1センチメートルを君に

駒込ピペット

第1話 ゴーグル越しの恋

正直、欲しいものなんて何もない。

好きなものも、好きなことも、何も。

運動も勉強も全部中途半端で、何かで1位をとったり、最下位をとったことはない。

むしろ、1位をとりたいと思ったこともない。どちらかというと地味系女子だけど、友達はちゃんといるし、グループでまとまっている方だと思う。親との衝突も、あまりない。

ー今までは、それでいいと思っていた。

平和で、のんびりと過ぎていく時間が。

でもそれは、大きな間違いだった。

泣きたくなるくらい、苦しくなるくらい、君が好きで、どうしたら良いんだろうって、悩んで、迷って、つらくて。

欲しいんだよ、どうしても…君が。

私は溺れていく…


「えー、では、三役も決まったことですし、第1回のクラブを終わりにしたいと思います。三役の人は、この後残るように。」

はぁーっ。私は大きなため息をつく。私は面倒なことなんてやりたくないのに、なぜか先生からお願いされて、書記をやることになったのだ。はぁーっ。もう一度、ため息をつく。

「がんばろうねっ。」

ふいに声をかけられ、その声に振り返ると、そこには副クラブ長の高橋葵先輩がいた。

しかし、先輩に、しかも男子に急に話しかけられて、ポカンとしてしまった。先輩を目で追うと、先輩は三役のみんなに同じように声をかけていた。

ーなんだ、私だけじゃないのか。

って!だから何よ!別に私だけじゃないなかったって関係ないじゃない!

そんなことを考えながら先輩を見ていると、目がパチリとあってしまった。すると先輩は私をみてニコッとした。その笑顔はとても眩しく、キラキラしてた。

「ねえ玲香?今日で最後ってほんと?」

「うん…でも、やめるわけじゃないから。ちょっと家の都合で、金曜日になるだけ!」

私は、さみしいふりをして、そう言う。

好きなことも、趣味も何もない、ピアノやバレエなどの習い事もすぐにやめてしまう私が、唯一長く続けられていたのは、水泳だ。そこまでうまいってわけじゃあないけど、泳いでいるときだけは、自分が自分らしくいられる気がする。でも、そんな水泳も、明日から日にちが変わる。今までいた友達とも別れちゃうからちょっと不安だけど、水泳を続けられるだけ良かったなって思う。

「あれ?田口?」

「先輩?」

初めての、金曜日の水泳。そこには、葵先輩がいた。

「へー、田口も、水泳やってたんだー。」

「はい。」

何か、緊張するな。なんて言うか、同学年じゃないし、あんま話したこともなかったし。「おい!葵!何喋べってんだよ!そんなにこの新入りちゃんが好きなのか?」

コーチが冗談っぽくそう言うと、先輩はへへっと笑って

「すいませーん!じゃっ、代わりに1人で50m泳いできますんでっ!」

と、言った。すると、本当に1人で先輩は泳ぎだした。でも、先輩の泳ぎはとてもきられいで、しかもすっごく速かった。私はその先輩の泳ぎから目がはなせず、なぜか、胸がどきどきした。先輩は、50mを泳ぎきると、私に向かってピースをした。それを見て、私もピースをした。いつもなら、周りの目ばっか気にして絶対そんなことしないけど、先輩のその笑顔に、やっぱり私は嘘をつけなくて、先輩のその泳ぎに、やっぱり私はドキッとしてしまうのだ。

ー私は多分、先輩が好きだ。

「玲香?玲香!」

「ひぇっ!」

「どうしたの?ぼーっとして!6年生の卒業式予行だよ!」

…卒業式、か…なんか、やだな。

せっかく初めて好きなものができたのに、それが先輩だから、私が6年生になったら、先輩は1年生になって、私が3年生になったら、先輩はまた1年生になってしまうのだ。一生、この1年って距離は埋まらなくって、みんながクラス替えや、席替えで、好きな人と同じになったとか、一喜一憂してるなか、私は絶対に同じクラスにも、隣の席にもなれない彼に恋をし続けなければならないのだろうか。

にしても、もうすぐ、6年生か。葵先輩といられるのもあと1年、ね…


「ねえ、昨日舘岩だったでしょ?どうだった?」

葵先輩…

そう、昨日は林間学校で、5年生は舘岩に行ったのだ。

でも、正直言うと、あんまだった。んだよなー。なんてゆーか、みんなで夜遅くまでベッド囲んで騒いでたら、先生にめちゃくちゃ怒られちゃったんだよね…

みんなが笑顔。そんなはずの舘岩が、みんなが泣いてしまった。そんな舘岩になってしまったのだ。

「えーっと…」

私が何も言えずに困っているのを見て、気を遣ってくれたのか、

「何か分からないことがあったら、聞いてね。」

と言ってくれた。私は、

「友達ってなんですか!友情って、大切なものってなんですか!それと、なんで人は泣くんですか。」

と言ってしまった。

副クラブ長の言う「分からないこと」というのはきっと、クラブのことだったのだろう。

ごめんなさい…と言おうと思っていたら、

「友達とか友情とか…。俺もあんま分かんないけど、でも、何でも言えるっていうか…あー!難しいな。でも多分、言葉だけで表せるもんでも、言葉だけで繋がった関係でもないと思う!」

…。

「それと、大切なものは涙だと思う。」

「えっ。」

私は思わずそう言ってしまった。

「えっとー…。最後は、人はなんで泣くのか。だったよな。それは、さっきのと…あの、涙が大切だっていう理由と、同じだと思うんだよ。」

その後、少し間をあけて

「なぜ人は泣くのか。それは、」


「明日笑うため。じゃないか?」

と言った。彼は笑い、言った。私の変な質問にも、いやな顔一つせず、答えてくれたあなたの言葉。この言葉だけはきっと、いつになっても忘れることはできません。私は、このことを言わない代わりに、それとありがとうございますの代わりに、

「私の大切ものは、言葉だと思います。」

と言って、笑った。

すると彼は、首をかしげたあと、同じように笑ってくれた。


「俺さ、中学になったら水泳やめるんだよなー。」

「えっ。」 

また、えっ。と言ってしまった。

あと1回で、クラブも終わってしまうし、あと1カ月で学校すら変わってしまう。

それなのに、水泳という接点までなくなっちゃうの?

この1年っていう距離が、

このゴーグルの距離が、本当に恨めしい。

あと1年、あと1センチ。それだけでいいから、この私と先輩のわずかな距離をなくしてください。そうやって、どれだけ願っても私たちの距離は変わらず、私たちのタイムリミットばかりが近づいていってしまう。

「では、1年間の振り返りカードを書いてくださいね。」

そして、ついに最後のクラブになってしまった。1番素敵な日っていうのは、私がこのクラブの書記になって、高橋葵先輩と出会った日なのかもしれない。これからこの日に、この1番素敵な日に少しでも近い日をつくろうとするのではなく、この日以上の素晴らしい日をつくろうとすべきなのだと私は思う。

私にとって、先輩が大きな存在になっていたということを、いつか先輩のような最強の笑顔で伝えたい。

でも、この1年と1センチメートルの距離のある私にとってはまだ、そんなことは簡単に伝えられるものではないと思う。

だから代わりに、先輩のような笑顔でこう伝えたい。

中学校がんばってください。いや、お互い

「がんばろうねっ。」

やっぱり彼は首をかしげた後、笑った。

私も笑った。とびっきりの笑顔で。

伝えられたかな?わたしの最後の告白を。

その後、先輩は「中学校のことね。」と、笑ってつぶやいたけど、私は気にしなかった。

これは、私が先輩と、最後に交わした言葉である。でも案外、最後としてぴったりの言葉かもしれない。


「がんばろうねっ。」

私は小さくつぶやいた。



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