エピローグ1 そしてプロローグ2.③

 結局、雪音のお説教は姉妹が走る番だとはつしばさんが告げに来るまで続いた。

 去り際、雨恵は髪をポニーテールにまとめ上げながら俺に顔を寄せ、片目を閉じてささやいてきた。

「まー、かたきは取ってあげるからさ」

 なにが敵なのかはさておき、それは口先だけではなかった。女子ではクラスで一番だか二番だかのタイムをたたき出したらしい。

 しなやかな手足を野生動物のように瞬発させる雨恵の姿は、普段は怠惰さが台無しにしている天賦の才を感じさせた。昼寝の習慣といい、ネコ科の血でも入ってるんじゃないだろうか。

 ……陸上部のくんに負けた俺でさえ悔しかったのに、あんなサボり魔に負けた運動部女子の無念はいかばかりか。察するに余りある。

 さて、勝ち誇った顔でこちらにVサインなどしてきているあまの妹、ゆきはと言えば。

 ただでさえタイムがあまり良くなさそうだったのに、ゴールと同時、盛大にコケた。あわてて先生が駆け寄るとすぐ起き上がったので深刻な怪我はしなかったようだが、膝をすりむいた上に片足をひょこひょこしている。

 あちゃあ、ひねったかな……?

 先生に続いて雨恵も駆け寄り、二、三言交わしてから妹を支えて校舎の方へ歩き出した。保健室へ行くようだ。

 ………………

 なにかを迷っている内に全員がタイムを取り終え、授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 先生が解散を告げるなり、俺は双子を追って走り出した。

「あー……えと、だいじょうぶか?」

 雪音が怪我をしているせいで二人の移動は遅く、校舎に入る前に追いつけた。声をかけると、雨恵が珍しい顔をして振り向く。

「あ、むらくんっ! ちょうどよかった!」

 顔面蒼白の必死な表情だ。……なんだ? 雪音はそんなに悪いのか? と、身構える間もなく、雨恵は俺の腕を引き寄せながら早口に続けた。

「あたしトイレがピンチなの! ゆきちゃんを頼んだ!」

 左足が痛むらしい妹の肩を強引に預けながら、校舎の中に走って行ってしまう。

「え? ちょっと、あめ!?」

 ぽかんとしている俺と同様、雪音もろうばいしている。二人して、お互いの顔と雨恵の背中を見比べている内に雨恵の姿は校舎へ消えてしまった。

 一瞬、面倒事を押し付けられたのかと思ったが、あの顔色は演技ではないだろう。本当にピンチだったのなら……まぁ、しかたない。

 俺はやや腰を落として、肩の高さを合わせた。

「ぁ……じゃあ、行こうか」

 雪音の肩の温もりにむずがゆいものを感じながら言うと、不器用なクラス委員はためらいがちに小さな声を出した。

「ごめんなさい。お願いします……」

 ふらつく女性を運ぶのは酔っ払った姉さんを運ぶので慣れているけど、同級生女子にそれをするのは全く別のことだった。まず、ひっつきすぎて嫌がられないかというところから始めなければならない。

 まして体育の直後だ。お互い汗をかいてるかられる場所にも気を遣わなきゃならないし、俺は特に、汗を吸った体操着がゆきの起伏に富んだ体を浮き上がらせている事実から意識をそらさなければならなかった。

 なまじ黙っているから、お互いの呼吸と、それに応じて腕の内側を伝う脈動が感じ取れてしまう。ジャージの上着を着てくればよかったと今さら後悔した。

 女子の腕の細さや柔らかさに驚きつつ表情おもてには出さず、心を無にしてゆっくり歩みを進めることしばし──校舎に入ったあたりで、間が持たなくなった。

 雪音が上履きを履き替えるのを待って、また肩を貸しながら、話を振ってみる。

「あの……推理小説とか好きなの?」

「え? なんで……」

「さっきシャーロック・ホームズの言葉とかすぐ出てきたし、この間も謎解きみたいの好きだって」

「まぁ、その……好きです。マ、マニアってほどではないんですけどね」

 照れなくてもいいのに。と思ったが、間近で見る彼女の照れ顔は……なんと言うか、マニアックな良さがあるような気がしないでもない。

 そんな雪音は、今も血がにじんでいる自分の膝小僧を見下ろしてぽつりとこぼした。

「でも……こんな運動音痴じゃ探偵には向きませんね。双子なのに、あめとはひどい差……」

「そんなこと……あ、でも、現場に行かない名探偵ってのもいるよな」

 沈んでいた彼女の顔が、にわかにホップした。

あんらくたんていですか?」

「そう、それ。家の椅子に座ったまま遠くの事件を解決するって意味だったっけ」

「そうですけど、これにはいろんなパターンがあって──」

 それから少し、安楽椅子探偵にまつわる雪音の講釈が続いた。あの日の放課後、浮気相手の正体を検討していた時と同じ、き活きとした顔で。

「……でも、よく知ってましたね」

「最近見た動画で話してたんだよ。なんかマスクで顔を隠した、俺たちくらいのの子がミステリー小説のレビューを──」

 言いかけた頃にはもう、保健室が間近に迫っていた。だが、言葉を切ったのは視線を感じたからだった。

 ──保健室のすぐ近くにある職員用トイレから出てきたあまが、わざとらしく口元に手を当てながらこちらの様子をうかがっている。こちらが気付いたと見るや、ぺたぺたと軽薄な足取りで近寄ってきて、言った。

「いやいや、二人ともすっかり仲良しじゃん。なんかトーク弾んじゃってさ」

「いるんならさっさと声かけろよ」

 俺は照れ隠しも混じった文句を言ったが、あまが相手ではのれんに腕押しだった。

 ゆきはと言えば、ぎこちなく俺から身を離して、保健室をノックしている。先生は不在のようだった。

あめ、消毒とか手伝って」

「はーい」

 そうして二人は、ようやく保健室へと入っていく。戸を閉める前、雪音は半面だけ振り返って俺を見た。

「あの……」

「ん?」

「送ってくれて、ありがとうございました」

「っ…………」

 俺は斜め上の方へ視線をさまよわせ、「うん」とか「いや」とか、どっちつかずの返事を何度か言った。

 顔の火照りが冷めた頃には双子はもう保健室に入っていたけれど、雪音の微笑した気配だけがうっすらと廊下に残っていた気がする。


 ……結局、体育の授業も休み時間もあの双子に振り回されてしまった。全力疾走した疲労と、打ち解けない感のある雪音と二人きりでいた気疲れに大きな息が落ちる。

 でも、まぁ……雪音の趣味とか知れたし、少しは受け入れてもらったと思っていいのだろうか。もしそうなら、疲れたはあった。

 しばらくは、あの双子にはさまれた席でやっていくのだ。仲良くするに越したことはない。この間みたいなはもうやらないにしても。

 ……と、そう思っていたのだが。

 俺たちの「探偵」は、まだ続いていた。

 そして、この時に知った雪音の推理小説趣味が次の面倒事ケースに思わぬ形で役立つことを、まだ誰も知らなかった。

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