2_大学で勉強するヤツは

 長い間、同じシーツを履かされて続けている気の毒な敷布団から起き上がり、よく分からん外国語が書かれたブラウンの長袖と色のせた黒のジーパン、そして黒のリュックを装備し、漆黒の遮光カーテンに包まれた部屋を出る。


 数日前まで雨が仕切っていた空はその青さを取り戻し、太陽は雨に濡れた大地を消毒するかのようにアスファルトを熱している。


 俺はアスファルトがレシーブする熱気を頬に感じながらアパートから最寄りの駅まで歩き、不快指数高めの電車に揺られ、環律かんりつ駅で降り、歩き、私立文系大学の中では学費が安価な環律大学の門をくぐり、講義の出席だけ済ませ、腹を満たそうと三号館一階の食堂に向かった。

 そして、食券を買う前にあいつらと出会った。


「よう! 高っち! お疲れ!」


 坊主頭の男が手を挙げ声を掛けてくる。環律大学文学部日本文学科、つまり俺と同じ学科に所属している芳川よしかわだ。


「おう。お疲れ」


 と、ねぎらい返したいところだが、芳川は常にテンションが高く、血色もよく、白い半袖に茶色の短パン。聞くまでもなく元気だ。だからその返しは出来ない。


 彼は小柄な体型と十二ミリの坊主頭という髪型、それと他人を「○○っち」と呼ぶ習性が相まって、はたから見ると背伸びした野球少年が大学内に遊びに来たように映る。

 もしくは呼吸の荒い、やたらに尻尾を振っている柴犬が大学内に入り込んだ、か。


「おう。お前らも講義上がりか?」


 芳川の後ろには、陸溝りくみぞ西汽にしきといった同学科の面々が揃っていた。


 金髪の陸溝は灰色の長袖にベージュのチノパン。西汽は髪型こそ黒髪を長くも短くもない平凡な長さで揃えているが、服装に関しては別で必ず服装に緑色を含ませている。


「三年前だったか地元の駅前で占い師に言われたんだよ。あなたには緑色が必要です、って。んで試しに緑色のセーター着て一番くじ引きに行ったら、A賞『ボルガイザー』の限定フィギュア一本釣り! そこから俺の緑色の人生が始まったのだ」とは本人談。

 今日は白を基調にしたポロシャツ、その胸ポケットに緑色があった。下半身には青いジーンズをまとっている。


 いわずもがな、いずれも野郎だ。


「そうだよ。あの教授の授業はレポートが緩くていいよね」


 陸溝は金髪なのに、温厚でおっとりとしている。


「俺は今来たところだ。午後の講義に備えて飯でも食べようと思ってな」


 西汽は「そばうどん」と表記された食券を人差し指と中指で挟んでいる。


「そばうどん」とは、文字通りそばとうどんが一つの注文で楽しめる画期的なメニューだ。

 温かい汁の中でソバとうどんが共存する、否、融合するのだ。それは某紐型グミを彷彿ほうふつとさせる絡み具合。


 ちなみに、ねぎや天かすといった調味具材は一切なし。

 そば粉・小麦タッグ対注文者の真剣勝負。


 多くの学生は初戦で自分の過ちに気付くのだが、西汽は違う。初めて昼食を共にした時から、いまだに「そばうどん」に挑み連戦連勝。大きく勝ち越している。

 これも緑色パワーのおかげなのか?


 □


「はー食った食った」


 芳川が腹を叩く。動作こそおっさん臭いが、何しろ風貌が野球少年。幼は老に打ち勝ち、大人ぶった少年の印象を強くする。

 俺と陸溝は学食で一番人気のから揚げ定食を完食。


「あれ、西汽、それ残すのか?」


 俺は既に箸を置いた西汽に尋ねる。


「今日はもういいわ」


 西汽は丼の中を見つめる。珍しいこともあるものだ。

 茶色の海では、そばとうどんが互いを尊重していた。汁面しるもに自分の顔が反射する。西汽も茶色に染まった自分の顔を見ていたのかもしれない。


「皆、講義まで暇だろ? トランプやろうぜ。大学生らしく」


 一番大学生らしくない芳川が提案し、トランプをリュックから取り出した。表側にはマークと数字、裏側は黒、というシンプル過ぎるデザインだった。


「いいよー。ババ抜きやろうよ。ババ抜き」


 陸溝が小学生みたいなリクエストをする。今さら戦略も糞もない運とツキのゲームが通るわけがない。しかし、俺の予想に反し反対の声は無く「いいぜー」と芳川も賛同。

 西汽、お前は違うよな?


「俺も丁度ババ抜きしたい気分だったんだよな」

 どんな気分だ。


「高柴もいいだろ?」


 芳川と目が合う。他人を疑うことすら知らなそうな純粋な瞳だった。俺は鼻から息を吐く。


「あぁ、やろうぜ」

「よっし決まりだな!」


 芳川がトランプを均等に配る。発案者の陸溝は全員の分の食器をまとめ、返却しに行った。西汽はボーッと宙を見ていた。

 俺は大富豪がやりたかった。


「俺達もまざっていい?」


 テーブルに、顔は知ってるが名前は知らない野郎二人組がやってきた。彼らは芳川と仲が良いらしく、こうして遊ぶことも珍しくない。だからこそ、今さら名前を尋ね難い。そんな二人組だ。


 それぞれ紺色、黒色のジャージと俺なら家から一歩も出れない格好をしている。ただ、その胸には有名スポーツメーカーのロゴがデカデカと刻まれてる。きっとそのジャージセット一式で俺の一ヶ月分の食費がまかなえるだろう。


「いいぜー。ババ抜きでもいいか?」


「オッケー」「いいよ」


 大富豪の夢は完全についえた。


 □


「ハートの六! はい上がり!」


 芳川がテーブルに六のペアを叩きつける。


「だああああ、負けかよぉ」


 最後にジョーカーの餌食となったのは、名も知らぬ二人組の黒ジャージの彼だった。

 名前はババ抜き中も明らかにならなかった。


「今日こそは誰かが名前を呼ぶだろう」と毎回高をくくるのだが、奇跡なのか偶然なのか、彼に言葉を掛ける時、人は皆

「お前」や「あなた」や「ねぇ」と呼び掛けるのだ。

 仮に、最も呼ばれた言葉が当人の名前になるとしたら、俺の知る限りだと彼は「なぁ」と命名される。


 もしや他の人も俺と同じでそいつの名前を知らないのでは? なる馬鹿げた疑念も真実味を帯びてくる。そこまで気になるのならとっとと芳川に教えてもらえばいいのだが、それこそ今更だ。


 ここまで来たら意地でも、誰に教えを乞わずとも、彼の名前を入手してやる。


「いやー盛り上がったな」

 芳川が満足そうに述べる。


「でしょ? ババ抜きは面白いんだよ」


 陸溝はさながら息子を自慢する親のていだ。


「次は何やるよ?」


 西汽がトランプを回収する。最下位争いで二人の間を七往復したジョーカーも数字の渦に飲み込まれていった。彼がこのゲーム一番の功労者だろう。


「じゃあ、王道の七並べで」


 陸溝が妙な定義の下、リクエストを出した。


「りょーかい」


 西汽がトランプを等分し始める。俺は今度こそ大富豪がやりたかったが、陸溝はさっきのババ抜きで一抜けした。故に異議を申し立てられない。他の奴等も同じだろう。


 七並べは人の底意地の悪さが露見するゲームだ。

 みんながみんな素直に数字を並べていけば、リタイアを出さずに七並べは平和的な結末に至る。勝負というよりトランプに抜けがないかの確認作業だ。


 しかし、誰かが悪意と欲望をもって、数字を止めたり、特に六を止めたり、八を止めたりすれば、様相は一変。悪意や欲望がメンバーに伝播でんぱし、特定の色のみ進める、誰かのパスに合わせてパスを利用しそいつのパスを無力化する、やたらにブラフを張る等、人間の汚い部分を擦り合わせる内容が展開される。

 無論、勝負としては後者が盛り上がる。


 しかし、今の俺はそれよりも軽蔑される、ある種一番汚い感情を優先させようとしている。そして俺はそれに従い、席を立った。


「ん、高柴、どうかしたの?」


 陸溝が問いかける。


「俺は抜けるから、あとは若い者同士で楽しんでくれ」


「若い者って、俺ら全員タメじゃねーかよー」


 芳川がつっこむ。少しドキリとする。


「そうだったな。ちょっとやることあるから行くわ。またな」


 そう答えリュックを肩にかける。


「えーまじかー」「なら俺もそろそろ行こうかな」

 などの声がトランプの上空を飛ぶ。芳川は拗ねた顔をしていた。すまぬ。


「高柴くん」


 テーブルから数歩進んだところで名前を呼ばれた。聞き覚えはあるが朧気おぼろげな声でもあった。振り向くと声の主と目が合った。名も知らぬ二人組の紺ジャージの方だった。


太宰だざいのレポート今週までだから、提出忘れないようにね」


 どこの大学でも交わされるであろう平凡な呼びかけ。だが、他人の心配をする心遣いが、利己的行動を優先させようとしている俺にはみた。

 言葉は目に入った海水でもあり、冬に呑むホットミルクのようでもあった。


「おう、ありがと」

 応答すると、彼は人懐っこい笑顔を見せた。


 名前を知らないことが口惜しかった。


 □


 食堂から外に出る。太陽がさんさんと輝いていた。

 加熱された茶色の地面を無数の人々が行き交う。地面を踏みつけ、その無数のひとりになる。大股で歩き、パソコンのあるメディア室へのいち早い到着を試みる。


 早く、早く、心をあぶる火が消えてしまう前に。


 緑の風を受け、首元まで伸びた髪が肌をつつく。自分でも伸びたと思うのだが、西汽や陸溝達からの評判は悪くない。だから床屋に行く決断が先延ばしにされ、その間にも髪が伸びる。

 毛先がウェーブしているがこれは緩くパーマを当てたわけではない。母親譲りの癖っ毛が勝手に波打つのだ。


 太ももに力を込め歩調を更に早める。茶色い表紙の本を抱えた女子生徒とすれ違う。

 女生徒は日焼けを嫌ってか白い長袖に白い日傘を差していた。


 日陰の黒と長袖の白の中に浮かぶ茶色。

 一昨日の本屋の光景がよみがえる。


 パック詰めされた本達。


 誰かが魂込めて描いたマンガ。


 タフにも書き上げた小説。


 売り切れたもの、見向きもされないもの。


 夢を叶えた奴が真に楽しめる桃源郷。

 夢破れた奴が、ちくりと心を痛める墓地。


 そして、俺にとっては理不尽と享楽きょうらくが煮えたぎる火山帯。


 称賛に苛立ち、批評に拍手する、アイデンティティが不安定になる混沌。

 この街には本屋が溢れている。


 俺の周りに夢持つものはいない。

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