神にまで上がったんです」

 私あらため――颯茄は、

「あ、あぁ……」

 戸惑い気味に返事を返す。飛び上がって喜ぶなんてものは起きなかった。

 私はおごり高ぶったりするような人間ではない。長い人生の中で、謙虚さがどれだけ大切かは重々承知していた。

 人は自身の力で生きているのではない。聖書から学んだことだ。今ここにいるのは、誰のお陰か身に染みるほどわかっていた。

 颯茄は頭に照れたように手をやって、

「やはり、神様のお陰でしたか、この世界に来れるようになったのは……」

 道を踏み外しそうになった時、神様はいつでも私をの道へと戻してくださった。決して道ではない。普通――の道だ。

 感慨深くうんうんと何度もうなずいていると、女は首を横に振って、

「私たちは神様ではありません。神にも神様はいますから、こちらではただの人です」

「そ、そうでしたね」

 颯茄は冷たい汗をかく。

 神と呼ばれるには、常に住む世界の格差が生じる。神界に住んでいる存在は、地上にいる人間からすれば神だが、人間と何ら関係なく普通に暮らしているのだ。

 神世へ上がった颯茄は天井を見上げ、丁寧に頭を下げた。

「新しい守護神の方、よろしくお願いします」

 幸先いいスタートだ――。颯茄はとても嬉しくなって、薄ら笑いを浮かべていた。妄想が暴走する。

「うへへ……うへへへへ……」

 長年この仕事をしているが、こんな反応を見せた人間は初めてだ。カウンターの向こう側にいる、女は奇妙な目で颯茄をしばらく見つめていた。

 颯茄は妄想世界へダイブする――真っ白な雲が広がる天国を裸足で駆け出し、解放感に浸っていると、白馬に乗った王子様が突然やって来て、

「以前から、ずっとお慕いしていました」

 なんてこくられて、

「あら?」

 わざとらしく驚いたふりをして、次の瞬間には――都合よく場面はカットして、白いウェディンスドレスを着て、教会の出口でライスシャワーを浴びながら、人々から祝福をいただく。お幸せに――

 めでたし、めでたし――。

「通常でしたら――」

 いつまでも妄想から戻ってこない、おかしな颯茄を置いて、係の女は強引に話を進め出した。はっとして「は、はい……」いつの間にか閉じていたまぶたをしっかりと開け、胸の前で組んでいた両手はさっとほどいて、膝の上に乗せた。

「こちらの世界の細かいルールなどをお伝えするのですが、颯茄さんは、もうおわかりですよね?」

 そんなことをいきなり言われても困るのだ。

「わかってるかはどうかわかりませんが、生前、霊感があったので、神様の話をちょっと聞いていただけで……詳しくは……」

 人よりはあるかもしれない。だが、それは確信を得られるものではなく、自信がないのが正直なところ。

「そうですか?」

 女は疑いの眼差しで聞いてくる。そんな態度を取られると、これまた自信がなくなるもので、「はい……」叱られたみたいに力なく、颯茄はうなずいた。

 クイズ番組で出題するように、女は身を乗り出し、真剣な顔で話し出した。

「例えばこんな話です。法律はご存知ですか?」

「みんな仲良く――だけです」

「それでは、政治形態はどのようになっていますか?」

「立憲君主制で、皇帝陛下と女王陛下が治めている、帝国です」

「物流の報酬は何で行われていますか?」

「物々交換が主流です。子供たちはチップです。お金も存在はしています」

「子供が生まれてから小学校へ入学するまでをお答えください」

「一歳から五歳までは、二ヶ月ごとにひとつずつ歳を取ります。五歳になったと同時に、小学校へ入学。その後は、六百八十七年でひとつ歳を取ります」

「えぇ、生まれて一年後には、一歳から五歳までの誕生日パーティーを盛大に行います。今では、専門のプランナーもいるほどなんですよ」

 全問正解。というか、霊感持ちの颯茄にとっては当たり前の話で、喜ぶべきところは別にあった。

 椅子から勢いよく立ち上がり、彼女はガッツポーズをした。

「さすが神様――いやこの世界の人です。そう言うわけで、五歳児が爆発的に増えてるから、そこにビジネスチャンスがあるってことですね?」

 肯定の返事お待ちしております――。すると、女は「えぇ」と少し笑いを堪えているように表情を歪めて、「それでは、何歳で成人と認められますか?」

「十七歳です」

「ちなみに、颯茄さん、おいくつで年齢止めますか?」

 とても事務的なやり取りだったが、颯茄の瞳はみるみる輝いた。

「あぁ、そうですよ! 十八歳以上の大人は好きなところで年齢止められるんですよね? この世界って」

「えぇ。永遠の若さです」

 人間だからではなく女だから――、いつまでも若く美しくいたいのだ。神とかは関係ない。係の女の笑みを見て、颯茄は確信を得た。

「やっぱり、人生、一生懸命生きてきてよかった!」彼女は口に手を当てて、幸せいっぱいな笑みで、崩れるように椅子に落ちた――座り直した。

 人生で一番若い日は今日――とはよく言ったもので、若さがあればと後悔するだけ時間と労力の無駄だと、そっぽを向きながらも、よだれがしたたるほど欲しがった若さ。それが叶うのだ。颯茄は即答だった。「十九でお願いします!」

 思いっきり若返ってやる!

「事前に決めていらっしゃったんですか?」

 何だかんだと言っていた割には、即答していますが――みたいな意味ありげな笑みを、女性職員から向けられ、颯茄は照れたようにまた手を頭にやった。

「いや〜、直感の人間なので、今思いついただけです」

「やはりご存知ではありませんか。こちらの世界の法則を」女は乗り出していた身を引いた。

「あぁ、はい……。守護をしてくださった神様のお陰です」

 神が教えてくださっというか、知らないと話が通じないのだ。宇宙人と交信するよりも難易度が高い。だって、相手は普通は見えないし、さわれもしないし、声も聞き取れないのだから。嫌でも覚えてしまうというものだ。

「その、守護をしていた方が、颯茄さんが神世へ上がられた際には、是非お会いしたいと伝言をうけたまわっています。いかがなさいますか?」

「ぜひ、お願いします! お礼が言いたいんです」

 何十年も共に人生を生きた存在だ。夫婦と言っても過言ではない。女性だったが――

「それでは、さっそく連絡しますので、お待ちください」


    *


 自動ドアを抜けて、新しい世界が広がった――

 眩しさで一瞬目がくらむが、すぐに霧が晴れるように、知らない景色が広がった。

「うわぁ!」颯茄は思わず感嘆の吐息をもらす。言葉が見つからないとは、まさしくこのことを言うのだろう。

 どんな絵具を使っても描けないほど、透き通った青空が広がる。天まで届きそうなほどの摩天楼まてんろうがいくつもそびえ立つ。ここは首都なのだろう。

「すごい高さだ」

 下から見上げているだけでも足がすくみそうで、

「落ちたら危ない――」

 ありえない心配をしている――。そう思って、颯茄はかぶりをプルプルと振った。

「死なないんだ。もう死んでるんだから。だから、怪我もしない。それに、神様が何の転落防止策もしていないはずがない。人間が思いつかないような方法で、落ちないようになってるんだよ」

 悠々と空を飛んでゆく龍の群れを仰ぎ見て、誰か隣にいるように言った。

「ね? あんなふうに飛べる人もいるからさ、入り口が数十階上にあるってこともあるんだよ」

 龍のうろこが陽の光にきらめいているのを、ただただ眺める。一匹――いや、一人ではく、小さな龍も一緒に飛んでいる。

「家族で買い物にでも来たのかな? かわいいね、あの子供の龍」

 パパっと、車のクラクションで我に返り、視線をすぐさま道路へ下ろそうとした。途中で斜め上へ向かって飛んでゆく車に目を奪われた。

「さすが神様だ。重力を克服してる。人が飛べるんだから、車も飛ぶよね?」

 黄色い車が登ってゆくのを目で追っていくと、空に規則正しくマッチ箱のような小さな車が走っている――いや、飛んでいた。歩道を歩く――と言っていいかわからないが、イルカがまるで泳ぐように横へ向かって飛んでゆく。

「海の生き物は陸では浮遊するって聞いてたけど、実際に見ると圧巻だ。気持ちよさそうに移動してるなあ」

 高級店が立ち並ぶ通りで、たくさんの人が楽しそうに行き来する。右手で何かが空へポワンポワンと次々に浮かび上がっているのを見つけた。

「ハートマークが幸せいっぱいで空に登ってく」

 通り過ぎるところまで近づくと、ヒョウのカップルがふたりだけの世界で横切っていった。

「二足歩行。聞いてた通りだった」細かいこの世の法則を口走り、颯茄は詩を読むような気持ちで「それよりも、仲良いのが丸わかり。永遠の世界で出会った愛は、それさえも永遠……。別れることはなく、どこまでもいつまでも続いてゆく――」

 颯茄は興奮冷めやらぬ様子で、ヤッホーっと言うように、

「フォーエバーラブ!」

 と叫んだ。

 一斉にみんなの視線が集まったが、奇異な視線を送る人は誰もいなかった。差別する神様などいない。驚くことはあっても、否定はされないのだ。

「――それを言うなら、ラブフォーエバーでしょ?」

「あぁ、ありがとうございます。間違いを訂正していただいて……」

 振り返ると、そこには、二メートル越えをしているのがはっきりとわかる、背の高い男がいた。いや、ただの男ではない、凛々しい眉のイケメンがこっちを見ていた。

 運命の出会い――。颯茄は妄想世界で、ワルツのステップを踏みそうになったが、春風漂う柔らかな男の声が現実へ引き戻した。

「キミ、今日、この世界に上がってきたの?」

「はい。どうしてわかるんですか?」

「さっき、ゲートから出てくるのを、あそこに止めてある車から見かけたから」

 男は指をさす。大通りの路肩に止めてある、かっこいい赤いスポーツカーを。

「あぁ、そう言うことですか」

 颯茄は何気なく納得したのに、猛吹雪でも吹いたのかと思うほど、男は冷たい態度だった。

「ふーん」

「何ですか……?」

「ボクはビミョウかも?」

「え……?」

 微妙――そう聞こえた。何が微妙なのだ。颯茄はまじまじと男を見つめた。足の先から頭の天辺まで。白い着物かと思うようなモードファッションで、香水というよりは、香をたいたようなエキゾチックな匂いがしていた。

 瑠璃紺色の瞳は聡明で、全体的なイメージは誰がどう見ても好青年。それなのに、出てくる言葉は違うみたいで――いや、この世界に人を見下すような人はいない。きっと他に意味があるのだ。

「あなたはこの世界にずっといた人ですか?」

「どうして、そんなこと聞くの?」

「初めてなので、何か参考になればと思って」

 当たり前の理由を述べたが、また猛吹雪が吹いたような、男の返事は冷たいものだった。

「ふーん」

「何ですか……?」

 氷漬け攻撃から逃げるように、颯茄は半歩下がった。

「行き当たりばったりかも?」

「え……?」

 何がと聞き返したかったが、よくよく思い出せば、さっきと会話の順番と内容がまるっきり同じではないか。しかし、このまま引き下がるのもしゃくさわる。素知らぬふりをして、スルーした会話を再度お見舞いだ。

「車から見てたのは、嘘かも?」ついでに、男の口調も真似てみた。

「どうして、そう思うの?」

「あなたが車に乗っているのも、降りてくるのも見てません。だから、乗っていたとは限らない。違いますか?」

「ふふっ」見惚れてしまうような柔らかな笑みで、颯茄は思わずバカみたいに口を開けたまま呆然としてしまった。

 長い人生を生きてきたが、こんな男に会うのは初めてだ。結局のところ、男が何者なのか、何の目的なのかはわかっていない。颯茄が今日ここに来たということだけが、相手の手に渡ってしまった情報だ。悔しいかな――。

 彼女は気を取り直して、真っ直ぐ聞いてやろうとした。

「名前は何ですか?」

「人に聞くより先に、自分が名乗るのが礼儀じゃないのかな?」

 失態だ。

「そうですね。ありがとうございます。颯茄と言います」

「名乗っちゃった〜」男が首を可愛く傾げると、頭高くで結い上げられていた漆黒の長い髪が、シルクのように肩から流れ落ちた。その仕草にもそそられあるものがあるが、それよりも、颯茄は目を点にした。

「え?」

「この世界でもね、打算のある人はいるんだよ。だから、むやみやたらに個人情報は漏洩させないこと」

 浮ついていた気持ちが地に足をつけた。姿勢を正して、颯茄は頭を下げる。

「ご忠告、ありがとうございます」

 男の色香――という表現はおかしいが、どこか女性的な感じがする。それは長い髪のせいなのか。体の線は男性だし、背丈もありえないほど高い。凛々しい眉が男らしいが、それなのに女っぽい色気が漂う。

 何なんだ、この違和感みたいな独特の雰囲気は――。颯茄がぽかんとしていると、

「お礼が言えるのは素敵なことだけど、警戒心は少し持ったほうがいいかも?」

 確かにそうだ。いろんな人がいるのだから。

「はい、それで、お名前は?」

「あ、電話」男は答えずに、ポケットから携帯電話を取り出した。「もしもし〜?」甘ったるい声で出て、用が済んだみたいに遠ざかってゆく。その後ろ姿を、颯茄は思わずにらんだ。

「あの電話も嘘かも?」

 男の真似をして、首を傾げたが、サラサラと落ちるほど長い髪ではなかった。

 狐につままれたみたいな時間だった――。が、颯茄は気を取り直して、大通りを眺め出した。

「ここで待ってればいいんだよね? 案内所の前って言ってたから。何で来るのかな?」

 綺麗に晴れ渡る青空が眩しい。

「車?」

 それで来るなら、上から落ちてくる――いや降りてくるが正解だ。それとも、

「電車?」

 地上よりも高いところに、レールの上を走っていると思われる車両が、滑るように走り去ってゆく。それとも、

「瞬間移動?」

 神ならあり得る。広い地球のどこへでもすぐに飛んでいけるのだから、そんな魔法みたいなことも可能だろう。

 結局のところ、颯茄にはどうやって、お目当ての女性が現れるのか、想像がつかなかった。

「それにしても、いい天気だ。ちょっと暑いけど……」

「――きゃあああっ!」

 いきなりの黄色い声に、颯茄は考えるのをやめて振り返った。路面に席があるお洒落なカフェで、女の子たちが何人かで集まっていた。人もいれば、ウサギもいるで様々な人種の仲が良さそうな雰囲気。

 地上とは違うのか。聞き取れないと思っていた会話が、風に乗せられたみたいによく響いた。

「超驚いたよ!」

「聞いて聞いて!」

「何々?」

「先生に会っちゃった!」

「先生のプレイベート見ちゃったよ!」

 街ゆく人々が振り返るように、少女たちの声が摩天楼にこだました。

「え〜!? どこでどこで?」

「デパートの画材売り場にいたよ」

「先生、絵なんて書かないよね?」

「聞かないね」

「先生に聞いてもいつの間にか、はぐらかされて話終わってるんだよね」

「そうそう。でも、聞きたいよね〜! 先生の結婚生活!」

「聞きたい! 聞きたい!」

「旦那さんにプレゼント買ってたのかな?」

「きゃああぁっっ! 旦那さん想い〜〜!!」

 女子高生たちの会話だと、颯茄は何となくでわかった。女の子に人気の女性教師――ちょっと引っ掛かりを覚えた。なぜなら、男性教師のほうがしっくりくる。

 颯茄は気にしないように極力努めたが、なぜか耳に入ってくるのだった。

「先生、相変わらずクールでカッコよかったよ!」

 褒め言葉――女性の先生がクールでカッコいい――。颯茄の頭の中で、はてなマークが浮かんだが、彼女はすぐに思考を訂正した。女性でもかっこいい人はいる。

「えぇ〜? 見たかった。アクセサリーとかつけてた? 学校にはしてこないじゃない?」

「シルバーの太いリングしてたよ。旦那さんにもらったとかで……」

 再び、少女たちの悲鳴が中心街に轟いた。

「きゃああああっっ!?!? ラブラブ〜〜!!!!」

「いや〜! 私ももらいた〜い!」

「あんた、彼氏にもらいなさいよ」

「違うでしょ! 来月に卒業と同時に結婚するから、エンゲージリングでしょ?」

「あたしも欲しい〜〜!」

 ひとしきり話を楽しんだ彼女たちは席から立ち上がって、飲み物を片手に街へ繰り出していった。

 地上ではよくある光景だが、神世で見るとは思わず、颯茄は人混みに紛れてゆく女子高生たちを目で追う。

「高校生って、神様の世界でもテンション高いんだなぁ〜」

 彼女たちが見えなくなって、カフェの椅子を店員が直しているのをぼうっと眺めながら、首を傾げる。

「でも、何だか今の会話おかしかったな? 旦那さんが奥さんに、太いシルバーリングをプレゼントする?」信号が青に変わって、人々がドッと流れ出す。

「細いリングならわかるけど……。神界の流行は地上と違うのかもしれないね」

 半透明な羽の生えた精霊族の人が、ファンタジックに街を歩いてゆく。こんな世界なら、男女の好みが逆転していても不思議はなかった。

 キキーとタイヤの軋む音がすると、サバサバとした女の声がかかった。

「は〜い! お待たせ!」

 さっと振り返ると、スポーツタイプのオープンカーに、サングラスをした女が手を上げていた。

倫礼りんれいさんですか?」

「そうよ」

 白いワイシャツの襟元は少し深く開いていて、胸の谷間が見えるようなセクシーさが売りなのに、湿っぽさのまったくない女がサングラスを取ると、颯茄は深々と頭を下げた。

「初めまして、颯茄です」

「あなたって相変わらずおかしいわね〜。知ってるわよ。さっきまで一緒だったじゃない?」

 守護神は死ぬまでそばにいた。薄れゆく意識の中で、他のどんな存在よりもそばにいた。颯茄は反論する。

「それは地上と神界で、です」

 住む世界が違ったのだ。だが、今は同じになったのだ。だから、挨拶は大切なのである。胸を張った颯茄だったが、車のボディーラインに目を奪われた。

「かっこいい!」

 横に伸びた自分の顔が映り込むほど、よく磨かれたスポーツカー。それを運転してきた、サバサバとした女。ベストマッチである。

「飛ばしてはきたんだけど、待ったかしら?」

「いえいえ、全然大丈夫です!」

「さぁ、乗って」

「はい」

 手荷物も何もない颯茄はドアを開けようとすると、倫礼は空を見上げて目を細めた。

「今夏休みだから、道路が混んでるのよ」

「あぁ〜、それで女子高生が先生のプライベートを見たって言って、騒いでたのか」

 合点がいった。さっきのあのテンションの高さは、長期休暇だからだ。お洒落なカフェをぼうっと眺めていると、

「ほら、からびちゃうわよ、そんなところにいつまでも突っ立ってると」

「はい」

 颯茄は慌ててドアを開け、サッと乗り込んだ。

「その節は色々とお世話になりました」

「いいのよ。守護が仕事だから」

「お陰さまで、いい人生が過ごせました」

 車が走り出すと、さっきの漆黒の長い髪の男に、別の男が近づいてくるのが、視界の端に映った。

「そういえば、さっきの人って、もしかして、私のこと知ってたのかな?」

 男は片手を上げて、携帯電話を切った。どうやら嘘ではなく、本当だったらしい。待ち合わせだった。

 颯茄はそんなことよりも、近づいてきた男も異様に背が高いなと思う。

「でも、どうやって? 地球への出入りは厳重で、許可がないといけないよね? どんな理由であろうとも例外は認められない」

 黒いボブ髪をしたあとから来た男は、長い筒状のものが入った袋を持つ手に、太い指輪をしていた。夏の日差しに煌めくシルバーのアクセサリー。

「どうやって、情報漏洩したのかな?」――


 颯茄たちの乗った車が上空へ登り出すと、路上に残っていた男ふたりは、路肩に止めてあった赤いスポーツカーに乗り込んだ。

「お前、早いじゃん」

 黄色いサングラスをかけた男は、口調がやけに軽薄的だった。

「用があったから」

 聡明な瑠璃紺色の瞳がバックミラーを見ると、颯茄が出てきたゲートの出口がちょうど映っていた。

「何?」

に会ったよ」

 意味ありげに言った。

 エンジン音に紛れながら、ボブ髪の男は耳のピアスをサイドミラーに映して、器用さが目立つ指先でいじった。

「そう。どうだった?」

 興味がない。無機質な声色だった。

「感覚かも?」

「そう。お前のタイプじゃないってことね」

 漆黒の長い髪の男はハンドルに頬杖をついて話すものだから、ガクガクと視界が上下に動いた。

「感覚で話してくる女の人、ボクは遠慮したい。どうして、あんなに脈略のない話するのかな? 時間と労力の無駄。ボクの人生に必要ない」

 ピアスを見るのをやめた男は、今度は首に何重にもかけてあるペンダントを手でもてあそび、チャラチャラと金属音を鳴らした。

「それに耐えんのが、お前の成長に必要なのかもね」

「教師みたいなことを言う!」

 クールそうに見えた男は、表情を歪ませて、噛みつきそうに言った。それなのに、ボブ髪の男は気にした様子もなく、

「俺、こう見えても先生だからね。今は休みだけどさ」

 チャラい格好をしてはいたが、職業はしっかりしていた。

「でも、理論のところもあった」

 大した会話はしていない。何を話したかぐらい覚えてる。というか、情報は得た。

「そう。じゃあ、パーセンテージいくつ?」

「三十 て〜ん!」

 回転をつけて飛び上がるみたいな、ハイテンションで好青年の男は言ってのけて、無機質だった男はナルシスト的に微笑だ。

「点数つけちゃった。パーセンテージって聞いたんだけど、俺」

「ふふっ」

 悪戯が成功したみたいに、漆黒の長い髪を持つ男は笑った。

 お互いの職業の違いが、モロに出た――そう思いながら、彫刻像のように彫りの深い男は、デパートの紙袋を後ろの座席に放り投げると、中から絵具が滑り出てきた。

「それにしてもさ、女子高生って、何であんなにテンション高いんだろうね?」

 聡明な瑠璃紺色の瞳には、悪戯という色が宿っていた。

「噂の先生だからじゃないの?」

「それはお前も一緒でしょ?」

 マダラ模様の声で速攻返してやった。

「先生違いかも?」

 可愛く小首を傾げると、漆黒の長い髪が肩からサラサラと落ちたが、赤い目をした男はシャツを手でつかんでパタパタと暑いと言わんばかりに動かした。

 この男は暑さが苦手――よく知っている。まるで恋人に甘えるように、瑠璃紺色の瞳をした男は言う。

「ボク、アイス食べたい」

 すると、阿吽あうんの呼吸で返事が返ってきた。

「いいね。じゃあ、いつものフルーツパーラー行って」

「オッケー!」

 漆黒の髪をした男は了解すると、車を急発進させ、キュキュッとタイヤが悲鳴を上げた。


 空中道路へ乗るため、颯茄を乗せた車は斜め上は向かって登っていた。眼下に浮かぶ摩天楼の海を物珍しそうに眺めていたが、彼女はふと生きていた時のことを思い出した。

 倫礼へ向き直って、礼儀正しく頭をペコリと下げる。

「すみません。時々、言うこと聞かないで、自分勝手に選択してしまって」

「あなたには自分の意思があるんだから、好きなほうを選んでよかったのよ。どっちに転んでも、あたしにはきちんと対策は取れるようになってたから」

「本当にありがとうございました」

 とりあえずのお礼は言えた。開放感に浸る。颯茄は夏の風に吹かれながら、小さくなってゆく街内を見下ろした。

「ねぇ? 誰かを待つ予定ある?」

 霊界から家族の誰かが上がってくるのを待つ――の意味だ。死後も家族でいるか。それとも――

 倫礼が聞くと、車は空中道路の本線へと順調に乗り込んだ。渋滞もなくスイスイと進んでゆく。

「いえ、地上での家族とは誰ともともに生きていくつもりはありません。ひとりでここで、永遠の世界をスタートさせます」

 結婚は二回した。離婚も二回した。子供はなし。家族とはそりが合わず、本当の自分で話したことなど一度もなかった。身軽な身の上だ。

「そう。住む場所は見つけたの?」

 神界という非現実的な世界に浸りすぎていた颯茄は、両手で髪をぐしゃぐしゃにかき上げ、世界中に轟くような大声を上げた。

「あぁ〜〜っ!? 忘れてた! 家どころか、職業もない。いや、お金もない〜!」

「それなら、あたしの知ってるシェアハウスに来ない?」

「いいんですか?」

 まさしく、拾う神あり――である。

「そのために、すぐ来たわけだし……」倫礼はボソボソと言った。颯茄は聞き取れなくて、不思議そうな顔をする。

「え……?」

 赤信号で車は止まった。倫礼はにっこり微笑んで、首を横に振る。

「ううん、こっちの話。女ばかりの住人で、気ままに過ごす場所よ」

「あぁ、お友達を作るためにもいいですね?」

「でしょ?」

「じゃあ、そこでお願いします」

「決まり!」

 お金はないが、順調だ。他の宇宙へと飛び立つ宇宙船が銀の線を描いて、青い空を飛んでゆく。地上よりも空気が澄んでいて、地平線がはっきりと見えた。

「不思議ですね? 太陽がないのに、日差しもあって、綺麗な青空が広がってる。しかも、地上とは比べ物にならないほど、綺麗な空」

「うちの息子が言ってたんだけど、空自体が光を発してるから明るいらしいわよ?」

「えぇ? 結婚してるんですか?」

 そんな話は、守護してもらっている間はしなかった。

「もちろんしてるわよ」倫礼はそう言って、ウィンクした。

 颯茄は純粋に感動する。

「永遠に続く愛に出会ったんですね?」

「そうね」

「どんな人か聞いてもいいですか?」

 気になる。信号は青になったが、動く気配のない車。倫礼は窓枠に肘でもたれかけて、客観的に夫を観察した。

「ん〜? ……自分に正直なんだけど、だいぶひねくれてるかしらね?」

「正直なのに素直じゃない……」

 颯茄は想像してみた。

「そう。普段は無口なんだけど、話し出すと長くなるのよ」

「あははは!」

 お腹を抱えて笑い出すと、しばらく笑いもしなかったと、颯茄は気づいた。

「かと思えば、返事も動きもしなくなって、ノーリアクションになるの」

 くすぐったいように、颯茄は笑って、

「ふふっ! 素敵な人ですね。一癖も二癖もある人って、私も好みです」

 どこまでも晴れ渡る青空を見上げ、颯茄は両手を上げて、太陽はないが、輝かしい光を浴びた。

「ふーん」倫礼のいぶかしむような声を聞いて、颯茄は慌てて手を下ろし、真顔に戻った。

「あ、いやいや! 一般論であって、倫礼さんの旦那さんがってことじゃないです」

 そうして、倫礼はなぜかいきなり核心に迫ってきた。

「あなた、に会いに行くの?」

 ドクンと大きく脈打った。そんな原因となる心臓はもうないというのに。颯茄は流れてゆく街の景色を眺めながら、思いっきりとぼける。

「会いに行くって、誰にですか?」

「言いたくないなら、このまま皇居近辺に進路変更しようかしら?」

 彼の家に直接連れて行こうとする、無茶振り。行動力があるにもほどがある。颯茄は慌てて振り返って、大きく腕を頭の上で横へ振った。

「いやいや! 止めてください! 言います言います! 陛下のおいのお宅訪問は遠慮します!」

 言って、むなしさを覚える。これはどういう心境だ。よくわからない。頬杖をついて、車窓の外をもう一度眺め始めた颯茄の背後から、倫礼が聞いてくる。

「今でも好きなんでしょ?」

光命ひかりのみことさんのことは……好きではない――!」

 彼の名前をうっかり出してしまったが、人間の心の声が丸聞こえの守護神に今さら隠し事などできるはずもない。だが、言葉の最後で、のどの奥がしめつけられるように痛くなり、涙で視界がにじんだ。

 嘘をつくのはあんなに上手だったのに。自身の望まないことを避けるためなら、平気で感謝も口にできた。それができないとは――

「忘れちゃったのかしら? ここは心の世界――だから、嘘はつけないのよ」

 生き方を変えないといけないようだ。すぐには変わるまい。颯茄は唇を尖らせて、そっぽを向いたまま、必死に拒んだ。

「それでも……私にとって、光命さんはただ憧れです。好きではないです」


 ずっと忘れてた。もう六十年も前の話だ。

 死んでも忘れていられるのかと思ったが違ったみたいだ。

 そりゃそうだよな。忘れるっていう現象は脳という肉体で起きるのもなんだから、心――魂にはきちんと刻まれてる。

 まるで、ついさっき会ったみたいに、はっきりと覚えている。


「彼とは会ったことなかったかしら?」倫礼は問い詰めるように聞いた。

「…………」長いを置いて、颯茄は倫礼に小さく頭を下げ、「会いました。一回だけ」正直者には福きたるで、

「そうね。でも、今度は嘘はついてないのよね?」

「はい、そうです。会ったのは、私じゃなかったんです」

 意味不明で、話は迷宮入りしそうだったが、颯茄と倫礼の話している内容は合っているのだ。

 霊感なんてものがなければ、普通は気がつかずに生きていけるのだろう。だが、私の人生はそうではなかった。

 肉体というのは魂が宿るうつわみたいなものだ。だから、魂が入れ替わるなんてことが起きる。それは自身で望んで変わるものではなく、神様が何らかの考えがあって、入れ替えることもあるのだ。

 かれこれ、三十人近くの人が、あの肉体には入った。その中のひとりが宿っていた時、光命に声をかけられたのだ。背後から。だから、声は聞いて、気配も覚えているが、顔は見ていない。

 しかも、彼は私に話しかけたのではない。神様は魂を見ている。肉体ではなく。だから、颯茄である私には、彼は会っていないのだ。

 

 彼とはおかしな出会い方で――いや、出会ってもいないのだ、正確には。

 その当時、強い霊感を持つ人がそばにいた。その人から、神世や神について色々と聞いていた。どんな世界観だとか、どんな価値観だとかだ。

 そうして、どんな神がいるのかも聞いた。その中で、光命のことを知ったのだ。どんな人で、どんな容姿でかを。

 白馬に乗った王子様に憧れるほど若くもなかった私だが、彼を知れば知るほど好きになっていった。

 ただ、肉体の記憶が唯一の接点で、彼はおそらく私という人間がいることも知らずに今を生きているのだろう。

 おかしな片思い――というか、人間関係とあえて言っておこう。


 彼の考え方が好きだった。

 大雑把な性格の自分には縁のない思考回路だった。それを知った時、随分と夢中になったものだ。全ての物事が可能性という数値に置き換えられ、不明瞭なことは何一つなかった。

 彼の世界を見ている感覚を知りたかった。しかし、感覚は個々のものであって、他人にはそっくりに再現できない。完全に重なり合わないからこそ、彼のことは忘れられないのだろう。

 彼からすれば、私はただの人間で、会うことも話す価値も機会もない。その他大勢よりも、もっと遠い存在。

 地上に生きる人間の身でありながら、神を想った日々だったが、あっけなく夢のような時間は終わった。

 彼にパートナーの女性――恋人ができたのだ。

 神様の住む世界は永遠。出会ってしまえば、別れなどくることはない。魂同士で相手を好きになるのだから、自身に合っている人が誰かは全身全霊でわかっているのだ。

 間違った相手を好きになるはずがなかった。意見が食い違うこともあるだろう。長い年月の中で、相手が変化を遂げてゆくこともあるだろう。

 それならば、どう続けていけるかを、誰もが懸命に考え、実行して乗り越える。向上心と前向きさを持っているのが、この世界に住む人の特徴だ。


「――それじゃ、会いに行っても、何の問題もないわよね?」

「会いにはいきません!」

 颯茄はキッパリと断った。

「どうしてかしら?」

 倫礼は短い髪を人差し指を巻きつけて、渋滞にはまってしまった車内で、訝しげな視線を向けた。

「光命さんは、生涯をともにするパートナーに出会ったって聞きました。この世界は永遠です。だから、光命さんとその女性はもう結婚していて、別れることはありません」

 現実は現実だ。彼とは縁がなかったのだ。運命ではなかった。にじむ視界で綺麗な青空を、颯茄は眺める。

「だから、会いに行くのは、ただの迷惑です。だから、会いにいきません」

 彼を、彼が愛する人を困らせることだけはしたくない。忘れることもできない自分の精一杯の配慮だ。

 頑なに拒んだ颯茄だったが、倫礼はどこ吹く風で、

「そう? 今日来たばかりじゃ、地上の価値観に縛られてても仕方がないわね。そのうちってことね?」

「はぁ、そのうち? だから、ないんです!」

 おかしなことを言う。彼は妻子持ちになっているに決まっている。離婚して、別の人と人生を歩むなんてことも起こらない、この世界は。いまさら、会ったって、彼と家族を不快な想いにさせるだけだ。

「まぁ、人生何があるかわからないから、面白いのよね!」

「はい、そうです……」

 未来の見えない人間の人生はいつもそう。失敗したと思っても、あとで成功するパーツになっている。そんなものだ。もちろん、答えが出てこないこともあったが。

 長い目で考えれば、この変な人間関係もこの先、この新しい世界で答えが出るのかもしれない。


 忘れてしまう恋、と、忘れられない恋。その違いは何なのだろう。神に向かって問いかけてみたが、生前の霊感はもうなく、答えては聞こえてこなかった。


 答えの出ないものをいつまでも考えていても仕方がない。颯茄は大きく息を吐き、気持ちをスパッと切り替えた。

「私ずっと見たかったんですよ、この世界でじかに」

「何のこと?」

「月です」

 地上の出来事に縛られ、八方塞がりになって、どうにもならなくなった時、神様の子供が教えてくれた月。あの素晴らしさは今でも覚えている。

「そうね、確かにあれは、地上から見えるものと比べたら圧巻だわね」

 車は少しだけ動いたが、またすぐに止まってしまった。

「倫礼さんも死んだ後に、そう思いましたか?」

「そうね〜? あたしは霊界から上がってきたから、最初から直に見たわけじゃないけど……。思わずため息が出ちゃうわね」

「早く夜にならないかなぁ〜? あの紫の幻想的な、クレーターまで見える大きな月を見てみたい! そして、月見団子食べたい!」

 我ながら素晴らしい計画を思いついたと思ったが、すぐに玉砕した。

「あっ、だめだ!」

「何でよ?」

「天国にはお金は持っていけないって言うけど、本当だ。一文無し。食べ物も買えない……」

 身ひとつで来てしまったばかりに、涙がちょちょ切れる――

「あたしが出すわよ」

「いやいや、人生でもご迷惑をおかけしたのに、これ以上はお世話になれません」

「そう? じゃあ、物々交換にするの? 何か特技でもあったかしら?」

「ぐっ……! 痛いとこついてきますね……」

 神世で通じるような特技など、人間誰もが持っていないだろう。奉仕活動をしてチップを稼ぐにしても、どのみち時間はかかるのだ。

「お金の問題は置いておいて、仕事はどうするの? この世界じゃ、前向きに働いていない人なんかいないわよ?」

「ですよね〜。あぁ〜、神世で通用するような特技はないなあ」

「そりゃ、人間だったんだから、あなただけじゃなくて、下から上がってきた人間は全員そうよ。神世はレベルが違うんだから」

「ん〜〜?」

 難しく考え込んでしまった颯茄に、倫礼は明るく背中を押した。

「だからと言って、努力しなければ、神世レベルにはなれない。そうでしょ?」

「はい」

 宝くじを当てるには、まずは買わなければいけない――である。

「転職したっていいんだから、とりあえず、人生でやれなかった好きなことでもやれば? そうしたら、あなたに向いている職業にたどり着く近道になるんじゃないからしら?」

「ありがとうございます。何から何まで教えてくださって」

 颯茄は元気を取り戻した。そうだ。時間はたくさんある。お金はあまり必要とされない。この世界でなら、じっくり腕を磨けるではないか。

「じゃあ、決まり! 明日、恩富隊おんぷたいっていう音楽事務所でアーティストとして登録してきなさい?」

 とんとん拍子に話が進みすぎて、颯茄は大きく目を見開いた。

「えぇっ! 何でそんなに話が早いんですか? 何かたくらんでます?」

 事務所の指定までしてくるとは、どうも怪しい。

「あなたの勘ぐりすぎよ。話の流れで言っただけでしょ? 志半こころざしなかばであきらめた、シンガーソングライターの夢を叶えるチャンス、めぐってきてるよわ」

「そうですね。これも神様のお導き!」

 渋滞を抜けると、眼下に段々畑のようになっている住宅地が悠然と広がった。新しい生活がスタートする――

「おうおう! 幸先いい感じ!」

 颯茄はこの時まだ知らなかった、叶わなかった恋には、想像できないような続きが待っているとは――

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