51_雷竜



 来た時は素面しらふだったはずだ。けど、今は店主おすすめの日本酒『らいりゅう』の手によって、脳が休暇を取ろうとしている。



「どうだい、あんちゃん。そばにも天ぷらにも合うだろ?」


 店主の口から白い歯が覗く。少したるんだ顔の線を無理やり引っ張れば、二枚目になるかもしれない容貌と威勢のいい口ぶりが兄貴分という印象を与える。


「うん。かなり美味いです。日本酒ってあんま飲んだことないけど、こんなに飲みやすいなんて」


 お猪口に手酌し、くいっと一口に呑む。清らかな一杯は舌を軽やかに滑り、食道をスーッと流れていく。


 そして「らいりゅう」がたどった道を逆走して、腹底から「っかぁー」と、効能満天の温泉に浸かったような声が昇ってきた。俺の腹底にはおやじが住んでいたらしい。


 日本酒の美味さの基準はよく分からないが、酒としてこの『雷竜』は好みだと言える。それから、日本酒は食道で味わうのだと、この数十ミリリットルで悟った。


「いい飲みっぷりだねぇ」


 右手に徳利、左手にお猪口を片時も離さない俺を、店主は満足気な顔で見る。


「ほい、そばと海老天、おまけ」


「おお、いいのか? お」


 言葉はそこで止まり、唇は形を保ったまま固まった。


「お?」


 不自然な言葉の断面を、店主が復唱する。



 しまった。

 まだ呼び方を決めていなかった。



 本来「お」の後に続くはずだった「っさん」は、舌の上でストップを食らっている。吐き出されるのが先か、唾液の霧に溶かされるのが先か。


 兄貴分の印象から、素直に「兄貴」と呼べば、相手は悪い気はしないだろうが、幾分くすぐったい。

 おじいさんと呼ぶにはまだ若い。けど、おっさんと呼ぶには老けているし、じじいは論外。オヤジはありきたりでつまらない。

 けれど、ここで妥協は許されない。



 何故なら俺は、この店の常連になるかもしれないからだ。




 いるかいないかの常連客の影に怯えながら開いた扉の先には、理想の空間が待っていた。

 雰囲気、自宅からの距離、店主像、どれも合格ラインを越えている。


 断言しよう。


 俺は


 この店に


 通う。




 長い付き合いになるのだから、途中で変更のきかない「呼び名」は重要だ。


「ありがとう。おっちゃん」


「おいおい、おっちゃんなんて呼ばれる歳じゃないわい。他のにしてくれ」


 おっちゃんが実年齢に対して若すぎたのか老けすぎていたのかは分からないが、第一の試みは失敗に終わった。


「じゃあ、大将」


「それも駄目だ。ありきたり過ぎる」


 おしながきの品数は少ないのに呼び名に関しての注文は多いのか。

 お猪口を傾ける。冷酒が喉を焼く。



「もう思い浮かばないから店主が決めてくれ。店主が」


「そうくると思って実はもう用意してある」


 店主は待ってましたとばかりにカウンターから身を乗り出す。いったいどんな呼び名が飛び出すんだろう。


「おやっさんだ。そば屋の主を呼ぶのにこれ以上相応しいものはない」


「そうなのか」


 おやっさん。マンガやアニメで鍛冶屋のオヤジや大工の棟梁とうりょうがそう呼ばれることもあっても、そば屋の親父が呼ばれているのは聞いたことがない。


「それでいいの?」


「おう、これがいいんだ。さぁ大きな声で呼んでみてくれ」


 俺はそばを口に入れて時間を稼いだ。何故か知らないが羞恥に似た緊張を感じていた。店主は期待のこもった視線を寄せている。

 一、二、三、そばを飲み込む。



「サービスありがとよ。おやっさん」


 頬に熱を感じる。酒のせいではない。


「いいってことよ。てやんでぃ!」


 おやっさんは顔をほころばせた。くしゃっと皺が深くなる。


 雷竜を飲み干した俺に、おやっさんは別な日本酒をご馳走してくれた。

 そこから先はよく覚えていない。ただ楽しかったのは覚えている。


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