No.20 キアス



「だかラ、教えテくレよ、英雄っテノハどンナ顔をスレバいインダ?」


 今はもう使われていない寂れた聖堂で、不快感を煽る金切り声が響き渡る。

 影の王スキアから黒い影が泥のように溢れ出て、目の前の青年に襲い掛かろうとした。


「……そうだな。約束だったよな」


 しかし蒼白い光が一瞬煌めいたかと思えば、その影は全て振り払われる。

 黒く煤けた薄い肌を震わせ、影の王は歓喜に手を叩く。


「アア、そウカ、君にハ、心が二ツあるンだっタね」


 上手く回らない呂律で、影の王は拙い言葉を紡ぐ。

 箱型の頭部は黒一色に染まっていて、視線の行く先は誰にもわからない。


「……三年振りになる。影の王」

「視えル。君ノ綺麗な心ガ俺にはヨク視エル」


 そして青年――ジャンヌは瞼をゆっくりと開くと、黄金の瞳で影の王を真っ直ぐに見据えた。

 纏われた魔力はすでに絶大で、圧倒的な存在感が伊達ではないことを示している。


「一つ、教エてクレ。君は何トいう名をしてイルんダい?」

「私の名はジャンヌ。ただの最強の魔法使いだ。正直なところ貴公には感謝している。私の中に澱として浮かぶ過去の悔恨を消すために」


 聖堂内の闇に魔の力が伝播していき、その全てが影の王の支配下と変化していく。

 揺らめく影に、邪悪なる意志が宿る。


「そウカ、ジャンヌ。君の心ハモウ一人に比べテ、随分と明ルイ。熱スラ帯びテイて、目を眩マセる」


 やがて闇の影が一つに集まり始まり、不気味な屈折音を撒き散らしながら一振りの剣の形を取る。

 その剣を枯れ枝のように細い腕で掴むと、影の王は音も表情もなく笑ったのだった。



「だかラ、より影ハ濃さヲ増シ、俺ハ今度こソ、君を超エルこトがデキルよウにナル」



 刹那、影の王を中心に世界が変貌する。

 異形は闇に消え、くすんだ幻がその身を覆う。

 空虚な聖堂はもうどこにもなく、見渡す限りに広がっているのは、存在しないはずの光景だった。




「……誰か助けて。なんで誰も俺を助けてくれないんだよ……」


 気づけばジャンヌは土砂降りの雨が降る道に立ち尽くしていて、彼女の前には一人の青年が冷たいアスファルトの上で寝転がっていた。

 黒い髪は水に滴り、明るい茶色の瞳は光を失っている。

 足を怪我しているのか、道路の真ん中でうつ伏せになっている青年は動けない。

 ふとその青年はジャンヌの方を見ると、縋るように手を差し伸ばした。


「た、助けて――」


 ――グチョ、と聞こえる熟れた果実を踏み潰したかのような音。

 救いを懇願していた青年は突然横を通り過ぎていった自動車に頭部を轢かれ、頭蓋骨から脳髄と血漿を撒き散らし死んでいた。

 真っ赤な血が雨に流され、ジャンヌの足下まで届く。


 そしてそこで世界は暗転し、場面が変化した。




「……誰か助けて。なんでいつも俺ばっかり……」


 ジャンヌは見知らぬ部屋の中で立ちすくんでいて、すぐ傍では一人の青年が顔に痣を創り座り込んでいた。

 さらにその青年の前には狂気に染まった表情の女がいて、その手には少し錆びのついた包丁が握られている。

 青年はわなわなと肩を震わせるだけで、逃げ場はどこにもない。

 

「い、いやだ。やめて――」


 ――ザシュ、と聴こえる耳を覆いたくなるような生々しい刺突音。

 下腹部を深く刺された青年は口腔を鮮血で満たし、痛みに喘ぐ。

 しかし床にぐったりと倒れ込んだ青年に対し、包丁を持った女は何度も刃を突き立てる。

 気狂いの殺意は収まることなく、青年の身体は紅い染みで覆われていった。

 見開かれたままもう決して動くことなき瞳が、ふいにジャンヌを捉える。


 そしてそこで世界は暗転し、また場面が変わる。




「…誰か助けて。なんで俺は救われない?」


 椅子と机が規則的に並べられ、窓からは夕日が射し込む中程度の部屋。

 ここが教室という名称で呼ばれることを知っていたジャンヌは、前方に見える暗緑色の板の前で立つ青年の後姿を何も言わずに見つめていた。

 喧騒は遠く、人の姿はどこにもない。

 するとふいに青年は絶望に染まった表情で近くの椅子に昇ると、天井から垂れさがっているロープの先の輪に首を通す。


「君のせいだ――」


 ――ガタン、と派手に音を立て青年は椅子を蹴り倒す。

 足場を失い、ロープが首に強く喰いこみ顔には血管が浮き出る。

 しばらくの間苦しそうに身体を悶えさせていたが、じきにそれは止む。

 顔は真っ青に色を失い、だらんと脱力した身体は振り子のように揺れるだけ。

 諦観に沈んだ瞳は虚ろにジャンヌの方に向けられていたが、その瞳が何かを語ることはない。


 そしてそこで世界は暗転し、再度場面が変わる。

 



「……誰も俺のことを助けてくれない。ジャンヌ、それはきっと君のせいだ。君がいると、俺は救われない」


 霧がかかった視界の中、ジャンヌは自らの名を呼ぶ黒髪の青年を静かに見つめる。

 そこは人気のない高層ビルの屋上で、夜天に輝く月の数は一つ。

 風凪の闇に、青年は冷たい双眸で浮かんでいた。


「私がいると、貴公は救われない?」

「そうだよ、ジャンヌ。全部、君のせいだ。君のせいで、俺は傷つく。君がいなければ、俺は救われる」


 ジャンヌは唇を小さく動かし、青年に問い掛ける。

 返された言葉には憤りも非難の色もなく、そこにはただ諭すような優しさがあるだけだった。

 

「だからジャンヌ、俺のために死んでくれないかな?」


 青年は一歩ずつ、ジャンヌとの距離を詰めていく。

 手には剣の形をした禍々しい影が握られていて、それは闇の中でなお濃厚に死の匂いを放っている。


「……そうすれば貴公は救われるのか?」

「そうだよジャンヌ。君が死んでくれれば、俺はたったそれだけで救われる」


 延々としていた歩みが止まり、青年はついにジャンヌの下まで辿り着く。

 青年は薄く微笑むと、影の剣を振りかぶる。

 相変わらず表情を変えないままのジャンヌは、それを無言で見やるだけ。



「だからお別れだ、ジャンヌ」



 ――音もなく突き出された剣は、正確にジャンヌの心臓を貫いた。

 咳き込みと同時に血が口から零れ、黄金の瞳の輝きが褪せていく。

 足から力が抜け、両膝が地面につき、倒れ込む。

 

「……アア、感謝スル、コレで俺ハモウ影ではなくなった……」


 粘ついた血が広がっていくのを眺める青年の顔が歪む。

 幼げな童顔は黒く塗り潰され、頭蓋は丸みを失い正方形になる。

 絹白の肌は浅黒く、骨と皮だけに萎んでいった。

 軋んだ哄笑を上げる影の王は、満足そうに空を見上げる――――、




幻影ゆめの時間は終わりだ、影の王」




 ――ピキリ、としかしそこで影に支配されていたはずの世界に亀裂が入る。

 闇に構築されていた光景は砂のように崩れ去り、寂れた聖堂が戻る。

 困惑に狼狽える影の王の目の前には、煌めくばかりの光を放つ黄金の瞳があった。


「……アアアア? ナ、ナゼダ? ナゼ、マダ、イキテイル?」

「貴公は私に幻を見せていたと思っていたようだが、それは間違いだ。世界を支配していたのは貴公ではなく、私の方。私が貴公に幻を見せていたのだ」

「……アア、アア、ソンナ……ソンナバカナ……」


 影の王は理解のできない怯えに後ずさる。

 幻影を支配する魔物の王。

 それが影の王ラグナ・イビ・クロノスだ。

 その自らに対し、反対に幻影を仕掛けるなど、ありえない。

 ありえては、いけないはずだった。


「今でも覚えている。今から三年前、貴公は私にムトの幻を見せ、そしてそのことに動揺した私は我が宿主の身体に傷をつけてしまった。……だからもう一度言おう、感謝する。私に過去の悔恨を晴らす機会をくれたことに」


 幻影の晴れた世界で、影の王は諦観に堕ちる。

 二つの心に、二度の敗北。

 彼の望みはたった一つしかなかったが、結局それは叶わない。


「今になって思う。ムトが貴公にあえて完全に止めを刺さなかったのは、きっと私への配慮のためだったのだな。全てはこの時のため」

「……アアアア……」


 長い、長い、夢を見ていた。

 影が光を凌駕し、賞賛と尊敬に自らの名を呼ばれる夢を見ていた。

 ラグナ・イビ・クロノス、それはかつて彼が初めて影を奪った人間の名だ。

 影の王スキア、それはやがて魔物と人々が畏れを持って口にし始めた呼称だ。

 顔も名も持たない彼は、それでもいつの日か、英雄になれると信じていた。


「……アアア、頼む。覚えてくれ。俺の名は、キアスだ」

「……わかった。貴公の名を私は忘れない」


 ただわからなかったのは英雄キアスがどんな顔をすればいいのか。

 しかしその答えは、自らの名を呼ぶ魔法使いの顔を見れば、わかるような気がした。



「お別れだ、キアス。《寂滅せよヴァニッシュ》」



 ――光が満ちる。


 触れるもの全てを無に帰す光は、影一つ残さず迸っていく。

 誰も訪れることのなくなった聖堂は塵に消えていく。

 少し前から雨の降り出していた外に漏れ出た光は、そのまま分厚い雲のところまで昇っていく。


 光はやがて柱となり、雲を突き破り、雨粒を溶かしていく。

 勝鬨を上げるように、闇が晴れたことを告げるように、光は煌めくことを止めない。



 英雄を目指した、憐れな魔物キアスの影は、もうどこにも残っていなかった。



 

 

――――――




 帝国ゼクターのアレス城。

 主君が不在の城で、一人の少女が口笛を吹きながら上機嫌である帝国兵と向き合っていた。

 少女の身に着けた軍服は、帝国の軍部でも一部の者しか着用することを許されていない特別なもの。

 癖のない茶髪は違う国の生まれであることを示していて、また生まれに寄らない実力の高さを証明してもいた。


「……ここは? 俺はいったい?」

「あー、もう影の支配が終わっちゃったんですかー。残念ですー」

「え? 貴女は帝国魔導士のウルル様――」


 ――甲高い破裂音と共に、少女と向き合っていた帝国兵の身体が血肉に吹き飛ぶ。

 飛沫となった血を頭から浴びながら、少女は恍惚とした表情を浮かべる。

 しかし背後から近づいてくる足音に、片眉を上げて振り返った。



「あれー? なんで貴女がこんなところにいるんですかー? これは予想外ですねー?」

「なははっ♪ どうもこんにちは♪」



 “災厄の九番目”クロウリー・アインシュタイン。

 真っ白なマッシュルームに明黄色の瞳が特徴的なクロウリーは、心底から楽しそうな表情で少女の顔を凝視していた。


「元“強欲な拐奪者スナッチ・スナッチ”のウルル・ロドリゲスさん♪ 実は貴女に訊きたいことがあるんですよ♪」

「……あー、これはまずいなー。なんでバレてるんですかー? しかもこのタイミングとか超性格悪いですねー」


 強欲な拐奪者。

 それは今から三年前、闇の三王を復活させ、世界に混沌を齎した最悪最古の犯罪組織。

 英雄ムト・ジャンヌダルクによって組織は壊滅させられたと云われていたが少女――ウルルはその数少ない生き残りの一人だった。


「なはっ♪ 私にはちょっとした情報提供者がいるんですよ。それにしても影の王が初めに襲ってきた時と同じように、また身内殺しをしてるんですか?」

「うわー。そこまでバレてるんですかー。やっぱり城の中にいた奴を全員殺すのはやり過ぎだったかなー」


 ウルルは頭を抱える。

 生まれつきの殺人衝動。

 それは三年前までは組織に属することで満たされていた。

 組織が四散した後は、大陸一軍部の発達しているといわれる帝国に潜り込んだのだが、彼女の期待は外れ血を流す機会はほとんどない。

 そのため影の王の出現をこれ幸いとして自らの欲望を満たしていたのだが、それが裏目に出てしまったのだ。


「……はー。それで訊きたいことってなんですかー? というかもし答えないと言ったらどうするんですかー?」

「決まってるじゃないですか♪ 貴女を殺します♪」

「ですよねー」


 降参とばかりにウルルは両手を挙げる。

 相手は経歴が浅いとはいえ九賢人。

 まともに戦って勝てる相手とは思えなかった。


「私の訊きたいことは他の生き残りがどこにいるのかです。できれば貴女のような普通の構成員ではなく、“師長”以上の」

「おー。詳しいですねー。わかりましたー。私の知っている範囲のことは全てお話しますー」


 師長。それは強欲な拐奪者の中でも特筆した力と権限を持っていた者たちのことだ。

 六つのグループに分けられていた組織にはそれぞれ六人の師長がいて、その上に副総帥が二人、総帥が一人いた。


「師長のうち生き残っているのは半分の三人だけですー。あと総帥はすでに死んでいて、副総帥は一人だけ生きてますー」

「どこにいるのかはわかりますか?」

「そうですねー。この四人のうち私が行き先を知らないのは一人だけですー」

「ではその三人を教えてください」


 元第一師団師長アイランドは、“幻帝”ヨハン・イビ・グアルディオラのエルフに。

 元第五師団師長シンプソンは、“狂帝”パレスロッティ・ヘットフィールドのアミラシルに。

 元第一副総帥のスチュアートは、“麗帝”モーフィアス・アナスタシア・ヴィヴァルディの神聖国ポーリに。

 そして行方不明なのは元第四師団師長のカルシファ。


 かつての仲間たちの潜伏先を、ウルルは自らの知っている限り全てを話す。


「……なるほど。ありがとうございました。とても参考になりました」

「そうですかー。それはよかったですー」


 丁寧に頭を下げ、礼を口にするクロウリー。

 その様子を見たウルルは安堵の息を吐く。

 これで自らの命が助かったと確信したからだ。


「それじゃあー。私はここら辺でー」


 役目を終えたウルルは、踵を返し城を後にしようとする。

 しかし、ある違和感が彼女を支配し、それは上手くいかない。

 瞳の先に映るのは口角を歪ませる白髪の女の姿で、なぜ自分がその顔から視線を外せないのかわからなかった。



「《時よ歪めアルス・マグナ》」



 気づけば銀色のナイフがウルルの喉元を斬り裂いていて、それを彼女はただゆっくりと眺めていただけだった。

 視界が闇に霞み、口の中が血で埋められてやっと、異常に遅延としていた時間が元に戻る。


「……がばぁ……な、なんで……?」

「なははっ♪ ほら、私って九賢人、つまりは正義の味方じゃないですか。やっぱり悪を見逃すのはよくないかなって思って。……ってなはなっ! 正義の味方って! 我ながら面白いです♪」


 狂気的な笑みを浮かべ、腹を抱えて笑うクロウリー。

 ひとしきり笑い終わる頃にはウルルはもうこと切れていた。

 そしてその事を確認すると、彼女は心の底から羨望の眼差しを向けたのだった。



「……羨ましいですね、死ねるなんて。私も早く“オルレアン”にもう一度会って、今度こそ殺して貰いたいものです。三年前に強欲な拐奪者の誰かと接触していたという話、本当ならいいんですけど」




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