8

 だめ――


 朦朧とする意識の中で、エレノアは叫ぼうとして、失敗した。


 泉の妖精たちに引きずられるようにして連れてこられたのは、泉の妖精の城にある聖堂だ。


 目の前には真っ白なドレスを着たカモミールの姫と、シルバーのスーツ姿の妖精の王子の姿がある。


(どうして――こんなことに……)


 目の前の青灰色の髪をした男を、エレノアは知らない。


 泉の妖精の王子だと彼は言ったけれど、エレノアの知る泉の妖精の王子は、水色の金魚の形をしている。


 こんな――、綺麗だけれどぞくりとするような冷ややかさをまとった妖精じゃない。


 もっと愛嬌があって可愛らしく、カモミールの姫のことが大好きで、大切にしている優しい妖精だ。


(逃げて――)


 虚ろな目をしてたたずむカモミールの姫に、エレノアは必死に告げようとした。だが、もう口を動かす力もない。


 頭が痛い。


 疲労感なんて可愛いものではない倦怠感が全身を襲う。


 意識を保っていることも難しくて――、でも、エレノアは必死で目を開けた。


 何とかしてカモミールの姫を逃がさないと。このままではいけないと、エレノアは全身全霊で自分の意識をつなぎとめる。


「最後まで薬を飲まないなんて強情な方だ。頭が割れるように痛いのでしょう? 飲めばいいのに、ほら――」


 エレノアに視線を向けた泉の王子が言って、妖精が小瓶を持ってくる。


 エレノアがゆっくりと、しかし強い意志を持って首を横に振れば、泉の王子は肩をすくめた。


 あとで無理やり飲ませるなんて恐ろしいことを言っているが、絶対に飲まない。あれは飲んではいけないものだ。理由はわからないが、本能が告げる。


 泉の王子はエレノアへの興味を失ったようにカモミールの姫に視線を戻し、その滑らかでふっくらとした頬に口づけた。


「さあ、式をはじめましょう――」


 泉の王子が、祭壇の上においてある指輪に手を伸ばす。


 ダメ――、エレノアは叫びたくて、大きく息を吸おうとしたが、やはり失敗した。


(おねがい、逃げて――)


 カモミールの姫は、ヤマユリの王子が大好きなのだ。ヤマユリの王子と結婚して幸せそうなのに、こんなことってない。


 叫べない悔しさに、ぽろりとエレノアが涙をこぼしたときだった。


「ふ―――、ざけんじゃないわよ―――!」


 虚ろな目をしていたカモミールの姫が、くわっと目を剥いて、泉の王子に容赦ない頭突きを食らわせた。


「エレノア! なにぼさっとしてんのよ! 起きなさい! 気合で起きなさい! 逃げるわよ!」


 頭突きをくらわされて泉の王子がよろけた隙に、カモミールの姫がエレノアのそばまで飛んでくる。ばしばしと容赦なく頬を叩かれて、エレノアの意識が少し浮上した。


「わたしはいいから、早くにげて……」


 カモミールの姫の言う気合かどうかはわからないが、声は何とか出せるようになったけれど、体に力は入らない。


「いいから、早く立って―――」


 カモミールの姫が、エレノアの手を引っ張って無理やり立ち上がらせようとしたときだった。


「姫――、悪い子ですね」


 冷ややかな声がしてエレノアが顔をあげるのと、泉の妖精の王子がカモミールの姫の手をひねりあげるのはほぼ同時だった。


「い、痛い痛い痛いってば! 放しなさいよ!」


 カモミールの姫がバタバタと暴れるが、泉の王子はそれを難なく押さえつける。


「悪い子は、もっときつくしつけないといけませんね」


 うっそりと笑って、泉の王子はカモミールの姫を羽交い絞めにしたまま祭壇の奥の方へと進んでいく。


「だ、め―――」


 エレノアは顔をあげて、祭壇の奥に黒い何かを見つけた。それを見た途端、ゾクリ、と肌が泡立って、どうしようもない寒気がする。


 奥にあるのは、猫がひっかいたかのような黒い割れ目。そして、その周りに真っ黒い何かが生えている。


(あれ――ポールさんが持っていたやつ……)


 黒い水晶だ。雪だるまの妖精を黒く変色させた、水晶。


 泉の妖精の王子は、その水晶に手を伸ばすと、パキリと一かけ折って、手の内でもてあそんだ。


「もっときついのをあげましょうね。二度と逆らえなくなるように。ねえ?」


「い、いやだっつってんでしょ―――っ」


 カモミールの姫がいやいやと首を振る。


 泉の妖精の王子は、黒い水晶の欠片をカモミールの姫の口元に近づけて――


「や、めて―――!」


 エレノアは全身の力を振り絞って、転げるように立ち上がり、そして祭壇の奥へと駆けていく。


 ドン! と泉の妖精を突き飛ばした、そのとき。


「エレノア!」


 猫がひっかいたような傷に、勢い余ってぶつかってしまって――、その瞬間、エレノアは忽然と姿を消した。

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