2-2 絆
「なんだ……その、元気にしていたか?」
「まぁ、ぼちぼちかな」
「そうか」
ボンドと呼ばれた女性と宇美は、近くに設置されていたベンチに並んで腰掛けていた。宇美はボンドの横顔を見つめる。そこには、うっすらと陰がかかっていた。それでも、強さを感じさせた。宇美が自分を鏡で見たときに感じる脆弱さは、その横顔にはなかった。
「もう軍属じゃないから、スカイと呼ぶのはやめてほしい」
「なぜだ? わたしにとってはずっと戦友だ」
ボンドは宇美が軍を抜けた理由を知っている。宙のことだって知っている。しかし、そのことと宇美のコードネームの由来とが、結びつかないようだ。昔から、ボンドにはそういうどんかんなところがあった。
「私もそうだけど、ボンドもこの戦争で大切な人を失ってる。そうだよね?」
宇美が唐突にデリケートな話題に触れたため、ボンドは一瞬眉をひそめたが、宇美が何かを伝えようとしているということに気づいて、話を聞く姿勢になる。
「私の大切な友達の名前は宙。私のニックネームはスカイ」
「なるほど。そこまで説明されれば理解できる。それ以上は言わなくていい。辛いだろうから。今でも未練があるのか?
「そりゃあ、そうに決まってる」
「わたしのコードネームが、なぜボンドなのかは知っているか?」
「そういえば、聞いたことないな。絆という意味だったか」
「人と人のつながりを表す言葉だ。いい意味なら絆だし、悪い意味なら枷や束縛だ」
「絆しか知らなかった。そんな裏の顔があったとは」
「裏の顔か……。でも、正しいかもしれないな」
ボンドにも裏の顔があるのだろうか。この堅物な人間に。自分より一回りほど背の小さいボンドの姿をしげしげと見つめた。
「なんだ」
「裏の顔とか、想像できないなって思った」
「わたしは1歳にも満たない娘と夫を、この戦争で亡くしている」
その話は宇美の耳にも入っていた。本人の口から直接聞いたわけではなかったが、噂というものは独立独歩の精神に満ちているらしく、同じ部隊のほとんどの人間が知っていることだった。
「だからボンド? 忘れないようにって?」
「初めはそのつもりだった。亡き夫と娘との絆をコードネームに刻んでおこうと思った。だが、後で辞書を引いてみると、束縛やかせのような、良くない意味の言葉としても使えるということが書かれてあった」
その通りだと思ったんだ。ボンドは虚空を見つめて言った。その目の見つめる先には何があるのだろうか。
「大切な人との思い出を大事にするのは大切だ。それでも、過度に執着することは身を滅ぼす」
宇美は、ボンドが何を言おうとしているのか、察しが付いてしまった。心身共に時ならまだしも、心身共に疲弊しきった宇美にとってはあまり受け入れたくない話に決まっていた。その先は言うまい、とばかりに、宇美は話を戻す。
「とにかく、スカイと呼ぶのはやめてほしい、それだけの話なんだ」
「……そうか。わたしの考え方を無理に押しつけようとしてしまったな。済まなかった」
そう言ってボンドは頭を下げる。そこまでされるようなことではなかったので、顔を上げるように促す。
「ボンド、今から私が2つ質問をするから、答えてくれないかな?」
唐突な申し出にボンドは戸惑っていたが、すぐに承諾してくれた。
「ある国に、独りの兵士がいました。その兵士は、戦争で恋人を亡くしてしまいました。しかし、しばらくして死んでしまったはずの恋人が戻ってきました。そこで質問。その兵士はどんな気持ちになったと思う?」
ボンドは既に家族を失っているから、こんな質問をするのは酷かもしれなかったが、自分の置かれた状況を誰かと共有したかったのだ。負の感情は、共有することによって緩和することが出来る。
「わたしならば、飛び上がるように喜ぶだろうな。手を取って、走り出すかもしれない。並んで歩いたり、好きなものを買って、好きなものを食べたりするだろうな」
まるで本当に家族が戻ってきたかのように、ボンドは目をつむりながらうわごとのように話す。まぶたの裏には、死に別れてしまった家族の姿が映っているのかもしれない。
「その兵士は帰ってきた恋人と楽しく暮らしていました。それはもう幸せな生活でした。でも、あるとき、恋人だと思っていた人は偽物だったというこのが分かるのです」
「ど、どういうことだ?」
「その恋人は、敵軍が作り出した恋人のクローンだったのです。あなたは、このクローンをどうする?」
「わたしなら、そのまま一緒に暮らしていくだろうな」
ボンドの回答に宇美は耳を疑った。ボンドは今、迷いもせずに言い切った。
「確かにその人は偽物かもしれない。それでも、少しの間幸せを届けてくれたのは確かなんだ。それならわたしは、そのクローンに感謝する」
それは強い意志と覚悟によって裏付けられた言葉だった。清濁を併せ呑むボンドという名前。それを冠する1人の兵士の生き様が、そこにはあった。
宇美は急に自分の存在がちっぽけなもののように感じ始めた。ボンドはそう言っているが、そんなものは理想に過ぎないではないか。実際に私のような立場に置かれたらきっと狼狽するはずではないだろうか。
そうだ。ボンドはただ自分の本心を隠しているだけだ。そうに決まっている。強引に結論づけることで、宇美は自分の脆弱になった心を守った。
「ありがとう、変な質問に答えてくれて」
「安い用だ。何かあったら、いつでも相談してくれ」
ボンドは電話番号の書かれた紙を渡してくれた。お返しに宇美も渡す。互いに交換しながら、なんだか友達になりたての学生みたいだな、と笑った。
「ありがとう。話相手になってくれて。そろそろ立って歩くことが出来そう……な気がする」
「無理はしないでくれ。だが、顔色は少し良くなった気がするな」
ボンドと別れた宇美は、深夜の飲み屋街を当てもなくさまよっていた。これ以上飲むわけにはいかない。だが、このまま家に帰っても『宙』に向き合える自信がない。ボンドが言っていたことは確かに正しい。『宙』がやってきたことで、私の生活はがらりと変わった。楽しくなかったといえば嘘になる。本音を言うなら、幸せすらも感じていた気がするのだ。
宇美が意を決して帰宅しようとしたその時だった。 前方に、見覚えのある茶髪が現れた。
見覚えのある、なんて曖昧なものではない。そう。あれは完全に。
紛れもない、『宙』だった。
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